デルタ 1


 大体、一日の最初は氷を割ることから始める。ブロックで買った氷を籠の中に入れて、アイスピックでひたすら砕く。空気の入っていない密度の高い氷はアイスピックを突き刺しただけでもすぐにひびが入り、簡単に砕ける。けれども、大きすぎてはダメだから、手に持って小さくしないといけない。すぐに乾いて皮膚に張り付くから、たまに剥がしたときに血が出てしまう。誰もが嫌がる仕事だけれど、俺はストレスの発散としてその仕事を進んでやっていた。
 歌舞伎町でもそこそこ有名なホストクラブ、クラウンで働き始めて、そろそろ2年が経つ。はっきり言って、チャラチャラした男は大嫌いだし、女に媚びるのも大嫌いだ。それなのに、どうして俺がこんなところで働いているかと言うと、給料がとんでもなく良いからだ。兄ちゃんの友人のツテでここを紹介してもらい、裏方として働くことになった。給料が良いから続けてるけど、悪かったらすぐにやめてただろう。俺はいつの間にか、裏方の副リーダーになってしまった。
 リーダーをやっているのは、俺よりも長く努めている不破さんだ。不破さんは優しくて責任感が強く、物凄く良い人だ。ちょっとぐらいのミスでキレてきたりするホストと違って、絶対に怒ったりなんてしない。人の気持ちを良く分かってくれる、本当に優しい人だった。
 そんな不破さんに、俺は惹かれた。
 好きだと気付いたのはいつだっただろうか。憧れから、いつの間にか好きになっていて、のめり込んでいた。でも、そのときから、不破さんは俺なんか目もくれず、別の奴を見つめていた。とても些細で分かりにくかったけど、それは俺が不破さんのことを好きだったから分かることだ。不破さんは、そいつのことを好きなんだなって、気付いたと同時ぐらい俺は失恋した。
 不破さんが好きだったのは、うちの、ナンバーワンホストだった。
 どうして、あんなチャラいやつが好きなのか、問い詰めたいぐらいだった。チャラチャラしてるし、言動も軽いし、馴れ馴れしい。あんな奴のドコがいいんだと、本気で思ったことは多々あるし、悩みすぎて寝れない日もあった。でも、不破さんがそいつのことを好きだと言うなら俺は止めない。だって、好きだって気持ちがとめられないのは、俺も分かっていたから。
 俺、不破さん、チャラ男。この順番で思いが右に向いているだけだった現状を打破したのは、不破さんだった。オーナーの仕事を手伝うと言って、なぜか家の鍵を俺に預けると店には出勤しなくなってしまった。「このことを話すのは御堂君だけだから。悪いけど、みんなには黙っていてくれる?」と、不破さんは寂しそうに笑って言った。その笑顔を見て、凄く胸が軋んだのを今でも覚えている。不破さんにそんな表情をさせた原因はあのチャラ男のせいだと思って、チャラ男に不破さんの所在を問い詰められたけど、俺は言わなかった。口止めされていたこともあったし。けど、不破さんが居ないことに耐え切れなくなって、俺はチャラ男に不破さんの居所を教えた。
 俺は、不破さんの家を知らない。
 それなのに、不破さんは俺に家の鍵を渡した。
 いつか、俺がチャラ男に家の鍵を渡すと分かっていたんだろう。だから、不破さんはわざわざ俺に鍵を預けたんだ。いいように使われただけだと思うけど、不破さんは俺を頼ってくれたのだからと思って考えないようにしたけど、鍵を渡すなりに悔しさや悲しさ、苦しさが混みあがってきて泣いてしまった。チャラ男が出て行った後、休憩室で一人、俺は号泣していた。
 誰も入ってこなくて良かった。
 泣いている姿を誰かに見られたくなかったんだ。
 こうして、俺の恋は大嫌いな奴に奪われてしまったわけで、その傷は少しだけ残っていた。
「おはよう、御堂君」
 ガンガンと日頃溜まっているストレスを発散するように氷を割っていると、声が聞こえて振り返った。背後にはエプロンをつけて、優しい笑みを浮かべている不破さんが立っている。上機嫌なようで、いつもより楽しそうに見えた。
「おはようございます」
「今日も暑いね。氷割るの、手伝おうか?」
 不破さんは袖を捲って、俺の隣に立った。リーダーだからと言って、その立場に固執するわけでもなく、下っ端がやるような仕事も進んでやっていた。だからこそ、不破さんは人望があるんだろう。見ていて、尊敬することばかりだ。
「いつになったら、夏が終わるんでしょうね」
 呟くように言うと、不破さんは「まだ8月だよ」と笑いながら、氷を割っていた。こんな時間もまだ未練の残る俺にとっては嬉しい一つだった。
 毎日、大量の酒が店に入ってくる。ビールケース、焼酎のボトルが入った箱、シャンパン、それを内勤の奴らで運ぶんだけど、ここ最近、ボランティア活動とか言ってふざけた企画が始まったらしく、うちのナンバーワンホストとナンバーツーホストがそれに借り出されている。終わる時間が早いからと言って、俺達の手伝いをしてくれていた。
 そんな手に、俺は惑わされん。いや、惑わすも何もないけど、これは俺達内勤の仕事であって、あんたらホストの仕事じゃないでしょうと、思っている。でも、手伝ってくれると言っているのを無下に断るのもねぇ? と不破さんに言われてしまい、しぶしぶ頷いてしまった。特に不破さんを誑かしたナンバーワンホストはオープンの仕事だけでなく、クローズの仕事も手伝っている。もっとイラついた。
 酒を取りにいこうとしたところで、「み、ど、お、く、ん」と俺を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、うちのナンバーツーホストが肩を叩こうとしたところで、寸前に避ける。あからさまな拒否だって言うのに、このクソ野郎に嫌味は通じない。
「素っ気無いなぁ」
 近づいてほしくないから素っ気無くしているって言うのに、クソ野郎に俺の思いは通じない。無視して歩き始めると、付いてくる足音が聞こえた。ついてくるなと言いたくても、行く場所が同じだから言えない。
「ビールケースって重たいよねー。みどーくんが持ってよー」
「……はぁ?」
「俺、箸より重たいものって女の人ぐらいしか持ったこと無いから無理だわー」
 偉くふざけたことを言っているなと思って、また無視した。顔のいい奴がモテることを自慢するのは、かなり腹立つ。死ねばいいのにまで思う。無視して歩いていたら、「みどーくんと何を話せばいいのか分からないなぁ」と冗談交じりに言われた。
 何を話して良いのか分からないというなら、話さなくていいじゃないか。とっつきにくい奴だと思われようが、なんだろうが、俺には関係ない。
「不破君がさぁ、機嫌良い時って、ナオっさん疲れてるよねぇ」
 ふいにそんなことを耳元で言われて、つい振り返ってしまった。クソ野郎はにんまりと笑って俺を見ている。不破さんが機嫌良いの、知ってたのかコイツ。
「ショック?」
「はぁ?」
「みどーくんってさ、強がってるのか、本当に強いのか知らないけど。そういう素振りって見せたことあんまり無いじゃん。ま、俺、1回見ちゃったけど」
 ニマニマと笑っている笑顔は、俺をバカにしてるみたいでもっとムカついた。勝手に失恋してから、確かに俺は強がってる部分が多かった。悲しんでる素振りは見せなかったし、いつも通りに接していた。一度だけ、仲良くしてるところを見て泣いてしまったことがあって、不覚にもそれをこのクソ野郎に見られたのだ。一生の不覚だ。ビール瓶で頭ぶん殴って記憶を消したいぐらいだ。
「仲良いよね、あの二人。付き合ってる云々抜いても」
 クソ野郎が遠くを見つめながら、そういう。その視線の先に、二人がいるわけじゃないけど、仲良くしゃべっている二人の姿が頭に浮かんだ。同意したくないから首は縦に振らなかったけど、横にも振ることができなかった。
「あー、早くナオっさんくたばってくんねーかなぁ」
「……くたばる?」
「そう。いつまで経っても俺の上に立ってんの、ちょー腹立つ」
 子供のような無邪気な笑顔だった。そんな笑顔で凄く凶悪なことを言うから、俺は何も言えずにクソ野郎を見つめていた。そんな風に、敵対視しているとは思えなかったんだ。争いごととは無縁みたいな、そんな雰囲気だったから。
「なんか、みどーくんには言いたいこと言えるなぁ。年上、だからかな」
「言わなくてもいい」
「いいじゃん、きーてよ」
 クソ野郎はケラケラと笑ったまま、一番軽い箱を持って奥へと歩いていってしまった。本当に重たいものを持たないなんて、あいつ、手伝う意味あんのかよって思ったけど、そんなことをうだうだ言ってても仕方ないから、ビールケースを二つ重ねて持ち上げようとしたら、「危ない」と背後から止められた。
「……あ、おはよう」
 俺の背後に居たのは、同じ仕事をしている我妻だった。ここでは一番仲が良い、親友みたいなもんだ。不破さんの話も聞いてくれたし、俺が困ってるときは必ず助けてくれる。あんなクソ野郎とは大違いだ。いや、あんな奴と比べるほうが可哀想だ。
「危ないって何が」
 持ち上げる前から制止されては、何が危ないのか俺には好く分からなかった。重たい荷物を持っていること? それとも、こんな無謀なつみ方をしたこと? 我妻は言葉が足りないから、何を言いたいのか分からない部分が多かった。
「御堂は、そっち持てよ。俺、それ持つから」
「大丈夫だって」
「割ったら、さすがに怒られるぞ」
 そう言って我妻は俺が積み上げたビールケースを持って、厨房へと向かってしまった。確かにあの量を持って割れば、不破さんに怒られるだろう。でも、まだ、俺は落としてもないし、運んだこともあるのに。そう思いながらも、最後に残った焼酎のボトルが入ったダンボールを持ち上げる。ずっしりと重量のある箱は運びなれているせいか、簡単に持ち上げることが出来た。
 体格的に見ても、俺より我妻のほうが力持ちに見える。だからと言って、重たいものを我妻に持たせるのはいやだった。
「ま、待てよ」
 決して軽くないそれを、楽々と運んで行ってしまう我妻の後を追おうとしたところで、俺の前に邪魔な奴が現れる。相変わらず、通路でポカーンと立ちつくしていて、邪魔だ。本気で邪魔だ。
「邪魔なんですが!」
 はっきり言うと、そいつは振り返って困ったように笑った。邪魔だと言っているのに、その場から退こうとしないのは癖か? 俺に対する嫌がらせか? こちとら、箱を持ってんだよと視線で訴えかけると、邪魔男ことうちのナンバーワンホストのナオトはカリカリと頭を掻いた。
「やることなくてさぁ。御堂のそれ、持とうか?」
「要りません。仕事なんで」
「真面目だよなぁ」
 あははと笑ってようやく端に寄った。真面目の、どこが悪いんだ。なんか、真面目なことをバカにされるのは凄くムカついて、不破さんがこんな奴のどこを好きになったのか、本気で問い詰めたくなった。クソ野郎がその理由を聞いたらしいが、顔だったらしい。確かに、ナンバーワンホストなだけあって、顔は整っていてカッコよくはある。でも、人間、顔だけじゃないだろう。
 厨房に酒を運び、ボトルをセットする。奥にあるボトルを全部出して、新しいのを奥にセットし、古いのを手前に並べる。取り出しやすいように、ラベルはちゃんと前を向けておく。取りに来たホストが一発で分かる様にしておかないと、後で文句を言われたりするからだ。それがちゃんとなっているか、棚を全てチェックをする。
「御堂君。そろそろ、ミーティング始めようか」
 チェックし終わったところで不破さんが話しかけてきた。毎日、店が開店する前に内勤達は内勤達でミーティングを行う。仕事の割り振り、注意点等を不破さんがみんなに説明する。その間に、ホールではホスト達もミーティングをしていて、こう言うことをしっかりやっているからうちはこの近辺でもクオリティの高い店として有名なんだろうか。
「分かりました」
 そう返事をして立ち上がる。
 ホスト達は店が開けば女の人たちに愛を売るだのああだこうだ言っているけど、それが円満に進んでいるのは、もちろん、その裏でこうして俺達が働いているからだ。別にそんなことを自慢するわけじゃないけど、知っていてほしいとは思う。
 けど、そんなことも分かってないバカたちがいっぱいいて、俺はそいつらが大嫌いだった。

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