青空に浮かぶ月 12


 それは突然のことだった。

「あんたが、フカミツヨシ?」

 綺麗な服を着た、服にも負けないぐらいの綺麗な女の人が真っ赤なマニキュアを塗りたくった人差し指を俺に突きつけた。
 丁度、仕事帰りに携帯を見ると我が家にしょっちゅう来る王様、いや強姦魔から「ホテルのロビーで待ってろ」と言うなんとも簡潔なメールが届いていて、断るのも面倒だった俺は大人しくホテルのロビーで待っていた。
 椎名が俺をこうして呼び出すのは珍しいことではない。大体は「部屋で待ってろ」とか「所沢に会え」だの、あまり目立たないところに呼び出すことが多かった。
 だからホテルのロビーと言う半端なく目立つところに俺を呼び出すなんて、珍しいなと思っていた。
「はぁ、まぁ、そうですが」
 いきなり俺の本名を出されて、「違います」と言えるほど危機感なんて一切持ち合わせていない俺は、曖昧ながらに答えた。真っ赤な爪の女性は俺をジロジロ見つめてから「ふぅん」と納得したような声を出した。
「シュンペイと一緒に居るって本当?」
「……は?」
 シュンペイって言うのが椎名の名前だって気づくのに、少しだけ時間が必要だった。
「俊平の携帯にアンタの名前が登録されてたから、メールしたんだけど」
「はぁ……」
 やっぱりあの少しだけ不可解なメールは、このホテルの支配人からのメールではなくこの目の前の女性からのようだった。こんな綺麗な人が、俺を呼び出すなんてどんな用件なんだ。
「あんた、俊平にとって何なの?」
 嫌悪感と軽蔑を込めた眼差しで見る女性に「んなの、こっちがききてぇよ」と言いそうになるのをぐっと堪えて「さぁ?」とはぐらかした。
 椎名が俺のことをどう思ってるかなんて、俺に分かるわけない。俺と椎名の関係だって、そうたやすく言えるようなもんではない。
 ほんの少しだけだが、俺の中で芽生えてきた感情に抵抗している。認めるとか認めないとか、許すとか許さないとかじゃなくて……。
「だって、俊平が他人の番号登録してるなんて珍しいもの」
「……珍しいも何も、携帯なんだから番号ぐらい登録するでしょう」
「今まで俊平のアドレスには誰の名前も登録されてなかったんだから」
 ……そんなこと知るかよ。
 と言うより、人の携帯を勝手に見てしまうこの女に俺は若干の軽蔑を覚えた。椎名とどんな関係なのかなんて聞くつもりも更々ないが、椎名の携帯を見て俺にメールしてくる根性は大したものだ。
「基本的に俊平って自分から連絡はとらないタイプなの。番号は教えるけど、自分は絶対に登録しない。……俊平が他人の番号入れるなんて、何かあるに決まってる」
「……知らない」
「だってあなた、俊平から呼びだし食らって大人しく来るってことは、このホテルに何回も呼びだされてるんでしょう?」
 女はため息交じりに「そうなんでしょう?」と何も答えない俺に、付け足して言う。言われる通り俺は何度もこのホテルニューシイナに呼び出しをくらっている。だから、ホテルって言われたらここしか思いつかなかった。
 椎名のメールアドレスで、他人からメールが来るなんてこれっぽっちも考えちゃいなかった。
「……一体、あなた、俊平とどういう関係なのよ」
 何も答えない俺に女はしびれを切らしたように、俺の肩を掴んだ。どういう関係か? そんなの分かるわけねーだろ。
 ききてぇのはこっちなんだってば。
「……まさかとは思うけど、恋人なわけ……、ないわよね?」
「違う」
「そこは即答するのね」
 女は大きく息を吐いてから、「そう……」と勝手に納得して俺から離れる。軽蔑と絶望と、強い同情を含んだ目で見られ嫌気が差した。
 何が言いたいのか全然わからないし、俺と椎名の関係がこの人にどう影響しているんだ。
「あなたも分かってると思うけど、俊平は誰でも抱くわ」
 はっきりと言う女の声は、さっきより強くてなんだか俺が責められているみたいだった。
「……傷つく前に、俊平とは別れることをお勧めするわ」
 女はそう言うと俺に背を向けて、ホテルから出て行った。俺はポツンとロビーのソファーに座って、女性の後ろ姿を茫然と見送っていた。
 別に付き合ってるわけじゃねぇよ。勘違いすんなっつーの……。つーか、俺、否定したのになぁ。
 椎名が誰とでも寝るのを、俺は知っている。
 穴さえあれば、誰でも良いって言ったのを今でも忘れない。
 それが分かった上で、今の関係をダラダラと続けているんだ。断ろうと思っても、断りきれないから。
 俺は椎名と一緒に居たくて、一緒に居るわけじゃないんだ。
 そんな俺も気持ちも知らずに、あの女はズバズバと言いたいことだけ言って居なくなってしまった。俺が関わらなくても良いように椎名に言えば良いのに……。
 俺なんかにじゃなくて。
「……あれ、深見さん……、ですか?」
 まだ入り口を見つめていた俺の目の前に現れたのは、椎名のボディガード兼秘書みたいなことをしている所沢さんだった。
「え、あ……」
「支配人と、お約束ですか?」
 所沢さんは俺を見ても軽蔑するわけでもなく、優しい笑みで俺を見つめる。さっきの女に見られていた目とは正反対で、ほんの少しだけ心に安らぎが出来てしまった。
「いや、あの、違うんです」
「あ、お仕事でしたか? いつもは厨房……、ですよね?」
 所沢さんは何で俺がここに居るのか分からないようで、首を傾げて思いついたことを言葉にして行く。所沢さんが言ったことは全て的に外れていて、聞いていて胸が苦しくなってしまった。
「違うんです……。用があってここに来たわけじゃぁ……」
「……そうなんですか。支配人と、お会いになられますか?」
 用があってここに来たわけじゃないって言ったのに、所沢さんはにっこりと微笑んで俺にそう尋ねた。椎名と会いたいってわけじゃなかったが、さっきの女のことを聞いてやろうと思って俺は小さく頷いた。
 それを見た所沢さんは「では、こちらへ」と言って、俺を連れて従業員用のエレベーターへと向かった。
 このホテルへ呼び出しをされると、必ずと言っていいほど所沢さんが俺を待ちかまえている。椎名の部屋に行くには、所沢さんが持っているカードキーと暗証番号が必要だ。
 部外者である俺がその部屋に入ることは許されない。エレベーターに乗りながら、俺は沈痛な面持ちで床を見つめていた。
「そろそろお仕事も終えるころだと思いますので」
「……え」
「支配人です。ここ最近、色々と立て込んでいらっしゃったのでお忙しかったのです」
 所沢さんは優しい笑顔で俺にそう話した。なんだか、椎名が俺の家に来なくて寂しがっているみたいに思われてる。
 そんなんじゃ……、無いのに。
 それにアイツは時間さえあれば、うちに来ていたじゃないか。朝方になると電話がかかってきて、早くから出て行くことが多かったけれど。
 最上階につくと、所沢さんは歩き出してコンコンと部屋をノックする。中からは反応がなく、所沢さんは「あれ」と呟いてからそっと部屋の中を開けた。
 中には誰もいない。
「……いらっしゃいませんね。深見さん、どうされます? 中で待たれますか?」
「待ってみます」
 さっきからずっともやもやしている気持ちは、きっと椎名に会わないと消えない。あの女が言っていたことも気になるし、どうせアイツのことだからすぐに戻ってくるだろう。
「では、お茶をお出ししますね」
「あ、いや、気を使わないでください。さっきまでコーヒー飲んでましたから……」
 俺に背を向けてエレベーターへと戻ろうとする所沢さんを必死に止めると、所沢さんは「分かりました」と言って微笑む。所沢さんは、俺の何十倍も何百倍も椎名のことを知っているんだろう。
 女に言われて思った。俺は椎名のことを全く知らないんだ。
「……あ、あの……」
「何ですか?」
「アイツ……、椎名は今、何人と付き合ってるんですか?」
 所沢さんなら知ってると思って、聞いてしまった。所沢さんは一瞬、きょとんとした顔をしてからクスクスと笑って俺を見る。
「そう言うことは、ご本人に聞いた方がよろしいかと思いますよ。私から聞くより……、ね」
 朗らかな笑顔で断られ、俺は項垂れながら椎名の部屋に入った。所沢さんに聞くなんて、確かにフェアじゃなかった。
 だけど、ああ言う言い方をしてくるってことは、所沢さんは椎名が今何人と付き合ってるかって知ってるんだ。
 分かってたことだけど、もやもやした。
 ソファーに座って、部屋から見える市内の景色を眺めていた。夕焼けのオレンジ色が、どんどん濃くなって東の方はもう濃紺に変わっていた。
 ここで見る景色は綺麗だ。そして、初めて来た時のことを思い出す。
 胸が締めつけられた。
 ことんと物音がして振り向くと、お茶は要らないって言ったのに所沢さんがわざわざお茶を持ってきてくれていた。
「あ、すみません」
「いえ。支配人を見つけましたら、深見さんが来てることを教えておきます」
「……すみません……」
「謝らないでください。あなたは何も気にする必要はございませんよ? ……この部屋に入れるのは、あなただけですからね」
 所沢さんは相変わらず笑顔で俺にそう言う。俺を安心させるためにそう言ったのか、それともさっきの質問のことからこう言ったのかなんて分からない。
「……余計なことを言うな。所沢」
 入り口から不機嫌そうな声が聞こえて、俺と所沢さんが一斉に振り向く。そこには声と同じように不機嫌そうな顔をした、このホテルの支配人が立っていた。
「申し訳ありません」
 所沢さんは椎名に一礼してから、俺に「では、失礼します」と言って俺の隣から遠ざかっていく。椎名とすれ違いざまに耳打ちをしてから、悪戯をした子供のように微笑むとパタンと静かに扉を閉めた。
 椎名は俺を見て大きく息を吐くと何も言わずに机の前まで移動し、手に持った書類を机の上に置いて椅子に座った。
「お前から来るなんて、珍しいな」
「このホテルの支配人様から呼び出しをくらったから、ここへ来たんだよ」
「はぁ?」
 椎名は意味が分からないと言った顔で俺を見ている。俺を呼びだしたメールは椎名からだったが、実際には椎名じゃなかった。身に覚えのないことを言われ、椎名は首を傾げていた。
「送信履歴を見てみろよ。お前の女が、俺を呼びだしたんだよ」
「女だと?」
 椎名は内ポケットから携帯を取り出して、カコカコと操作している。ピタッと指の動きが止まって、俺をジッと見つめた。どうやら、自分が送った記憶の無いメールを発見したみたいだ。
 携帯を閉じてから椅子にもたれかかって俺を見る。その目は何を考えているのか全く分からなかった。
「どんな女だった?」
「特定できないほど、心当たりがあるんだな」
 もう椎名の顔が見れなかった。所沢さんが淹れてくれたお茶は紅茶で、カップから湯気が出ている。その湯気を見つめていると、グイッと腕を引っ張られる。
「やっ……」
「どんな女だったかって尋ねてるんだ、答えろ」
 椎名の顔はちょっとだけ怒っているようで、「ああ、初めて見たな」と全然違うことを考えてしまった。俺をからかったり、バカにすることは多いけれど、こうして怒ることは初めてだったように思う。
「高そうなグレーのスーツを着てて、赤いマニキュア塗ってる、気の強そうな女だった」
「髪型は?」
「ダークブラウンのストレート。胸の辺りまであった」
 淡々と答えると椎名は「……そうか」と言って、俺の腕を引っ張って部屋の奥へと連れて行く。
「ヤダ」
 その奥へ行けば何をされるか分かってる俺は、椎名の腕を振り払った。あんな目で見られて、あんなこと言われて、椎名とヤれるほど俺は度胸があるわけじゃなかった。
 そして、そこまで椎名を信じているわけでもない。
「なんか言われたのか?」
「何だって良いだろ」
 椎名は面倒くさそうに息を吐いて、俺の腕を掴んだまま無理矢理部屋へと連れて行く。コイツはいつもそうだ。俺が拒んだって、いつも無理矢理やるんだ。
「お前と関わるなって言われたんだよ!!」
「俺と関わるな?」
「……俺とお前の関係は何なんだって言われて、俺が傷つく前に別れろって言われたんだよ……」
 怒り任せに言うと椎名はケラケラと笑った。何で笑ってるのか分からない俺は、腹を抱えて笑っている椎名を見上げた。
「別に、俺とお前の間に関係なんて何も無いだろ?」
「……は……?」
「別れるも何も、付き合っても無いのに何を別れるんだ。バカバカしい」
 椎名にそう言われて、ちょっとだけ納得してしまった自分が居た。俺と椎名は付き合ってるわけじゃない。言われてみれば、別れるも何も無いな。
 俺の心の中を曇らせていた靄がすーっと晴れていってしまい、自分の単純さにもうんざりした。
「ああ、あと。所沢に変なことを聞くな」
「はぁ?」
 椎名は呆れたように俺を見て、ベッドの上へと座らせる。その前に仁王立ちされ、俺は顔を上げて椎名を見る。
「俺は誰とも付き合っちゃいない」
 そこでようやく、俺が所沢さんに聞いたことを思い出した。誰とも付き合って無いって言葉に安心したが、俺みたいなヤツがゴロゴロいることを考えるとずんと頭の中が重くなる。
 この感情は何なんだ。
「……それともお前は、こんな俺と付き合いたいのか?」
 試すように聞いてきた椎名に、俺は「まさか」と否定して目を逸らした。
 椎名が「こんな俺」と、自分を卑下するのは初めてのことだった。





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