青空に浮かぶ月 7
このままじゃいけないって分かっていたのに、俺はどうすることもなく、ただ流されるような毎日を送っていた。
あれからと言うもの、椎名からは一切連絡が無かった。それは真美を見て、俺と遊んでてもしょうがないと思ったんだろうか?
それならそれで良かったって、心のどこかでほっとしていた。
毎日忙しく、顧客先を回っていく。その中に、あのホテルニューシイナもあったけど、そのときですら椎名とは会わなかった。
元々、支配人と一営業だ。会うことなんて滅多に無いだろう。俺だって、この前呼び出されるまで、支配人の顔なんて見たことなかったのだから。
支配人は若いってのは聞いていたけど、俺より若いなんて思いもしなかった。
親の七光り? それとも、アイツの実力?
俺としては、どっちでも良かった。
9月は半年の締め月に当たるせいか、地味に忙しかった。毎日、毎日、洗剤の量を確認して発注する日々。そんでもってバカな事務員に振り回されて、クレームが発生して謝りに行く。俺の人生なんて、人に頭を下げて終わるもんだ。
あんなバカ広いスイートルームみたいな自室を持っている支配人様と、平凡極まりない俺は住む世界が違うんだ。
今頃、あのバカ広い部屋でワインでも飲んでるんじゃないかって勝手に想像してしまった。
やっと一日の仕事が終わって、家に帰るころになると時間は9時を過ぎていた。最近、こんな日ばっかりで全然真美に連絡してないなって思って、今日は真美に連絡をしてみた。
基本的に毎日連絡しているが、俺が連絡しなかったこともあるけど、真美からも全く連絡が無かった。
プルルルルと同じ音が続くだけで、真美は電話に出なかった。留守電にするのは、聞くのが面倒で嫌いだと言っていたからある程度鳴らして出なかったから、俺は携帯を閉じた。
着信があったのを見れば、掛け直してくるだろう。
無人の家に入り、スーツの上着をソファーに投げてとにかく先に風呂場に向かう。脱ぐのも面倒くさいと思いながらも、ワイシャツやシャツを脱ぐとまだくっきりと赤い痕が残っていてズキンと心が痛んだ。
これが消えるまで、女だけねーなとかすげー最悪なことを考えてしまった。
こんな姿見られたら、俺が誰かに抱かれてるってことが分かる。浮気して抱いてるならまだしも、誰かに抱かれた形跡だ。最悪すぎる。
未だに椎名に縛られた場所は少しだけ跡が残っている。目を凝らしてみなきゃ分からないぐらいだけど、俺にはくっきり見えた。
ぶるぶると頭を振って、浴室へ突入する。すぐにカランを捻ってシャワーから熱い湯を頭から浴びる。それだけで徐々に疲れが抜けて行っている気がした。
余計な考えもすっ飛んで行った。
頭も顔も身体も洗い終わってキュッとカランを捻ると、身体は思った以上にあったかくなっていた。熱い湯が好きだから、少し熱めに設定している。さっきまで考えていた椎名のこととか、真美のこととか頭の中からすっぽりと抜けて行ってしまった。
俺はいつも通り、髪の毛を拭きながらカバンから資料を取り出し、新しい洗剤のことについて勉強をする。少しだけ洗浄力がアップした洗剤を既存の顧客に売ることも営業のうちの一つだ。
それに加えて、傷がつかない強力なスポンジとやらが開発されたようで、それも売りこむようにと上司から言われていた。
新しいスポンジを手にとって、自分の肌に擦りつけてみる。結構じゃりじゃりしていて、擦ったところは赤くなっていた。
これで本当にフライパンなどに傷がつかないんだろうかと不安になって、自分の家のフライパンで試してみたら本当に傷がつかなかった。
新しい素材でできていると、売り込みの営業が力説していたことを思い出す。
フライパンは洗ったばかりのだったから、洗浄力がどれぐらいかは分からないがこのスポンジなら頑固な汚れも落ちそうだった。
これなら安心して売り込みできる。
新商品のパンフを見ているだけで、時間が刻々と過ぎて行ってしまい、俺が眠りに着いたのは日付が過ぎてからだった。
それでも、真美からの連絡は無かった。
平日は7時と決めて規則正しく起きている。
ピリリリと鳴った携帯のアラーム音で目を覚まし、片手でアラームを停めるとすぐに起きあがった。
寝起きはそんなに良い方じゃないから、すぐに身体を起こさないと俺は二度寝する可能性がある。それで何度か遅刻しかけたことがあった。
直行直帰で事務所に顔なんて出さなくても良いんだから、多少の寝坊は許されるが、それが癖になると厄介だから俺はちゃんと9時には家を出るようにしている。
インスタントコーヒーを淹れて、今日の占いなんかと流し見しているとピリリと聞き慣れない着信音が部屋に響いた。
どこで鳴っているんだろうと場所を探ると、俺のカバンの中からその音はしていた。
ピカピカと光るディスプレイを見つめ、俺は大きく息を吐いた。
約1週間ぶりに椎名からの電話だった。
「……はい」
『起きていたのか』
相変わらず偉そうな声に、俺はもう一度息を吐く。コイツと喋ってると、俺はため息しかついて無い気がする。
電話を無視できなかったのは、俺の家がバレているからだ。俺が電話を無視すれば、アイツはまた俺の家に来るだろう。あのバカでかいリムジンに乗って。
「平凡なサラリーマンはこの時間、大体は起きていますよ。支配人様」
『偉く丁重になったもんだな。これからもそうしろよ』
「遠慮する」
嫌味で言ったつもりなのに、椎名はそれを見事に返してきた。朝からちょっとイラついて、俺は携帯の通話を切ろうとした。
『今日の夜、来い』
受話器から漏れる音に、俺はドキッとした。いや、ときめいたとかじゃなくて、ビビったってことなんだけど。
だらだらと冷や汗が流れて、心拍数が早くなる。
「……や、やだ」
てっきり椎名は俺にかまうことをやめたと思っていただけに、この誘いは突拍子もなかった。
声が震えているのが、椎名にバレている気がした。
『面白いものを見せてやる』
「要らない」
椎名の言う、面白いものなんて俺にとっては全然面白くない。心のどこかでイヤな予感がしていたんだ。
頭の中で警告音が鳴り響いている。
行くな。って。
『お前が来ないなら、迎えに行くまでだ。来るなら自律的に来た方が良いんじゃないのか?』
「お、俺が逃げるって言ったら……?」
今日や明日ぐらいだったら、車で逃げることも可能だ。シャツやネクタイなんかを車に乗せて、どっかのビジネスホテルに泊まることだってできる。
椎名が迎えに来るって脅すなら、俺は必死に逃げるまでだ。
それでも椎名はクスッと俺をバカにするように笑って、
『お前は逃げれない』
と俺に告げた。
逃げれないなんて、分かりもしないのに、どうしてコイツはこうも決めつけることができるんだ。椎名が逃げれないって言うなら、俺は絶対に逃げ切ってやる。
絶対に行かないって決めてたんだ。
そんな俺の決心を砕け散らせるように、椎名は続ける。
『別に晩じゃなくても良い。……今日はうちに納品があったな?』
椎名はクスクスと笑いながら、俺に試すように尋ねた。そうだ。今日はホテルニューシイナに洗剤の納品があったんだ。
ここ最近は、着時間厳守で何とか納品時間に間に合っているから、ホテルニューシイナからクレームは無い。
だけど、着時間だけじゃなくても、クレームを付けることだって簡単なんだ。
『洗剤の落ちが悪いとか言えば、お前はここにくるしかないもんな』
ここで俺はようやく気付いた。最初から椎名にハメられていたんだ。俺がホテルニューシイナの担当をしている限り、何かあったらホテルニューシイナへ行かなければならない。
些細なクレームでも。
『お前が自律的に来るか、それとも俺に呼び出されてくるか、その辺の選択肢はお前に任せる』
もうほとんど、椎名の言葉なんか俺の頭の中に入っていなかった。俺の頭の中にあるのは、どうしてコイツはここまで俺に固執するんだってことぐらいだ。
なんで、椎名は俺を求める?
『さぁ、どうするんだ』
俺は震える唇を押さえて、椎名に「……夜に、行けばいいんだろ」と伝え、電話を切った。
電源ボタンを押したと同時に、俺は携帯を床に落とした。がちゃんと派手な音がして、そのまま携帯を何度も何度も踏んづけた。
こんな無駄な八当たりですら、椎名の思惑どおりな気がして本当に嫌気が差した。やっぱり、アイツのことは大嫌いだ。
それこそ、死んでしまえばいいのにって思うぐらい。
かかとが痛くなって、血が出ていることにも気付かずに、俺はむしゃくしゃする自分の気持ちを発散させるように携帯を踏み続けた。
ざっくりと破片が足の裏に刺さったことで、俺はようやく痛みを感じた。
「いってぇ……」
足の裏を見るとボロボロになっていて、ひときわ大きい傷が先ほど刺さったところだと分かった。真っ赤な血が足の裏を伝って床に落ちる。そう言えば、椎名に初めて犯された時も似たような感覚を味わった。
穴が裂けて、血が流れた。その時と同じ感覚に、俺は泣きだしそうになった。
「どうしてっ……」
俺は、絵に描いたような平凡で、それこそ平凡極まりない生活を送っていただけだったのに。
どうして、俺は、椎名に捕まってしまったんだろうか。
何で、椎名は、俺にここまで執着するんだ。
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