青空に浮かぶ月 16


 同い年だからってのもあると思うが、所沢さんと楽しく喋っている最中に椎名がものすごい形相で病室に戻ってきた。
 その顔を見るなりに、所沢さんが可笑しそうに顔を歪めた。
「……どうしたんです? お早いお帰りですね」
「机の上にたんまりと置かれた書類の量だけを見てきた。……あれは何なんだ」
 どうやら椎名の机の上には、大量の書類が置かれていたようだ。所沢さんのことだから、椎名のためにわざわざ残してやった気がして笑えた。
 想像するだけで、俺までも笑ってしまった。
 クスクスとちょっとだけ笑うと、椎名の表情が変わった。俺が笑ったことに対する動揺と、きっと安堵が含まれているんだろう。
 アイツの前で、ちゃんと笑ったことは無かったから。……いや、所沢さんが来るまで、俺は笑っているようで笑って無かったんだろう。
「ちゃんとご覧になりました? 後はあなたのサインだけですよ」
「……そうか」
「今日中にサイン頂きたかったんですけどね。まぁ、良いです。こちらに配達しますので」
 所沢さんはため息交じりに立ち上がると、パンパンと自分の服を叩いてカバンを掴んだ。
「あぁ、深見さん。果物ナイフは置いておきますので、お好きな時に使ってくださいね」
「ありがとうございます」
 見舞いに果物が多いのを知って、所沢さんはわざわざ果物ナイフを持ってきてくれた。普通に考えたら危ない人みたいだけど、ここには果物を切ったりするものなんて一つもない。
 それこそ、リンゴなんて丸かじりするしかなかった。
 おいて行ってくれるのは嬉しかった。
「じゃぁ、私はそろそろ仕事に戻ります。サイン、ちゃんとお願いしますよ。支配人」
 所沢さんは椎名に念を押してから、病室を出て行く。パタンと扉が閉められたと同時に、椎名が空いている椅子の上にカバンを置いた。
 俺も椎名も何も喋らない。
 沈黙が病室を包んでいた。
「おっー……」
 椎名が何かを言いかけた時、こんこんと病室がノックされた。俺の返事を聞く前に扉は勝手に開けられ、白衣に身を包んだ俺の担当医が姿を現す。
「深見さん、具合はどおですかー?」
 俺の担当医はとてもやる気のなさそうな、若い青年だった。ガリガリと後頭部を掻いて、椎名の隣を通り過ぎる。この担当医の中では、椎名など居ない存在らしい。
「まぁ、普通ですけど」
「どうやら、食欲も出てきたようですね。そこにあった美味そうなリンゴも無くなってるし、顔色もとても良いですね。あ、まぁ、痣があるから良くは見えませんが」
 担当医は俺を見てケラケラと笑った。勝手に俺の隣に座って、ビニールが破られたフルーツの盛り合わせに手を伸ばす。
 見てなさそうに見えて、俺のことを見ていたようだ。
「このオレンジ、美味そうですね」
「良かったら持って行ってください。一人じゃ、食べきれないぐらい貰ってますから」
「へぇ、じゃぁ、頂きます。あ、そうだ。もうインフルエンザも治ってるし、あとは鼻の骨折と痣ぐらいですから。そろそろ退院してもらおうかなーって思ってるんですけど。深見さん、まだ、病室に居たいですか?」
 確かに俺が運ばれた時は、インフルエンザに肺炎と病気にかかりまくっていたが、安静にしていたおかげで早く治った。担当医が言うように、残りは普通の生活で十分治る。
 それにこのバカみたいに広い病室に1日泊まるだけで、いくらかかるか分かったもんじゃない。出来るなら、早く退院したかった。
「そうですね。そろそろ……」
「分かりました。事務局に話はしておきますので、そうですね。明後日ぐらいには退院しますか」
「分かりました」
 俺が返事をすると担当医はにこっと笑ってオレンジを掲げ、「じゃぁ、これ頂いてきます」と言って立ちあがった。すたすたと足早に病室を出て行って、バシンと扉を閉めた。
 椎名が俺をジッと見ている。何か言いたそうにしては、口をつぐんでいた。
「ってことだから、俺は明後日に退院するから。お前も仕事に戻れ」
 何も言わないから俺から話しかけると、椎名は黙ったまま俺のベッドの隣にある椅子に座る。大きく息を吐いてから、椎名はやっと口を開いた。
「退院したら何処へ行くんだ」
「家に決まってんだろ。家に帰るんだよ」
 椎名が何を言いたいのか、大体俺には分かっていた。傍に置いておきたいって思ってるだろうけど、傍に置いていても今回みたいなことが起こるかもしれない。
 そんなことにビビってるんだ。椎名らしくも無く。
 そして、俺を今まで通りあの家に住ますことにも、不安を感じているんだ。
「……あのアパートに戻るのか」
「そうだよ。俺の家は、あそこだ。じゃなかったら、何処へ行けって言うんだ。実家にでも帰れと?」
 別に実家が遠いわけじゃないが、仕事をしている以上あのアパートが一番すごしやすい。それに今さら実家になんて、帰れなかった。
 独り立ちをすると言って、実家を出たんだ。
「……違う」
「じゃぁ、何なんだよ。俺は今まで通り、クレンザーサービスで営業の仕事を続けるし、何かを変えるつもりなんて一切ない」
 はっきりしないことに苛立ちを感じ始めた。椎名がどうしてほしいのか、ちゃんと言ってくれないと俺の気が済まない。
 俺が考えていることがあってるのか、間違っているのか。それを椎名が証明しないと、これからもずっと気が済まないままだ。
 そんなのはイヤだった。
 何があっても一緒に居るって思ってても、信じることが出来なくなってしまう。
 やっと、一緒に居るって決めることができたから、信じたかった。
 椎名のことを信じたい。
「椎名、お前はどうしたいんだよ」
「……何がだ」
「俺をどうしたいんだよ」
 俺を見ている椎名の目が、揺らいだ。何も言わずに俺を見つめてから、少しだけ俯いた。
 躊躇ってるのか、言いたいことが思いつかないのか分からないけど、椎名はずっと黙ったまんまだった。
 まぁ、せいぜい悩んだら良いと思った。俺を散々悩ませ続けた悩みの種だったんだ。ちょっとは俺の苦しみを思い知れ。
 背後に置いてあるフルーツの盛り合わせに手を伸ばす。季節の盛り合わせらしく、ブドウやオレンジ、リンゴや梨なんかが籠に詰められている。
 もう一つ残ったリンゴを手にとって、所沢さんが置いていった果物ナイフでリンゴの皮をむき始めた。
 ゴミ箱に皮を落として、皿に並べて行く。
 椎名は途中から俺の手を見ていた。
「お前も食うか?」
「……いや、いい」
「食えよ。お前、ここ最近、あんまり食ってねーだろ」
 無理やり椎名にリンゴを差し出すと、戸惑いながらそれを受け取って口に入れた。俺もあんまり飯食ったりしてなかったけど、それと同じように椎名も食べて居なかった。
 だから、ちょっとだけ瘠せた気がする。まぁ、気がするだけだけど。
「……甘いな」
 飲みこんでから、椎名が呟く。
「あー、そうだな。だいぶ蜜が入ってるから、甘いんだろうな」
 所沢さんが切ってくれたリンゴにも、結構蜜が入っていた。切り分けた真ん中に、黄色く蜜が見える。蜜が多いからと言って甘いと言うわけじゃないらしいが、多いと甘く感じる。
 二個、三個と手を伸ばすと、椎名もリンゴに手を伸ばした。
「こんな風に、何かを味わって食べるのは久しぶりだな」
「は?」
「忙しくて、何かを味わって食べるなんてあんまりしたことが無かった。お前と居酒屋に行った時とか、ゆっくりと味わって食べることがどんなに大切かって思い知らされた」
 ホテルの支配人として、多忙の日々を送っているんだ。食事なんて適当にしかしてこなかったんだろう。
「良く考えたらお前と一緒に居る時は、初めて体験することが多かったな」
 椎名はぽつぽつと小さい声で話し始める。俺には目も向けずに、リンゴが乗っかっていた皿を見つめていた。
「初めてお前を見たのは、ホテルで料理長に怒られている時だった。たかが洗剤の納品が30分遅れたぐらいでガミガミ怒られ、深々と頭を下げている姿は真剣だった。俺からしたら料理長なんて切り替えの利く下位に近い存在なのに、そんな奴にあんなに頭を下げてご苦労なこったと、バカにしていた。食器を洗うための洗剤なんて、その日無くても全然困らないのに。あんなもののために頭を下げるなんて、可哀想だなって思っていたんだ」
 しょっちゅう料理長に怒られていた俺は、それがいつのことか全く分からない。たかだか洗剤と言うが、されど洗剤だ。うちはホテルニューシイナから契約を打ち切られたら、困るから頭を下げているんだ。
 椎名には分からないだろうな……。
「それから少しずつお前のことを調べ始めた。ちょっと気になってしまったんだ。調べてみると、お前のところの配達業者は散々だったな」
 椎名は控えめに笑う。久しぶりに見た、椎名の笑顔だった。
「納品が遅れることなんて当たり前。たまに伝票は失くす、仕入れ伝票を変なところでちぎったせいで仕入れ値が分からなくなっていたり……。そのたびに、お前が呼び出されて怒られていたみたいだな」
「ここ最近は、無くなってきたんだぜ。責任者が代わったから」
「……そうか」
 椎名の言う通り、会社が依頼している配達業者は本当にひどかった。納品時間が遅れるのは当たり前だったし、ホテル専用の伝票を失くしたりして、再発行してから俺が持って行ってたんだ。
 そのたびに、料理長から怒られてた。
「それから何度もお前は、料理長に謝り倒していたな。……お前がそうやって真剣に謝るから、俺のところまで報告は上がってこなかった。料理長から、一度も「業者を替えてくれ」って言われたことは無いんだ」
 俺は仕事をしていて良かったと心の底から思った。何度もこの仕事をやめようと思ったことはあるし、ホテルニューシイナの担当を替えてほしいと言ったこともあった。
 だけど俺の知らないところで、こう評価してくれてるのは嬉しい。
「一目見たら、知りたいと思った。中身を知ったら、次は話してみたいと思った。……平凡極まりなくて俺とは対極の位置に居るお前を、手に入れたくなった」
 椎名はずっと皿を見たまま、俺の顔を見ようとはしなかった。
 俺は椎名の顔を見て、いろんなことを考えていた。
「昔からずっと、欲しいものは手に入っていた。気付いたら、俺の手中に存在していた。金や名声なんかは生まれつき札のように付いていたし、女だって俺の近くにいつも居た。だけど、お前は違う」
 椎名がやっと顔を上げて俺を見た。真剣な目で俺を見つめて、ちょっとだけ悲しそうに顔を歪ませる。
「手に入れようと思っても、どう手に入れるのか分からなかった。分からなかったから、仕事に真剣なお前の気持ちを利用して無理やり手に入れようとした。……それでも、お前は決して俺の手の中には入ってこなかった」
 また椎名は俯いて、俺から目を逸らした。椎名は今まで何かを手に入れようと必死になったことが無いから、欲しいものをどうやって手に入れるのか分からないんだ。
 だから、俺を脅して無理やり体を繋げた。
「こんなことしたって手に入らないことは分かってた。手に入らないけれど一緒に居てほしかったから、俺はあらゆる手を使ってお前を呼びだしたりした。邪魔だと思った彼女を抱いて、別れるように仕向けた。すれば、少しでも良いから俺に目が向くと思ったんだ」
 俺は何も言わずに、椎名の話を聞いていた。子供みたいだって思ったけれど、方法が分からなかったから仕方ないのかもしれない。
 手に入れる方法なんて、簡単なのに。椎名は分からなかったんだ。
「責められることも、嫌われることも、全部覚悟していた。何か繋がりが欲しくて、好かれることよりも嫌われることを選んだ。手に入らなくても良いから、せめて繋がりが欲しかったんだ」
 俺と椎名の繋がりなんて、作ろうと思えばいっぱい作れたはずだ。俺が営業を続けているだけでも、繋がりは出来ている。
 それすらも、椎名は分からなかったんだろうか。
「もっとひどく詰られると思っていたんだ。俺の人生を返せとかな……。起こっていることから目を逸らさずに、それを受け流すお前に俺は甘えていた。何をしても、全てを受け止めるお前の強さに俺は甘えていた」
「受け止めてなんか……」
 俺は起こったことを受け止めてなんかいない。「どうでも良い」って決めつけて、それから逃げていただけなんだ。俺は全然強くなんかない。
 とても弱い人間なのに。
「自分がしたことにケリをつけたつもりだった。俺が今までしてきたことが、最悪な形でお前に降りかかってしまった。本来だったら、俺がされるべきことだった。……すまない」
 俺はギュッと拳を握る。はっきりさせなきゃいけないって、思った。
「謝って済むとは思っていない。今回の原因は俺にある。俺はもうお前の強さに甘えようとは思っていない」
 椎名はもう一度顔を上げて、俺の目を見つめた。
「はっきり、させよう」
「……そうだな」
 このままじゃいけないって、誰もが分かっていた。


 このうやむやな関係を、はっきりさせるときがやってきた。







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