青空に浮かぶ月 14




 誰かが呼んでいる。
 俺のことを呼んでいる。


 誰が呼んでいるのか分からないけど、凄く悲痛な声で呼んでいるんだ。
 そして、「ごめん」と謝る。何か悪いことでもしたんだろうか。俺には分からない。だけどそんな悲しそうな声は聞きたくなかった。
 何も悪くないよと言ってやりたかったけど、声が出なかった。
 多分、俺はまだ眠ったままなんだ。体は寝ていて、脳が起きている状態。俗に言う金縛りみたいなもんだ。
 目が重たくて開かない。もう一生開かなくても良いかもしれない。
 温かい腕と温かい体がとても心地いいから、ずっとこのままで居たいなって思った。
 



 バシャッと顔に冷たい水がかかり、目を覚ました。2度目の気絶をしてから、どれぐらいの時間が経ったのか分からない。
 殴られた顔や体は痛いし、やっぱり熱があるみたいで意識がもうろうとしている。冷たい水をかけられて、熱が籠った体が急激に冷やされる。
 本気で死ぬんじゃないかと思った。
「おはよう、フカミ君」
 河野は俺を見てニコニコと笑っている。殴って気が済んだんだろうか、前みたいに怒ってはいなさそうだった。
「どう? 気分は」
「……さいあく……」
 水をかけて起こされるなんて今まで一度も体験したことない。こいつらは俺の具合が悪いって分かっていながら、水をかけているんだ。
 殺意がにじみ出ていた。
「金輪際、椎名に関わらないって言うなら、今からおうちに帰してあげるよ」
 河野は笑いながら俺に言った。今までしてきたことは、俺に対する制裁だ。椎名に関われば、こう言う目に遭うんだと最初に植え付けさせた。
 効果的と言えば、効果的だった。
「それに、君が大事にしていた彼女を返してあげるよ」
「……は?」
「椎名に寝取られたんでしょう?」
 椎名に寝取られた大事な彼女と言えば、真美しか思いつかない。何で真美のことを、河野が知っているんだ。
 頭の中がこんがらがってきた。
 そう言えば、椎名に呼び出されてホテルのスィートに行った時、真美の前で俺はキスされた。あれは椎名にされた初めてのキスだったが、あの時以外人前じゃぁキスなどしていない。
 いや、出来るほど俺に羞恥心が欠けているわけじゃなかった。
「……真美が……」
「裏切ったとでも思ってるの? 裏切られたと思ってるのは、真美ちゃんのほうでしょ」
 確かに河野の言い分は分かる。だけど、椎名の所に自分から行ったのは真美だ。俺にとって真美は、境界線だった。
 俺が普通で居られるボーダーライン。
 ボーダーラインを椎名に奪われてしまったから、俺は今こんな目に遭ってるんじゃないのか?
 ……いや、違う。
「寝取られたのは、真美の方だ」
 頭の中でたどり着いた答えを言うと、河野の目の色が変わった。今まで有利に話を進めてきた河野が、俺に反論されペースを崩した。
 思ったより、単純な奴だ。
「椎名に真美を寝取られたと思っていたけれど、違う。椎名が真美から俺を寝取ったんだ」
 言葉に出したら、あっさりと認めることが出来た。ずっと、俺は椎名に真美を寝取られたと思っていたけど、そうじゃなかったんだ。
 最終的に椎名は真美じゃなくて、俺と一緒に居た。
 何でだろうって何度か考えたことがあったけど、ここでようやく分かった。
 俺からボーダーラインを無くして、自分側に引きこもうとしていたんだ。
 真美が邪魔だから抱いた。それを俺に見せつければ、俺との仲が壊れること分かってたんだよ。
 俺たちは椎名の憶測通り見事に壊れてしまったんだ。
「え、偉そうなことを……!!」
「それに……、俺に言うんじゃなくて、椎名に言えよ。俺がどんなに拒んだって、椎名は近づいてくるんだ。俺がどんなにイヤだって言っても、アイツは自分の会社が取引先だってことを良いことに俺を脅してきたんだ」
「うるせぇよ!!」
 逆上した河野が俺の顔を蹴りあげた。ああ、なんか鼻から変な音がして、めっちゃ痛い。ダラダラと鼻血が垂れてきたのが分かった。
 動くことすらままならない俺は、芋虫のように転げまわって呻くことしかできなかった。
 ちゃんと本当のことを言ったから、罪悪感は無かった。むしろ、言いたいことを言えてすっきりした。殴られるのはイヤだけど、ここまで殴られたり蹴られたりしたらそれすらもどうでも良くなった。
「お、まえ、みたいなヤツにっ!! 椎名から近づくわけないだろっ!!」
 河野は俺の上に乗っかって怒りにまかせて殴っていく。殴られると鼻血が床に飛んでいった。
「おい、河野。それぐらいにしとけって」
 周りで見ていた一人が河野を羽交い絞めにした。それで殴られるのは終わったが、感覚がマヒして痛みが無くなった。
 もう体に力が入らない。
「離せよっ!!」
「殴っても意味ねぇだろ。……折角なんだし、犯してやろうぜ」
 狭くなった視界の隅に色づいた視線で笑う河野が見えた。河野を羽交い絞めにして奴も同じ目で俺を見ている。
 どうして、こう、変態が多いんだ。
 男に犯されるなんて、一度だけで十分だって言うのに……。
「良いな、それ。みんなでまわしてやろうぜ」
 クスクスと笑い声が周りから聞えた。殴られてるぐらいだったら我慢できるけど、犯されるなんて我慢できない。
 拒みたくても、体に力が入らなかった。
「やっ……」
「拒めば拒むほど、犯しがいってのがあるよな」
 河野は俺の上に乗ったまま俺の服を捲り上げた。河野の発言でレイプ物のAVが売れる理由が良く分かった。
 相手が拒めば拒むほど、男としては屈辱を与えたいんだ。力で組み敷いて強引にやることで、支配欲を満たしているんだ。
 ……冗談じゃねぇ。
「運悪かったら括約筋切れちゃうかもしれないけど、我慢してね」
「できるかっ……」
「だけどね、フカミ君。君を助けてくれる人は、何処にも居ないよ」
 河野が俺の体を撫でて、笑った。痣だらけの体は撫でられるだけで痛みが走る。河野の手は気持ち悪くて鳥肌が立った。
 イヤだ、イヤだ、イヤだ。
 ギュッと目を瞑って呪文のように何度も「イヤだ」と呟き続けた。
 誰か助けてほしい。助けてくれる人は何処にもいないって言っても、この状態じゃぁ誰かが助けに来てくれることを望んでしまう。

 ……椎名、助けて。

 このとき、頭の中に椎名が浮かんだ。アイツのことだから、絶対に俺のこと助けてくれたりなんてしないだろうけど。
 俺は椎名に助けてほしかった。

 いきなり照明が暗くなって、河野たちの動きが止まった。
「なな、何だ!?」
 明らか動揺している声が聞こえる。ガチャと部屋の扉が開いて、眩しい光が目に入る。
「……大丈夫ですか、深見さん」
 聞いたことある声に、俺は扉に視線を向けた。俺はものすごい顔をしていたんだと思う。俺の顔を見たその人が、息を飲んだのが分かった。
「あなた達、何をしているのか分かっていますか? これはれっきとした犯罪行為ですよ」
 はっきりと言う口調はいつも聞いている声より、少しだけオクターブが下がっていた。それだけで俺はゾクッと背筋が凍った。
 普段、優しい笑顔を向けて、人当たりの良いあの人とは別人の声だった。
「な、何で、ここが分かったんだよ!!」
「虱潰しに調べましたから。まぁ、人を誘拐するなら場所を考えましょう。深見さんのアパートの人が、深見さんを担いで運んでいく姿を目撃して、車のナンバーを覚えていたのが、決め手でした」
 警察もびっくりするほどの行動力だ。車のナンバーを目撃しただけで、この場所まで割り出してしまったんだから。この人がいれば、椎名なんて1年以上アメリカ行ってても大丈夫じゃねぇの?

 俺を助けに来てくれたのは、椎名じゃなくて所沢さんだった。

 椎名が助けに来てくれないのは分かってた。だって、アメリカ行ってるし。それになんかアイツがかっこよく「助けに来たぞ!」ってキャラじゃなさそうだし。
 助けに来てくれたのは凄くうれしいのに、この半端な絶望感は何なんだろう。
 分かってたけど、椎名が来ないのは分かってたけど、俺の考え通りになってほしくなかった。
「すぐに警察がここに来ます。もし、次に同じことをしたら、命は無いものと思ってください」
「……な、なんで……」
「椎名は激怒していました。あの人がその気になれば、人を消すことぐらい容易いんですよ」
 淡々と語る所沢さんの声音にも少しだけ怒りを感じた。それにビビった河野は、声を出すことが出来なさそうだ。
「な、なんで……、何で椎名はこんな奴のためにそこまでするんだよっ!!」
 絞り出すような声に所沢さんの笑い声がかぶさる。コンクリートの部屋に何も置かれていないから、響いて木霊していた。
 こんな性悪な笑い、初めて聞いた。
「分かりませんか?」
「分かるかよ」
「誰一人として、自室に人を入れたことのないあの人が、深見さんだけは入れました。これだけで十分でしょう?」
 所沢さんは俺以外の誰かをあの部屋に入れたことがないって言うけど、ベッドメイキングしてる女の人とか入って来てるじゃん。って突っ込みかけたけど、喉に何かが詰まって声が出せなかった。
 熱のせいで頭は痛いし、殴られたせいで体は痛いし、見事に考え通りの動きをしてくれた椎名に怒りは感じてるし。
 もう河野とか、どうでも良いよ。殴られたり、犯されかけたりしたけどさ。
 そんなことよりも、椎名が助けに来てくれなかったことが思った以上にショックだった。
 泣きそうだ。
「なんでだよ……。何で椎名はこんな平凡なヤツが良いんだよ……」
「それはご本人にお尋ねください。あなたが聞きたいことがあったと、伝えておきましょう」
 所沢さんの声の後ろから、パトカーのサイレンが聞こえてきた。これで全てが終わるんだなぁと思って、目を瞑った。
 目なんて開けたくない。この現実を受け入れたくない。
 バタバタと急ぐ足音が廊下からする。どんどん大きくなって、部屋の前で足音は止まった。
「……しっ……」
 誰かが何か言う前にバキッとイヤな音がして、人が倒れ込んだのが分かった。警察が人を殴ったりしないよなって思って目を開けてみると、黒いコートに灰色のマフラーが見えた。
 背が高くて、後ろ姿だけでも誰か分かった。
 そいつは振り向いて、床に転がっている俺を見た。
「……大丈夫か?」
 コイツが俺のことを心配するなんて、初めてだったと思う。今日は初めてばっかりだな。
 複雑な顔をして俺を心配する顔は似合わない。いつもみたいに、傲慢で偉そうにしてれば良いのに。
「……おせーよ」
「すまん」
「あやまんなよ」
 俺の目の前に立っている椎名俊平は、顔をもっと険しくさせた。アメリカに行ってるはずなのに、何でここに居るのか分からない。
 椎名がしゃがんで俺の体に触れる。
 拒んでやろうと思ったのに、手にも足にも力が入らなかった。一人だけあったかそうな格好しててずるいとか、何で椎名が被害者に出くわした加害者みたいな顔してるのか分からない。
 お前の悪いところなんて一つも無い。
「良い所、全部所沢さんに持ってかれて、お前らしくないな」
 嫌味を込めてはっきりと言うと、椎名が弱々しく笑った。何だよ、もっとさ、いつも通り「お前を助けるなら、所沢で十分だ」とか言えば良いのに。
 偉そうにそんなこと言えば、何で遅くなったんだよ。とか、もっと早く来いよ。とか、言いたくないこと言わなくて済むのに。来ないと思ってたから、ここまで来ない方が良かった。中途半端に来たりするから、俺だって変な期待してしまう。
 それに加えて責めてくれみたいな顔されたら、責めちゃうだろ。
 本当は来てくれただけでも、俺すげー嬉しいのにさ。
 椎名は全然悪くないから、責めたくない。
「……そうだな……」
 椎名は俯いてそう答えた。俺が言ってることを認めんなよ。そんなの椎名らしくない。
 椎名が椎名らしくないと、俺まで俺らしく居られなくなってしまう。
「なんで……、なんでもっと、早く来なかったんだよ……」
 顔を見ていられなくなって、頑張って腕を動かして自分の目の上に置いた。言いたくなかったのに、自分に負けて言ってしまった。
「……俺は……、お前に助けてほしかった……」
 じわっと涙が込み上げてきた。殴られてる時も、問い詰められてる時も、犯されそうになった時も泣きそうになったことなんて一回も無かった。
 椎名が助けに来るのが遅かっただけで、俺は今泣こうとしてる。
 情けない。
 椎名が俺の腕を引っ張って体を起き上らせて、抱きしめた。強い力で抱きしめるから、殴られたところがすげー痛かった。
「ごめん……」
 耳元で囁かれることは何度かあったけど、こんなに悲痛で泣きそうな声は今まで聞いたことない。最初で最後にしてほしいぐらい、俺の心を締め付ける声だった。


 そんな声を聞いて、俺は目を瞑った。こんな声、聞いた日には夢見が絶対に悪いだろう。


 俺は必死に掴んでいた意識を手放した。







Back<<<<<<<<<<< Index >>>>>>>>>>>Next