青空に浮かぶ月 8


 椎名からの呼び出しを無視しきれずに、俺は今ホテルニューシイナのロビーに立っている。
 一体、何が起こるのかさっぱり分からない。面倒くさいから仕事着のまんま来てしまったが、少し浮いている気がした。
 ロビーには煌びやかな服を着た人たちが、縦横無尽に歩いている。それを目で追っていると、「深見さんですか?」と背後から声をかけられた。
「……は、はい……」
 俺の背後に居たのは、この前呼び出されたときに廊下に立っていた所沢と言う人だった。
「支配人から仰せつかっております。どうぞ、こちらへ」
 案内されるまま所沢さんの後ろを付いていくと、従業員専用のエレベーターではなくて、普通にホテルへ来た人たちが使うエレベーターへと乗り込んだ。
 部屋に呼ばれるのかと思ったが、そうじゃないんだろうか?
 所沢さんは無言で最上階を押すと、ウィーンと静かに扉が閉まった。
 高速エレベーターはすぐに最上階まで着いて、チンと甲高い音がすると最低限の音で扉が開く。足を踏み入れたことの無い、ホテルニューシイナの最上階は豪華絢爛で高級感に溢れていた。
 ごくりと息を飲み込む。
「こちらです」
 所沢さんは俺を見て、にこりと微笑むと一番奥へと向けて歩き出した。絨毯が敷かれた廊下は足音があまりしない。
 ゴロゴロと雷鳴がとどろく。
 この空間は雷鳴しかしないぐらい、凄く静かだった。
 明らかに部屋の扉が少なくて、一つ一つの部屋が大きいことが良く分かる。このフロアには、二部屋しかないみたいだ。
 所沢さんの足が扉の前で止まった。ゆっくりとその扉をノックしても、中から反応は無かった。
「……おかしいですね」
 所沢さんはもう一度、コンコンと扉をノックする。何が起こるか分からない俺は、ドキドキと手をギュッと握ってその扉を見つめた。

 怖い。
 どこかイヤな予感がするんだ。

 2回目のノックをしてから数分後、ガチャっと扉が開く。出てきたのは、バスローブを着た椎名だった。
「支配人、深見様がいらっしゃいました」
 椎名は所沢さんを見てから、後ろに居る俺へと視線を移す。
「思った以上に早かったんだな」
「……時間の指定はしてなかっただろ」
 低い声で答えると椎名はくすっと笑って「入れば?」と扉を大きく開けた。あの笑顔に一瞬怯んで、足が竦んでしまう。
 部屋の中に入っちゃいけないって、行ったら後悔するって、頭の中で誰かが叫んでいた。
 その誰かを無視するように、俺は椎名を睨みつけながら部屋の中に入った。
 バタンと扉が閉まり、勝手にロックがかかる。さすがはスイートルーム。警備も厳重だった。
 俺が椎名に話しかけようとしたとき、遠くから女の声が聞こえた。
「誰か来たの?」
 聞き覚えのある声だった。
 心拍数が異常に早くなって、冷や汗が流れる。俺より背の高い椎名を見上げると、椎名は何かを企んでいるような顔で笑う。
 頭の中にまで心音が聞こえる。
 うるさい。
 誰かが何かを引きずりながら、歩いてくる音が耳の端に入った。
「……ねぇ……」
 声が近付いたから部屋の中を見ると、シーツに身を包んだ女が一人、物凄い形相で俺を見ている。
 きっと、俺も同じような顔をしていたに違いない。

 椎名はバスローブで、その女はシーツを体に巻いている。

 そして、ここはホテルのスイートルーム。



 バカな奴だって、ここで何してたかすぐに分かるはずだ。



「つ……、剛!?」
 シーツを体に巻いた女は、俺の名前を呼んだ。俺は声が出なくて、そいつの名前を呼ぶことができなかった。
 椎名とこの部屋に居た女は、俺の彼女の真美だった。
「な、なな、なんで、ここに?」
 真美は明らか動揺してわたふたとしている。それでも体に巻いているシーツはギュッと握りしめて、顔は赤くなる前に青ざめていた。
 俺も同じ顔をしているだろう。もう何もかも考えられなくなってきた。
「し、椎名君!?」
 真美は俺の真横にいる椎名を見て、名前を叫ぶ。俺をここに呼ぶぐらいなんて、椎名しかいないし、俺はまんまとコイツにはめられたわけだ。
 予想外だったんだろう。俺がこんなところに来るなんて。
「ち、違うの。あのね……」
 真美は俺の顔を見て必死に弁解する。その言葉も右から左へ流れて行ってしまって、俺の頭の中には残らなかった。
 何がしたいのか全然分からない。
 椎名の意図が読めない。
「……まず、着替えてきたらどうだ? 俺、ここに居るし」
 胸元でシーツを握っている真美に冷静に言うと、真美はバタバタと走って奥へ行った。椎名の顔を見ると、いつも通り不敵な笑みを浮かべて俺を見ている。
 椎名は弁解も謝罪も嘲笑うこともしない。
「……お前の目的は何なんだよ……」
 絞り出すように声を出すと、椎名はクスッと鼻で笑う。この場所で俺と真美を合わすことが椎名の目的だったんだろうか。
 何となくだけど、椎名がなにをしたいのか分かった。
「まだ分からないか?」
 試すように聞いてきた椎名の胸倉を無言で掴むと、「やめて!」と真美の叫び声が聞こえた。
 やめて。は、俺のセリフだ。
「け、ケンカはやめて!!」
 見当違いなことを叫ぶ真美を見て、椎名はくっくっくと笑う。俺は椎名が何をしたかったのか分かってしまったから、「聞くな!」と叫んだ。
 真美には聞かれたくない。
 椎名が何をしたかったかなんて、聞いてほしくない。
「ケンカ? それは違うな」
「言うな! お前は黙れ!!」
 椎名に黙れと叫んだら、いきなり唇を塞がれた。黙らしたいのはこっちなのに、椎名に黙らせられ「んぐぐっ!」と唇を離そうとすると頭を掴まれた。
 胸を殴って引きはがそうとしても、椎名は俺から離れない。
 ちらっと横目で真美を見ると、真美は唖然としていた。
「やっ、やめろっ!!!」
 力づくで椎名を引きはがす。引きはがした反動で壁におもいっきり背中をぶつけてしまい、少し呻く。
「彼女の前だから。イヤなのか?」
「違う!!」
 俺はいつもイヤだった。男に抱かれるなんて屈辱でしかない。
 それなのに、椎名は事あるたびに俺を抱いていたんだ。上から笑って見下す姿は、思い出すだけでも憎い。
「……どういうこと、剛……」
 真美が不安げに俺を見る。今、起きたことはウソだっと言ってほしいと願うような目に、俺は「違うんだ」しか言えなかった。
「何が……、違うのよ……」
「俺は……、俺は……」
 俺はただ、椎名に脅されているだけなんだって言っても、真美には理解してもらえないと思った。
「俺がお前にしていること、喋ったらどうだ? 女みたいに突っ込まれて、喘がされてるってな」
「椎名っ!!」
 椎名が言っていることは間違っていない。椎名の言う通り、俺は女みたいに突っ込まれて喘がされている。けど、それは椎名が無理やりやってくるからで、俺の意志じゃない。
 俺のせいじゃないのに。
 俺を見る真美の目の色が、変わっていた。
「……何なのよ……、それ……」
 真美は汚物を見るように、両手で口を押さえて後ずさっていく。
「待て。違うんだってば」
「触らないでっ!!」
 手を伸ばして真美を引き留めようとしたら、バシンと手を叩かれた。完全な拒否に、頭の中が真っ白になった。
 もう、ダメだ。
「……もう、私の前に現れないでっ!!」
 真美は俺の頬を思いっきり叩くと、テーブルの上に置いたカバンを握ってこの部屋から出て行った。
 大きい音を立てて扉が閉まった。
 その音が耳に入ると全身の力が抜けて、俺はその場に座り込んだ。
「調子の良い女だな。自分から俺を誘っておいて、自分が浮気されてたら被害者ぶるのか」
 嘲笑う椎名の声が頭を通り過ぎて行く。調子の良い女。自分から俺を誘っておいて、浮気されたら被害者ぶる。断片的に頭の中に言葉が入ってきて、俺は顔を上げた。
 真美が椎名を誘った?
 俺が真美を裏切ったんじゃなくて、真美が俺を裏切った?
「……どういうことだよ……、それ……」
「そのまんまだ。あの女から俺に近づいてきたから、俺はあの女が望むことをしたまでだ」
 椎名は答えると俺の腕を引っ張って、部屋の奥へと連れて行く。
 真美が、椎名を誘ったのか。
 そう言えば、椎名と初めて会ったときに真美がしきりに椎名のことを聞いていたのを、今さら思い出した。
 そっか。所詮、顔か。
 顔も何もかも平凡な俺は必死にならなきゃ、彼女一人繋ぎとめておくこともできないんだ。
 
 何が間違っていて、何があってたかなんて分からない。



 もう、どうでも良い。








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