便利屋第十七話

「便利屋です。」


「僕はまだ死にたくないんです」
 桐生はその時初めて、青島の本音を聞いた気がした。


 ゆっくりと開いた扉を、桐生と青島は見つめていた。二人とも微動もせず、現れた男を待ち構えていた。青島の反応は早かった。桐生の後ろを取ると、バタフライナイフを頚動脈に突きつける。以前、こんなことをされたな、と桐生は呑気に過去を振り返っていた。少しでも動かせば、心臓と脳を繋いでいる血管は寸断される。見事だと褒めてやりたいぐらい場所は的確だった。
「動いてもいいですけど、僕が桐生さんを殺すのと三隅さんが僕を殺すの、どっちが早いでしょうね?」
 桐生からは青島の表情は分からないが、笑っているような気がした。わざわざ自分を守るために、三隅が手を汚すとは考えられない。それに現状を考えれば、三隅が青島を殺すよりも青島が桐生を殺すほうが早いだろう。それでも青島は自分を殺さない自信が何となくあった。
「……どうやって入った」
「警備、ぬるいですよ。僕に殺してくださいって言ってるようなもんじゃないですか」
 青島はくすくすと笑いながら「気づいていたんでしょう?」と言った。
「五年前、僕はとあるヤクザの若頭を殺すよう雇われていました。かなり危険でしたが、お得意先からの依頼とあってはこちらも断るわけにはいきません。どうして彼を狙うのか、理由がさっぱり分かりませんでした。薄々、感づいていましたよ。狙われているのは、僕のほうだって。それなら逆に利用してやろうとまで目論んだのはいいんですが、あなたはそこまで読んでましたね」
「俺が青島君の立場やったらどうするか考えただけや」
「案外、気が合うのかもしれませんね、僕達」
 より一層ナイフが桐生の首元に近づく。話しながら殺されたんじゃたまったもんじゃないと、桐生は三隅を睨みつける。嘲笑ってるような目で見下ろされて不快感が増す。
「どうしてあの人に情報を流したんですか」
 ふざけてばかりいる青島の声が、いつに無く真剣になった。ここまで乗り込んできた理由は、今の質問が目的だったのだろう。あの人と言うのが、先ほど聞いた巻き込まれて死んだ人だと桐生は何となく察しがついた。
「……本人が聞いてきたからや」
「何を、言ってるんです?」
「青島君、君は色々と知りすぎたんや。だから邪魔になって殺そうとする奴が出てきた。そこまでは君も分かっとったんやろう」
 青島は三隅の問いに返事をしない。
「彼はそれについて聞いてきたんや。だから俺は教えた」
「その情報を教えればどうなるかあなたは分かっていたでしょう」
「……彼も、邪魔だったからな」
「つまり僕もあの人も消せて、一石二鳥だった。ってわけですね」
 三隅が言わなかったセリフを青島が代弁し、分かりました、と小さい声で頷いた。それは傍にいた桐生しか聞こえなかった。
 沈黙が続く。青島は三隅を睨み付けたまま微動だにしない。入り口で立っている三隅も青島を見たまま動かなかった。桐生も殺されたくないので動けない。
「途中でやめることもできたのに、どうして青島君はあの時動いたんや。計画はかなり杜撰だった」
「どっちにしろ、僕は殺されてましたよ。あそこで死んでも良かったけど、解せない部分が多くて今もこうやって亡霊のように生きています」
「俺を殺すためか」
 三隅はゆっくり息を吐く。諦めたような目が桐生に向けられ、彼もまた殺される気なのだと悟った。それを見てからの桐生の動きは、これまでにないぐらい早かった。青島の手からナイフを奪い取り、天井に向かって投げる。上手く刺さってくれたおかげで武器はなくなった。勢いで動いてしまったが、ほとばしる殺気を向けられて仄かに後悔する。
「……何しとんねん」
 呆れた声が後ろから聞こえた。青島は桐生を睨み付けている。
「俺は、三隅も青島も死んでほしくないんや」
「はぁ?」
 青島が不可解そうに首を傾げる。
「アホか」
 三隅まで侮辱するようなことを言う。
「お前らに何があったんか、俺は知ろうとも思わん。理解できるとも思わんしな。けどお互い殺されても良いと思ってるところが気に食わん。三隅にしても、青島にしても。青島に至っては、わざわざ俺が助けてやったにも関わらず、そうやって命をないがしろにしいなや。助けた意味がないやろうが。俺はな、もう目の前で誰も死んでほしくないねん。どうやったら助かったやろうか、とかいちいち後悔したないねん。……そんなのエリナだけで十分や」
 桐生は青島を見てから振り返って三隅も見る。二人は先ほどと表情を変えず、桐生を見つめている。
「もうええやんか。青島も本当のこと聞いて満足したやろ? お前がほんまに殺す気があったなら、さっさとやってるはずや。それに三隅も、青島の殺意に甘んじて殺されようとすんな。お前が死んだら、困る奴多いやろ」
「三隅さんが話したことが本当ならね」
「コイツはこんな場で嘘を吐くような奴やない。だからお前も、分かったって頷いたんやろうが」
 青島は気まずそうに桐生から目を逸らした。
「殺す気なんて初めからなかった。ただ真実を知りたかっただけ、やろ。せやから青島はわざわざ最初に俺のところへ来たんや。そして殺されるつもりやった」
「そうですね。僕はもう、失敗したときに死んだようなものだったんです。これまで築いてきたものが全て壊れました。生きている意味なんてない。掃除屋なんていう野蛮な仕事は、失敗するというのは自分の死と直結するんです。なのに僕は二回も失敗した。二回も死んでるんですよ。これ以上、僕に生きろと言うのがどれほど酷なのか、桐生さんには分からないでしょうね」
「生きるんが酷なのは、誰でも一緒やろ」
「……え?」
「お前だけやない。俺やって死にたいって思ったことはある。お前はたまたまそう思ったのが、その時やっただけやろ。生きるってのはな、すんごい大変なんや。だから無駄に死んだりしたらあかんねん。そんなん小学生でも分かってるで」
「僕、小学校行ってないから分かりません」
「はぁ!?」
「普通の生き方してないから分かりませんよ、そんなこと。仕方ないでしょう!? 生まれてからずっと人を殺すため以外のことなんか教えてもらってないんだから。失敗したら死ねって言われ続けてた例外だってこの世には存在するんですよ」
 こう取り乱してる姿を見るのは初めてだった。まるで子供のような言い分に、桐生の笑いが漏れた。
「けど、生きたかったから、お前はこうやって立ってるんやろ」
 青島は悔しそうに唇を噛み締めて反論しない。
「コイツもな、最後の最後で悪者になりきられへんねん。自分のためなら手段を選ばんっぽそうやけど、人の死が絡んだその日は自棄酒するしな、ぎりぎりのところまで踏ん張ったりすんねん。意外やろ」
「意外ですね。極悪非道だと思ってました」
「お前、素直やな」
 振り返って三隅を見ると不可解だと言いたげに眉をひそめていた。
「お前を助けたあの日、どうして俺はあないなところに行かされたんか、薄々分かってんねん。初めはただ自分を狙った奴を捕まえようとしてたんかなって思ってたけど、それはちゃうな。お前を助けたかったんやろう。コイツな、結構アホやから、自分で手を回しておきながらちょっと失敗すること期待してんねん。だからわざわざ無関係な俺を巻き込んで、あわよくば寸前で失敗させようとしてんねんけど、そう上手くいかんことも多くてな。ぬるいやつやろー」
「何を言うとんねん、お前は」
「ほんとのことやろ。俺が甘い奴なら、お前はぬるい奴や。俺が必死に頑張れば、辛うじて助かりそうな絶妙なタイミングで情報与えたりしてきたやろ。ヤクザの女しかり、身代金目的の男しかり。まあ、どっちにしろ間に合わんかったし、ヤクザの女に至ってはとっ捕まった後だからどうしようもなかったけどな」
「……何の話や」
「すっとぼけんな」
 これまで何を意固地になっていたのか、冷静に考えられなかった。三隅を根っからの悪人だと一番思い込んでいたのは桐生で、そう思うことで自分の精神の均衡を保っていた。
「あのエリナが結婚相手に選んだ相手が、極悪人だなんて、俺は思いたない」
「……エリナさんっていう人は、桐生さんの妹、でしたよね」
「知ってたんか、お前」
「そりゃ、ターゲットについては調べますよ。お二人が幼馴染だって言うのも知ってたし、それに……」
「それに?」
 接続詞の後に何か続くのかと思ったが、青島はニコリと笑って三隅に近づいた。
「これ、三隅さんに差し上げます」
 ポケットの中から取り出した封筒を見つめて、桐生はぎくりとする。
「ちょ、何でそれをお前が!」
「桐生さん、僕のこと信用しすぎなんですよ。ピッキングで進入してくる相手に留守番任せたりとか、普通の人はそんなことしませんよ? 漁られるとか考えなかったんですか?」
 バカにしたような笑いを向けられて、桐生は今日初めて青島に対し殺意が沸く。
「そこにエリナさんと桐生さんの本心が書かれています。是非ともエリナさんに会ってみたかった。鋭い方だ」
「……エリナと桐生の?」
「えぇ。だってあんなにホモのこと毛嫌いしてる桐生さんが、まさか三隅さんと恋仲だなんて、僕、びっくりですよ」
「はぁああ!? ちゃうわ!!」
 恋仲、だなんて鳥肌の立つことを言われて、桐生は大げさに反応する。
「否定しなくていいですよ。まま、読んだときは気持ち悪すぎて鳥肌立ちましたけど、草場の陰からお二人の幸せを祈ってますから」
 ふふふ、と下世話なおばさんのような笑い方をしてから、青島は窓に近づく。そのタイミングを見計らったように、警報機が鳴り響いた。
「桐生さんの説得、僕の胸に響きましたよ」
「……最後の最後に爆弾落としてくれてどうもありがとうなぁ」
「どういたしまして。僕もいろいろ恥ずかしい思いさせられましたから、お相子ですよ。もうここにも居れませんから、どっかに姿暗ませます。あ、桐生さん、呪われてるって自覚があるなら、探さないでくださいね」
 窓を開けるとベランダにもたれかかり、青島は悠然と笑った。もう彼と顔を合わすのもこれが最後だと思うと、なんだか寂しくなってしまって奇妙だ。
「僕はまだ死にたくないんです」
 青島は笑いながら、ベランダから落ちた。


 エリナの手紙には、桐生と三隅の気持ちが綴られていた。

 ようちゃんへ
 今日は嘘を吐いてごめんなさい。本当は二人を騙すようなことはしたくなかったんだけど、こうでもしないと二人はお互いの気持ちに気づけないと思いました。
 わたしの考えが間違っていたなら謝りますが自信があります。それはわたしが誰よりも二人のことを考えているからです。
 けんちゃんに嘘を吐いてみたところ、けんちゃんは「陽一ならお前のこと幸せにしてくれるやろう」と言ってくれました。悔しそうでもなく、ただようちゃんなら仕方ないと言った顔をしていました。ようちゃんもきっと、けんちゃんと同じ事を言うでしょう。
 二人は相手のことを思うあまり、自分の気持ちを押さえ込んでしまっているのです。
 けんちゃんの中で一番はわたしではなくようちゃんです。そしてようちゃんの一番もわたしではなくけんちゃんですね。
 二人は友達で居た時間が長すぎるから、自分の気持ちを認めるのにかなりの時間が掛かるでしょう。わたしが間に入ってしまうと、二人はもっと自分の気持ちを押さえ込もうとしてしまいます。
 なんだかそれはわたしのせいにされてるみたいでかなり不愉快です。なので、わたしはこれから旅に出ることにしました。
 すぐには認められないと思いますけど、ゆっくり時間をかけていつかお互いの気持ちを認め合ってくれることを祈っています。
 わたしはわたしを一番好きになってくれる人を一番好きになれるよう頑張ります。
 そしていつか、わたしが大好きな二人の幸せそうな姿を見せてください。
 お元気で。
 エリナ

 エリナには適わない、と思った。
 相手のことを思うあまり、二人は自分の気持ちを抑え込んでいる。
 何をバカなことを言ってるのか、とつい口に出してしまった。もちろん、桐生もエリナを大事にしている。三隅も大事にしている。けれどエリナの告白を受けて知ってしまった自分の本心が、素直になれと訴えかけてくる。エリナの言うとおりだった。決して口にはできない思いを仕舞う代わり、彼が一番大事にしてるであろうエリナを大切にしてほしかった。
 三隅にとっての一番がエリナではなかった理由が分からない。二人は高校の頃から付き合っていて、結婚は幼い時に決まっていた。そこに割って入ったのはむしろ桐生だ。なんだか申し訳なくなった。エリナが一番好きだったのは三隅だったのではないかと思ったが、エリナはあの場で嘘を吐くような人ではない。本当に桐生と三隅のことが好きだからエリナは引いたのだ。
 別れ際、エリナは「どうか、幸せになって」と桐生に言った。その意味が手紙を読んでようやく分かった。それからエリナが旅に出るつもりだというのも。それを読んで、一言でもいいから礼を言いたかった。この意固地すぎる気持ちを気づかせてくれてありがとう、と。
 しかし伝える前にエリナはこの世からいなくなってしまった。不運な事故だった。


「で、俺はどこまでその恥ずかしい話をしたらええんや?」
 対面にいる青島カイに向かって、桐生は憮然とした姿を見せた。
「な、っとく、はしてないですね。ノロケですか? 気持ち悪い」
「ああ、そういうところほんまに兄弟やな。青島も同じようなことを言うとったわ」
「リクなら言いそうだ」
 笑っているカイの顔を見て、桐生はホッとする。青島を逃がしてしまった、と話した時は物凄い剣幕で迫られたものだが、事情を説明すると落ち着きを取り戻した。
 あの夜、ベランダから落ちた青島は庭から姿を消していた。てっきり自殺を図ったのかと思ったが、二階から落ちてそう簡単に死ねるはずもない。まだ死にたくない、と言っていたから、上手く逃亡したのだろう。探す気もないし、もう二度と会えないのではないかと桐生は思っていた。
「で、三隅さんとは話し合ったんですか」
「話し合うも何も……、今更、仲良くしましょう、とか言って出来るような年でもないしな。恥ずかしいからマジでやめてほしいんやけど」
「嫌ですよ。ここぞとばかりに掘り起こします」
 こういうしつこさも兄弟だな、と思って、桐生は悪態をつく。
 手紙を読んだ後、三隅は「どうして黙ってた」と桐生に尋ねた。当時の状況などを踏まえれば、黙っていた理由も察してくれたようで何も言わなくても理解はしていた。
「エリナは自殺やなかったんか」
「……ま、今になってじっくり考えれば、アイツは自殺するようなたまやない」
「そうやな」
 エリナはいつも明るくて笑顔だった。誰かに元気が無ければ与えてやるほど優しくてとても強かった。
「エリナと子供を作らなかった理由だが」
「……は?」
「お前がこの前聞いてきたんやろうが」
「あー、あぁ、せやな」
「俺は一度もエリナとセックスをしたことがない」
 桐生は固まる。
「向こうもその気がなかったみたいやし、そんなんせぇへんでも仲は良かったからな。けどお前のことが好きやって言われたときは、アイツがそういう雰囲気を微妙に避けてたのも、そのせいかと思った。だから手を出さなくて良かったと安心までしたんやけどな」
 三隅はどこかすっとした顔でそう語っている。何を勝手に心地よくなってるのか知らないが、腹立たしいにも程がある。
「俺がお前の立場でも同じ事をしたやろうから、手紙について黙ってた件については何もいわん」
「そうしていただけると助かるわ」
「お前はこれからどうするんや?」
 何を問いかけられてるのか、桐生はいまいち分からなかった。問い返す前に一度じっくり考えてみて、三隅の真意を探る。元はと言えば、三隅にどうでもいいお使いを頼まれまくったから、その対価を貰うために便利屋を開いたわけだが、今の質問から察するに三隅は桐生にお使いを頼まないのかもしれない。それは今後の生計に関わる。
「便利屋はこれから続ける」
「ほお」
「ま、人手足りひんくなってもうたけど、元々そないに忙しい仕事やないしな。てきとーにやるわ」
「好きにしたらええんちゃう」
「お得意さんにはこれからもお仕事もらわなあかんねんけどな」
 念を押すように言うと「そないに雑用が好きか」とバカにされた。変わらない物言いであるが、わだかまりがなくなったせいもあり自然と笑みが零れた。
「て、わけや。まあ、このまんまや。年食ったら、色々認めんのも面倒でな」
「まあ、気持ちは分からなくも無いですね。ええ」
「やっぱり兄弟なんやな。鼻につく言い方とかそっくりや」
 見た目こそは違和感があるもの、口調や声音は青島とそっくりだ。
「で、お前はどないするんや? 多分やけど、青島はもう戻ってけえへんで」
「……そうですね。ちょっと考えさせてもらいます」
「好きにしたらええよ。お前の人生やもん」
 追うにしてもやめるにしても、それは全てカイが決めることだ。桐生はそう言ってタバコに火をつけた。今週に入ってから寒気の影響で気温がガクリと落ちて便利屋事務所内は真冬のように寒い。
「それまでここにいてもいいですか?」
 思いも寄らぬ提案に桐生は目を丸くする。
「あ、家はちゃんとあるんで。と言っても俺のもんでもないですけど」
「まあ、うちに住もうっていうモノ好きはおれへんやろうな。ま、手伝ってくれるならええよ。ほとんど給料渡されへんけど」
「じゃ、ちょっと飲み物でも買ってきますね」
 少しだけ嬉しそうな顔を見せたカイは立ち上がると早歩きで事務所を出て行く。なんだかお使いを楽しむ犬のようで、彼の後ろ姿からは尻尾が見えた。
 カイと入れ替わりに、トントンと扉がノックされる。桐生は重たい腰を上げて「はいはい」と気だるげに返事をした。
「郵便です」
 戸を開けると郵便局員がにこやかに笑って、桐生に手紙を差し出している。
「あー、どうも」
 受け取ると「では」と言って、郵便局員は背を向けた。封筒の表面にはしっかりこの事務所の住所と桐生の名前が書かれていて、差出人は誰かと思い裏を捲るとそこには何も書かれていない。手紙を蛍光灯に透かせながらソファーに戻り、どっかりと座ってもう一度表を見た。
 なんか違和感があった。そもそも書留でもないのに、郵便局員がわざわざここまで来るだろうか。下にポストがあるのにどうしてそこに入れなかったのか。それにこの封筒には切手が貼られていない。桐生は中身が破れないよう気を付けながら封を開けて便箋を引っ張り出した。思ったより綺麗な字が綴られてる。今は中身よりも差出人が肝心だ。いくら封筒に書いていなくても、手紙には記してある自信があった。
 青島、と書いてある。桐生は机の上に手紙と封筒を叩きつけて、入り口に向かって走り出す。勢いよく扉を開けるとちょうどコンビニから帰ってきたカイが驚いた顔で桐生を見る。
「ど、どうしたんですか」
「郵便局員みぃひんかったか?」
「えーっと、このビルの下ですれ違いましたけど。どうもって……」
「あれ、青島や!」
「え!」
 二人揃って我先にと階段を駆け降りたが、一階には青島の姿はない。
「…………なんやねんな、アイツは!」
「変装、得意でしたからね。俺も声かけられたのに、全然気づかなかった」
 がっくりと項垂れているカイを見下ろして桐生は息を吐いた。声音も変えて変装していれば青島だなんて気づけない。多少なりともヒントはあったが、しっかり見ないと気づけないほど巧妙だった。切手が貼られてないのにもっと早く気づければその場で取り押さえれたかもしれないが、桐生が手紙を貰ったときの状態をしっかり見ていたのだろう。
「とりあえず、手紙、読むか」
「手紙なんか残したんですか、リクは」
「まあ、エリナのパクリやろうな」
 カイが「え?」と問い返したが、桐生は答えずに階段を登り始めた。
 青島の手紙は思ったよりあっさりした内容だった。これまでの礼と、あと置いていってしまった弟の面倒を見てくれ、と言うお願いだった。最後の最後に兄らしいことをしたのは意外だったが、カイがここに居たければ好きにすればいいと桐生は思っている。
「お前も、読むか?」
「いえ、それはリクが桐生さんに宛てた手紙なので、俺が見る権利はありません。遠慮しておきます」
 カイは少し悲しそうに笑うと、桐生の前にミニペットボトルのコーヒーを置いた。
「よかったら」
「あ……、あぁ、ありがとうな」
 この数年、青島がこの事務所に出入りしていたが、こんな気遣いを見せたことは一度もない。どうやら弟のほうがかなり常識人らしい。
「コンビニ行きながら、少し考えてみたんです。いくらターゲットに近づくためとはいえ、リクが三年間もほぼ毎日通ったりするだろうかって」
「本人は執念深いって前に言うとった気がするけどな」
 冗談交じりに反論してみたが、カイの表情は強張ったままだ。まだ何か裏でもあるのだろうか。
「リクと一緒にいた時間は本当に短かったですけど、その間に結構、桐生さんの話をしてたんですよね」
「は、はぁ……。あんまり嬉しくないな」
「桐生さんって、リクと寝たことあります?」
「………………気持ち悪いこと言うな」
「どうなんです?」
「ないわ」
 尋問されている気分だ。カイは唸るように返事をして黙り込んでしまった。先ほどの質問の意図が全く分からないし、理解しようとも思わなかった。
「あれ、ド淫乱なんですよ」
「知っとるわ」
「多少なりとも気に入った人とは簡単に寝るんですよ」
「へえ」
「でもかなり気に入ってる人とは寝ないんですよ」
「ほお」
「つまり桐生さんのことはかなり気に入ってたと思うんですよ、アイツなりに」
「その基準で言うと気に入ってなかった可能性も高いやろ」
「好き嫌いも激しいんで、嫌いな人とは口も利きませんよ。俺なんかずっと無視されてるし」
「まあ、嫌ってはいないと思うけどな」
「え?」
 どうやらカイ自身はかなり嫌われてると思っていたようで、桐生がそれを否定すると口をぽかんと開けて驚いている。手紙の内容をいちいち教えるつもりはなかったが、誤解をしたままでは両者共に可哀想だと思ったので伝えることにした。
「アイツな、手紙の中にお前のことをよろしくって書いとったんや。嫌っとったら、こんなん書けへんやろ」
「……リクが、俺のことを」
「よっぽど冷たくされとったんやな。もしかしたら、それもお前のことを思ってかもしらんで。ま、本当のことは青島しか知らんし、俺は憶測で言うとるから信憑性もないけどな」
 それでもどうでもいいと思っている人の名前を、わざわざ手紙には書かないだろう。カイは信じられないのか、何度か瞬きをしてから俯いてしまった。
「俺も、便利屋で働いてもいいですか?」
「ええよ。お前なら、青島より働きそうやしな。そのかわし、さっきも言うたけど、給料もロクに払われへんし、扱き使うで」
「はい。よろしくお願いします」
 このとき桐生は、初めてカイの笑顔を目にした。




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