青空に浮かぶ月 15


 鼻骨骨折、全身打撲、肺炎、インフルエンザ。
 病院に運ばれた当時の俺の状況は、こういう状況だったらしい。

 金曜日、居酒屋に寄った後、見知らぬ若者たちに親父狩り目的でリンチされ、倉庫に放置されたことによってこんな目に遭ってしまったと、駆けつけた知り合いたちに俺はそう話していた。
 本当は誘拐されてリンチにされたのだが、何で誘拐されたの? って尋ねられたら答えられないからだ。
 俺が「いやー、なんか男の取り合いに巻き込まれちゃったんだよねー」なんて言えば、友人も職も失くしそうだ。逆の立場だったら、ドン引きするし。
 これ以上、俺は何も失いたくなかった。
 しかも男の取り合いってなんだよ。俺も男なんですけど。普通に考えておかしい。
 笑えないし、別に俺としては……。椎名を取り合ってるつもりなんて、一切無かった。けど、河野たちは違ったんだ。俺が椎名を奪って行ったと思い込んで、俺に制裁を与えた。
 そのことに対して、一番苦しんでいるのは俺じゃなかった。
 国立病院の個室で悠々自適な入院生活を送っている俺だったが、心残りが一つ。
 仕事もしないで俺の隣に座っているだけの椎名だ。
「仕事へ行けよ」
「ここでも出来る」
「いや、お前、何もしてねーじゃん」
 三日ばかりこん睡状態になってしまった俺は、特に夢なんか見るわけでもなく、目を開けると椎名が俺の顔を覗き込んでいたってわけだ。それから1週間、ずーっと俺の病室で寝泊りしている。
 椎名がトイレに立ち上がったときに、俺が眠っていたときのことを看護師さんが「こん睡状態のとき、ずっと付きっ切りで見てくれてたのよ」と、ニヤニヤとした顔で俺に話してくれた。そんなこと別に聞きたくなかったけど、ちょっとだけ嬉しかった。
 その後に看護師さんが「リアルかぁ……。うーん、イケるわね」と言っていたのを、俺は聞き過ごさなかった。
 俺たちはあのときの話は全くと言っていいほどしていない。つーか、前より会話が少なくなったような気がする。
 時折見せる、椎名の悲しげな表情。その原因は俺なんだろう。殴られた顔の腫れは引いて来たが、まだ痣は残っている。黄色とか青色に変色したところを見ると、自分でも笑ってしまうぐらい間抜けな顔だった。
 俺は笑えるけど、椎名は笑えないんだろう。今回、事を引き起こした原因が自分だから。
 今でも「ごめん」って呟いた声が忘れられない。その声が俺の胸を締め付けている。
 だけど、俺は「椎名は悪くない」って言えなかった。
 言えない理由は、大体分かっている。俺が一言そう言えば、椎名は救われるんだろう。そんな気がするけど、椎名は何も言わないから……。俺も言えなかった。
 椎名が何を考えているのか分からない。まぁ、前から分からなかったけどさ。
 俺たちは平行線を辿る一方だった。
 同じ空間に居ながら、違う世界で生きているような感覚だった。毎日のようにやってくる友人や職場の人たち。椎名はそれを静かに見ているだけだ。たまに仕事の電話が入ってくるのか、外へ出て電話をしていることもある。
 妙に目で追ってしまう自分が居た。
 こんな長い時間椎名と一緒に居るのは初めてだったし、互いに仕事があるから一緒に居れるのは夜だけだった。
 一緒に居て分かったことは、少しだけあった。新聞や本などを読むときは目が悪いのかメガネをかけたり、食事は箸は右だけど鉛筆は左とか、そんな些細な発見はあった。
 だけど長時間一緒に居てもただ苦痛なだけで、俺としては早く仕事に行ってほしかった。
「……支配人、少しいいですか?」
 今日は珍しく所沢さんが俺の病室にやってきた。所沢さんが来るときは、俺より椎名に用事があるようで今日はかなり嫌そうな顔をしていた。
 仕事のほとんどを任されて、ストレスがかなり溜まっていそうだ。この病院に入院して1週間以上が経つが、その間椎名はずっとこの病室に居た。
 ごちゃごちゃと病室の前で話をしてから、椎名が不服そうな顔で入ってくる。
「ちょっと仕事に行ってくる」
「ずっと行っとけ」
 嫌味を言っても全く動じず、椎名はカバンを持って病室を出て行った。パタンと扉が閉まったと同時に、俺は大きく息を吐いてしまった。
 やっと解放された。
 ほんの少しだけ安堵感を感じてしまい、大きく息を吐いたところでガラッと病室の扉が開いた。
「あっ……」
 椎名が出て行って安堵した顔を、所沢さんに見られた。
「どうしました?」
「……いえ……」
「支配人がいなくなって、安心してしまいました?」
 どうやら、俺の考えは所沢さんにはお見通しのようだ。「ははっ」と乾いた笑いをすると、所沢さんはさっきまで椎名が座っていた椅子に座った。
「これ、お見舞いの品です。早くもって来ようと思っていたんですが、仕事が詰まってまして……」
「すみません」
 所沢さんから紙袋を受け取って、テーブルの上に置いた。みんなが持ってきてくれた見舞いの品は、まだ手が付けられてなくて山のように溜まっている。
 食べ物が多いから早めに処理しないと、腐ってしまうだろう。
「深見さん」
「はい?」
「リンゴ、食べます? 勿体無いですよ」
 所沢さんは俺の後ろに並べられたフルーツの盛り合わせを指差す。まだ封も開けてないフルーツの盛り合わせには、オレンジやらリンゴやら色んなものが入っている。確かに食べないとダメになりそうだが、食べる気はしなかった。
「いや、今度でいいですよ。食べたくなったら自分で切りますし」
「そうですか。遠慮はなさらないでくださいね。……きっと、支配人はこういうことできないでしょうから」
 にこにこと笑う所沢さんの笑顔に、少しだけ癒された。
「あ、この前はありがとうございました。……助けていただいて」
 まだしっかりと礼を言っていなかったから、助けてもらった礼を言うと所沢さんは「いえ」とはみかむ。
「生まれて初めてのものを見せてもらいましたから。結構ですよ」
「生まれて初めてのもの?」
 一体、何を見たのかと思って鸚鵡返しをすると、所沢さんはクスクスと笑った。その笑顔はちょっとだけ、意地悪をしたような人の笑顔だった。
「支配人、いえ、俊平とは二十年近くの付き合いになるんですけどね」
 所沢さんが椎名のことを名前で呼ぶことに、違和感を感じなかった。何度もそう呼んでるような、慣れている呼び方。俺の前では「支配人」と呼んでいたのに、なんで今更呼び捨てしたんだろうか。
「二十年?」
「えぇ、実は私、深見さんと同い年なんですよ」
 はっきりと言う所沢さんの言葉に、俺はかなり驚いた。こう言っちゃ悪いが、俺より年上だと思っていた。雰囲気とか喋り方とか、俺とは同い年に見えない。
 かなり大人な人だと思っていた。
「幼馴染って言うんですかね、家が隣だったんですよ。歳も近かったですし、二人で一緒に悪戯などして良く遊んでいました」
 何て言うか、小さい頃の椎名って想像がつかない。何となく、今とあんまり変わらなと思った。
 所沢さんは思い出話をするように、俺に小さい頃の話をしてくれた。
「昔からあんなでしたよ、俊平は。自信に満ち溢れていて、一度でもやると決めたら絶対に引かない、頑固な子供でした。けど、やることなすこと全てが上手くいってしまって、何かに執着したり必死になったりすることは一度もありませんでした」
 所沢さんの話を聞きながら、俺は椎名のことを考えていた。椎名が必死に何かをするなんて、考えるだけで気持ち悪いな。
「欲しいものや、望むものは簡単に手に入れてました。俊平は努力するってことを知らなかったんです」
 言われてみれば、そんな気がした。何かに執着するなんて苦手そうだし、ましてや執着する必要なんてなさそうだ。
 アイツが望むものは簡単に手に入る。ほしいものは、あの手の平に吸い込まれるように入っていくような感じがした。
「ねぇ、深見さん」
「はい?」
「今、俊平が欲しいもの。何か分かりますか?」
 所沢さんは表情を変えずに尋ねた。椎名が欲しいものなんて、俺なんかが分かるわけない。俺は俯いて「いえ」と答えた。
 それに椎名が欲しいものは、簡単に手に入るんだろう? もう手に入っていると思う。
「そうですか、分かりませんか。まぁ、確かに分からないでしょうね」
 分からないと知っていてなんで俺に聞いたんだと問い詰めたくなった。顔を上げて所沢さんを見ると、相変わらずの笑顔だ。
 本当にこの人、何を考えているのか分からない。
「節操が無くなったのは、高校入学してぐらいからでした。いきなり女遊びを始めて、女に飽きたら男と。良く考えてみると、あの時期の俊平は荒れていたんでしょうね。オーナーであるお父様と良く揉めていましたから。女や男を抱いては捨てと、非人道的なことをしていました。まぁ、それもこの前までずっと続いていましたけどね」
 今も続いてるんじゃないのかと、俺は思った。俺が「椎名は悪くない」って言えない理由は、今、俺が椎名にそう言ってしまえば、椎名がどっかに行ってしまうからだ。
 椎名が俺に罪悪感を感じている間は、俺が椎名を独り占めできる。幼稚な考えに、自分でもイライラする。
 居れば窮屈で居なくなってほしいのに、いざ、居なくなるって考えると怖かった。
 椎名に捨てられるのが、怖かったんだ。
「深見さん、俊平はね、あなたに会ってから随分と変わったんですよ」
「……え」
「大事な仕事を放り出して飛行機に乗ってきちゃう俊平なんて、見たこともありませんでした」
 にっこりと微笑む所沢さんを見て、俺は少しだけ俯いた。アイツ、大事な仕事を放り出して日本に帰ってきたのか。それがどういうことなのか、バカでニブイ俺でも気づく。気づいてしまったけど、それが本当なのかどうか信じられなかった。
「深見さんの異変に気づいたのは俊平でした。まぁ、ただ電話に出ないだけで大騒ぎするんで、最初は相手にしてなかったんですが……。あまりにも必死に「探し出せ」と言うので、アパートに向かってみると車は置いてあるのに深見さんの家には誰も居ない。てっきり出かけているのかと思ってましたら、お隣の女性が金曜の夜に、深見さんを抱えて走り去っていったワゴンがあると。多分、具合か何か悪くて病院にでも行ったんじゃないかと教えてもらいました。車のナンバーも覚えていたので、車のナンバーを控えてそれから都内の病院全てを調べ、深見さんが来た形跡がないのと言われたので、今度は車を調べました。そしたら、案外近くでしてね。灯台下暗しって言うのはこういうことなのかと、実感したわけです」
 所沢さんは軽くそう言うが、かなりの労力を必要としたと思う。それにしても、電話に出ないだけでこんな大掛かりな捜索がされるとは思ってなかった。
 でも、俺はそれで助かったんだ。下手したら、あそこで死んでいてもおかしくない。
「一番びっくりしたのは、俊平が息を切らしながら深見さんのところへ来たことですかね。何事にも必死になれなかった俊平が、必死になって駆けつけたという事実が私にとっては嬉しいことでした」
「……そんなに必死でした?」
「えぇ、有無を言わさずに河野さんを殴ったときは、相当怒っていたでしょうね。……そして、自分に対してもかなり怒りを感じていると思います」
 所沢さんの一言で、椎名があんなに複雑な顔をしている本当の理由が分かった。
 俺が思っていた通り、アイツは自分を責めているんだ。俺がこんな目に遭った原因は、自分にあると……。まぁ、確かにそうなんだけどさ。
 そうなんだけど、違うんだ。
「俊平とは話をしました?」
「……え?」
「この様子だと、全く話なんてしていないんでしょうね。俊平はこれまでに無いぐらい悩んでいるんですよ。深見さんを手放したほうがいいのか、それとも意地でも近くに置いておいた方がいいのか」
 なんだか、俺の考えも、椎名の考えも、所沢さんにはお見通しのようだ。俺が「悪くない」って言わない理由も、椎名が何も言わずに俺の近くに居ることも、全て知っているんだろう。
「深見さん、許せませんか?」
「どういうことですか?」
「俊平のこと、許せないですか? 抱かれなければ会社との契約は打ち切ると脅され、彼女は寝取られ、そして今回は誘拐されてリンチされて、危うく犯されるところでした。そんな諸悪の根源である俊平を、許すことは出来ませんか?」
「……そ、そんなこと……」
「でも、本当のことですよね?」
 所沢さんが言ってる事はかなりストレートで間違っていなかった。俺が椎名のせいで被害に遭ったと思えば、こういう考えができるんだろう。それこそ、前まではそう思っていたはずなのに今は違う。
 椎名のこと、責めないでやってほしかった。
「所沢さんは、どう思ってるんですか? 今回のこと」
「十中八九、俊平が悪いと思ってますよ。今まで散々酷いことしてきたんです、それが返ってきたんですよ。日ごろの行いだと思ってます。けど、それが深見さんを通じて俊平を苦しめているから……。私としては許せないんですよね」
 てっきり、所沢さんは椎名に対して甘いのかと思えばそうじゃなかった。
 所沢さんの表情は変わらない。
「どこで深見さんと河野さんと知り合ったのかは存じませんが、私が知る限りでは深見さんに対して嫉妬している人は10人以上居ます。今後、それがどういう風に変わってくるのか検討もつきません。まぁ、河野さんの件で大体の人は分かったと思いますけど……。他にも問題はたくさんありますし」
「問題は多い……?」
「えぇ、深見さんがどう動くかで、俊平も変わってくるんです」
 俺の行動次第で椎名が変わるってどういうことなんだろう。言っている意味が分からなかった。
「深見さん」
 所沢さんは笑顔を消して、真剣な顔をして俺を見た。
「どんなことがあっても、俊平と一緒に居れますか?」
「それはどういうことですか?」
「簡単なことです。深見さんが俊平と一緒に居ると言えば、俊平は満足なんですよ。今は離れてくれって言われるのが怖くて、深見さんの傍から離れられないし、自分から誘拐されたときのことは言わない。どんなことがあっても一緒に居てやると言えば、きっと安心するでしょうね」
 なんだか、俺も椎名も同じ事を考えているようだった。
 言葉は伝えないと伝わらないのに、俺は伝えようとしなかった。自分の気持ちも、これからのことも。
 所沢さんは、俺たちが同じようなことを考えているのを知っていた。互いが互いに、離すまいと縛り付けているのを。
 傍から見たら、かなり不恰好なんだろう。
 同じ空間に居て、同じことを考えているのに、俺たちは遠くに居たんだ。実際は近くに居るって言うのに。
 それが分かってしまったら、笑えてきた。
 所沢さんはそれを教えるために、椎名に無理矢理仕事をさせて俺に伝えたんだ。今日は仕事じゃないから、椎名のことを名前で呼ぶ。
 一、幼馴染として、俺の所に来た。
「やっと笑いましたね」
「え?」
「今まで無理をして笑っていた気がしました。やっと、本当の笑顔を見れたなぁって」
 朗らかな笑顔でそう言われると照れくさくなって、俺は下を向いた。心の中がすっと軽くなって、もやもやとした気持ちが晴れていく。
 今日の空のような、眩しいぐらいの青が心を満たす。
 そう言えば、椎名と出あったときもこんな風に気持ち良いぐらい晴れていた。あの時は鬱陶しいと思っていたが、今は違う。
 気持ちいいと思った。
「……深見さん」
「はい?」
「リンゴ、食べます?」
 所沢さんはもう一度、あのフルーツの盛り合わせに乗っているリンゴを指差した。最初に聞かれたときは、全然食欲が無くて食べる気がしなかったけど、今は見てるだけで美味そうに見えた。
「切ってもらって良いですか?」
「良いですよ」
 相変わらずの笑顔で所沢さんは、籠に乗ったリンゴを手に取った。見慣れた笑顔だけど、今日はちょっとだけ安心している安堵の笑みだ。
 心配していたんだろう、椎名のことを。
「もう一度聞きますけど、どんなことがあっても、俊平と一緒に居れますか?」
 所沢さんはリンゴの皮を剥きながら、俺に尋ねる。手馴れた手つきで、シャリシャリと皮が剥がされていく。
「……そうですね。どんなことがあっても、一緒に居れるでしょうね」
 呟くように言うと、所沢さんの口元がクッと歪んだ。クスクスと笑いを漏らして、リンゴを切り分けていく。俺はちょっとだけ恥ずかしくなってそっぽを向いた。
「良かったです、その返事が聞けて」
「本人には言いませんけどね。アイツが話して来るまで」
「ふふ、たまにはそういうのも良いでしょうね。今までしてきた行いのしっぺ返しを食らって、後悔したらいいんですよ」
 所沢さんは楽しそうに言うと、皿に切り分けたリンゴを並べていった。




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