青空に浮かぶ月 13
椎名と一緒にいると、自分が自分じゃない気がする。
正直に言って分からないんだ。嫌いなのか、そうじゃないのか。アイツに言われると納得してしまう自分がいるし、アイツの誘いをもう拒めなくなってしまった。
変わっていく自分が怖い。
平凡極まりない俺が、どんどん平凡じゃなくなっていくことが、とても怖かった。
一難去ってまた一難と言う言葉を思い知った。
最初の一難は、この前綺麗な服を着た気の強そうな女に「椎名と別れろ」と言われたこと。
そして、次の一難はそんなのよりももっともっと悲惨なものだった。
相変わらず椎名は、俺の家に通い続けている。そんなことにも慣れてしまって、俺はついに椎名の灰皿まで購入してしまった。
灰皿を眺めてる自分を見て、バカだと思った。しかも、気に入った灰皿を手に持って会計までしてしまったんだ。
本当に自分にはうんざりする。
「……灰皿、買ったのか?」
テーブルの上に置かれている青いガラスの灰皿を見て、椎名が呟く。直径10センチぐらいの小さいガラスの灰皿は、青が綺麗だったから気に入った。
俺に背を向けているから、椎名がどんな表情をしているか分からない。
「いつまでも缶を灰皿にされると、片づける俺が面倒だからな」
椎名は少しだけ笑って「今さら」と言い、いつもの定位置に座った。灰皿を持ち上げて、蛍光灯に灰皿をかざした。
「綺麗な青だな」
「……だろ」
綺麗と思って買ってきた灰皿を、椎名も綺麗って言ってくれてちょっとだけ嬉しかった。
同じ感性を持てたことが、嬉しかった。
「明日から、1週間ほどアメリカに行かなきゃいけなくなった」
椎名は灰皿を眺めながら、いつも通りそう言った。なんて言ったのか分からなくて、俺は「は?」と問い返す。
「ニューヨークに新店舗を作る計画があってな。明日から1週間ほど、アメリカに行く。と言ったんだ」
「……へ、へぇ……」
つまり、これから1週間ほど椎名は俺の目の前に現れなくなるってことだ。それは俺にとって凄く凄く嬉しいはずなのに、素直に喜べない自分がいた。
心のどっかが詰まってしまった気分だ。
「早かったら今週中には帰れるが、多分無理だろうな」
「1ヵ月ぐらい、滞在すれば良いのに」
椎名の斜め左に座って、俺はテレビのスイッチを入れた。夜中から始まるニュースを流し見しながら、俺は椎名の反応を伺っていた。
「所沢がいるから、開けても大丈夫だろうな。ニューヨークに行ったついでに、アメリカ全土を観光しても良いかもな」
「金持ちは言うことが違いますね」
所沢さんがいるから大丈夫。俺のことなんて、全く気にしてない椎名の言動にいらつきながら、俺はテレビをジッと見つめた。
バカらしい。椎名に言われて拗ねてしまうなんて。
「元はと言えば、お前が1ヵ月帰ってくるなとか言うからだろうが」
「1年ぐらい行ってれば?」
思ってることとは反対の言葉がどんどん出てきて、自己嫌悪に陥った。俺が言ったから、本当に1年も帰ってこなかったら? 俺はやっと椎名に解放されたって喜ぶんだろうか。
俺は本当に椎名から解放されたいんだろうか?
「さすがに1年も開けることはできない。それに新店舗ができるまで、当分はアメリカに行ったり来たりになるだろうな」
「へぇー……」
「俺の親父は人使いが荒いからな」
それでも、椎名に任せるほど椎名は期待されてるってことじゃないか。なんだか、聞いているとイライラしてきた。
「興味なさそうだな」
「興味ねーよ」
特に関心のあるニュースなんて一つも無かったから、リモコンを弄りながら椎名の言葉を流していた。これ以上喋っていたら、何を言ってしまうか分からない。
思って無いことばっかり出てくる口なんて、要らない。
グイッと腕を引かれて、俺はソファーの上に押し倒された。見上げると椎名はほんの少しだけ笑って、俺の顎を撫でる。
「1週間居なくなるから、俺のことを忘れられなくなるぐらい抱いてやる」
「……いらねーよ……」
「遠慮は無用だ」
椎名はにっと笑うと俺に唇を合わせてきた。忘れられなくなるぐらい抱いてやるだなんて、抱かなくても俺は1週間ぐらいじゃぁ椎名を忘れることは無い。
きっと、一生忘れることは無い。
ああ、もう、俺は戻れないところまで来てしまったんだ。
椎名のぬくもりが、凄く心地よかった。
翌朝、椎名は俺が寝ている間に家を出て行こうとしていた。ゴソゴソと物音で目を覚ましたから、少しだけ目を開けると椎名は俺に背を向けて着替えていた。
今日からアメリカに行くから、1週間は会えない。1週間見ることの出来ない後ろ姿を目に焼きつけるように、ジッと見つめた。
椎名がくるっと振り返って薄目を開けている俺を見た。起きていることには気付いていないようで、俺の髪の毛を掻きあげると触れる程度のキスをして部屋から出て行った。
パタンと玄関のドアが閉まる音がして、急に心拍数が上がった気がした。寝てたら気付かなかっただろうけど、あれは卑怯だ。
なんつーことをして行ってくれたんだ……。
それから寝れなくなってしまった俺は起き上って、片付いていないテーブルの上を片付けた。椎名が綺麗だって言ってくれた灰皿に、少しだけ吸いがらが残っている。
椎名が吸っていたタバコ。
それをゴミ箱に捨てて、灰皿を洗った。まだ買ったばかりだから、綺麗に輝いている。
出来るだけ綺麗に使おう。
この灰皿だけが、俺と椎名の繋がりのように感じた。何も繋がりが無い俺たちだけど、「綺麗だ」って言ったこの灰皿だけが繋がっている。そんな気がしていた。
椎名がアメリカに行ってから3日が経った。今日は金曜日で早かったら今週中に帰れるって椎名は言っていたけれど、多分帰ってこないだろう。
ほぼ毎日のように椎名がうちに来ていたけれど、来なかった3日間はなんだか気抜けしてしまった。
家に居てもボーっとしてしまうし、仕事も頭の中に入らない。ミスはしなかったけど、ミスしなかったことは奇跡に近い。
やっぱり俺が俺じゃなくなっている。椎名が居なくなって寂しがってるなんて、気持ち悪い。
ほんとはせいせいしなきゃいけない。椎名のことなんて忘れてるふりをしなきゃいけない。
そう思えば思うほど、椎名のことを考えてしまっている自分が居た。
「……深見、剛だな?」
家の駐車場から、家までの間。その数分間を歩いている時だった。
名前を呼ばれて振り返ろうとする前に、ガツンと後頭部に衝撃が走って俺は頭がクラクラしてその場に倒れ込んだ。
やっと長い1週間が終わって、これから一人でのんびり酒でも飲もうと思っていたのに。
薄れゆく意識の中で俺の目に入ったのは、目だし帽を被った数人の男が俺を囲んでいる姿だった。
冷たく硬い床の上に寝転がされ、水をかけられて俺は意識を取り戻した。手が背中にまわされて縄で拘束されている。
見慣れない床と見知らぬ人に囲まれているのを見て、背筋が凍った。
「深見剛だな」
名前を呼ばれて目を動かすと、一度だけ見たことのある人物が目に入った。あれは、この前キャビンアテンダントとの合コンで幹事を務めていた河野だ。
「こ、河野……さん……?」
頭がガンガンとしていて、声が上手く出せない。何でさん付けしてしまったのか分からないけど、俺が名前を呼ぶと河野はにっこりと笑う。
「覚えてたんだ」
「おぼ、えてるも、なにも……」
職業柄人の顔と名前はすぐに覚えるようになった。それに椎名と仲良さそうに喋っていたから余計だ。
「あぁ、椎名と一緒に喋ってたから覚えてんの?」
河野は少し楽しそうに笑って、寝転がっている俺に視線を合わせるようにしゃがんだ。それでも寝転がっている俺からしたら、見下されているようで気分が悪かった。
頭も痛いし、濡れてて寒い。まだ秋だと言っても、もう半袖じゃぁ過ごせれないぐらい寒くなった。それにこの部屋はコンクリートで出来ているから、床が冷たくて余計に寒い。
このままじゃ、風邪をひくのも時間の問題だった。
「一体、何を……?」
頭痛が少しだけマシになってきたから、はっきりと喋るとこうのは笑ったまま俺を見つめている。
「分からない? なんで、こんなことされてるのか」
分からないから聞いているのに、何で分からないの? みたいなバカにするような顔で河野は俺を見ている。
「……分からないから聞いてるんだけど……」
河野はにっこりと笑ったまま、俺にこう言った。
「二度とさ、椎名に関わらないでよ」
「……え?」
「君と椎名がさ、一緒に居るの知ってるんだ。椎名って今まで、誰とも付き合ってこなかったし、誘われたら気が向くままに男でも女でも抱いてたんだよね。それがさ、突然君が椎名の前に現れてからぴたりと止んじゃったんだ」
河野はあくまでも明るく俺に向かって言う。ちょっと待て、少し誤解をしていないか?
俺が椎名の前に現れたって言うより、椎名が俺の前に現れたんだ。
河野の表情は笑ってるけど、目が笑ってなかった。
「随分と恨まれてるよ、フカミ君」
「どういう……」
「……ねぇ、この前の合コンのとき、椎名さぁ、帰ってくるの遅かったでしょう?」
河野の言葉に合コンのときのことを思い出す。俺はさっさと帰って、椎名が帰ってきたのは次の日の朝方だった。イヤだと拒んだにも関わらず、結局あの日はやられた。
朝方で日が昇ったばかりだったから、薄暗くて椎名がどんな表情をしているのか分からなかった。
俺が「お前は、複数の女を抱いてきたその手で俺を犯すんだな」と言った日だ。
「女の子、みんな椎名にお持ち帰りされたいって思ってたけど、椎名は色んな女の子に誘われても持って帰らなかった。けど、何で遅くなったか分かる?」
俺はてっきり、女の子とそこいらでヤってるもんだと思っていた。だからあんなことを言ってしまったんだ。
穴さえあれば何でも良いって言った椎名が、持って帰らなかった理由は何でだ?
「分からないよね。どうせ、君は家で寝てたんでしょう? 椎名、あの夜ね、俺と一緒に居たんだよ」
痛みとは別で頭の中がくらくらした。笑っている河野の顔が歪んで写った。
女と一緒に居たと思ってたら、実は男だったなんて。全然笑えない。本当に笑えない。
まだ、女なら許せた。何となくだけど、許すことが出来た。性別が違うからって言う理由もあったけど、女にはどう足掻いても勝てないって思ってたからだ。
相手が男だからって、別に俺が勝てるわけじゃないけど。
「椎名ってさ、結構強引だよね。だけど、セックスは凄く上手い。椎名とやるとヤミツキになっちゃうよね」
河野はクスクスと笑って俺を見ている。俺はどんな表情をしているんだろう。寝転がったまま、絶望した表情にでもなってるんだろうか。
乾いた笑いしか出てこなかった。
俺が特別だなんて、一度も思ったことは無い。それなのに、この喪失感は何なんだ。
やっぱり俺は、椎名が気まぐれに抱く人間の一人に過ぎなかったんだ。
そう考えたら、頭の中がすっと軽くなった。
「どうしたの、ショックすぎて笑えてきた?」
「……まさか。別に俺はアイツを独り占めしてるつもりもないし」
「ふぅん。もしかして、君は椎名が自分からフカミ君の所に来てる。とでも言いたいの?」
河野は少しだけ不機嫌そうな顔をした。
「そうじゃない。俺もお前らと変わんないってことだ」
簡潔に答えると河野の眉間に皺が寄った。何に対して起こっているのか分からない。お前らが勝手に俺を「特別」と決め付けて、俺が一緒だと言えば機嫌が悪くなるなんておかしい。
「一緒にするな。椎名が自分からお前の所に行くってこと自体がおかしいんだよ!!」
河野は俺の胸倉を掴んでグングンと俺を上下に揺らす。それで頭がフラフラとして、めまいがした。ついでに言うと、寒気もしてきた。
寒さに負けて、風邪でもひいてしまったんだろうか。
「椎名は、誰にもキスをしたことがないんだ。誰とヤってても、キスだけは絶対にしなかった。なのに、お前はっ……!!」
河野の顔が真っ赤に染まって、一発俺の頬を殴った。一発殴ったら止まらなくなってしまったのか、何度も何度も俺を殴りつける。
周りに居る奴は、冷やかな目で俺を見て嘲笑っていた。
……なんで、俺が椎名にキスされてるって知ってるんだろう。殴られながら、そんなことを考えてしまった。
そして、誰も知らない椎名の唇の味を俺だけが知ってるって言うことに、少しだけ優越感を感じた。
俺ってこんなに腹黒い奴だったかなぁ。
殴られすぎて視界が揺らぐ。寒さと震えと意識が朦朧とする中、俺は本日二度目の気絶をしてしまった。
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