君を好きになる20の方法

13項目 君は許してくれるだろうか


 どうして良いか分からず、数日が経ってしまった。岡が作ってくれた弁当は、その日に全て食べ、母さんに弁当箱を洗ってもらってある。何て言えば良いのだろうか。そんなことばかり考えていて、行動に移すことが出来なかった。しかし、いつまでもこんなことをしているわけにも行かず、俺は覚悟を決め、岡の所へ行こうと思った。岡が持ってきた紙袋に、弁当箱を入れ、立ち上がる。
 逃げていてはだめだ。岡が来るのを、待っていてはダメだ。
 当分、顔も見たくないと言われたからかもしれないけど、あれから岡はうちへ来ていない。最初は母さんや父さんが心配していたけど、来なくなったら来なくなったで、岡の居ない生活が当たり前になろうとしている。岡のいる生活が当たり前になるのは、簡単だった。居なくなる生活だって、簡単に当たり前になろうとしている。人の順応性と言うものは、単純で残酷だ。居なくなる生活が嫌なら、俺は、それを阻止しなければならない。俺にだって、足がある。岡の家に行くことだってできる。そして、謝る口だってある。いつまでもいつまでも、岡がここへ来ることを、待っていてはいけないんだ。
 岡は許してくれるだろうか。
 俺が岡のことを許せなかったように、俺も俺のことを許せないだろうか。
 他人に気持ちを踏みにじられるより、好きな相手に気持ちを踏みにじられるほうが、辛いだろう。岡の気持ちをウソだと決めつけた時点から、岡は怒っていた。それもそうだろう。よく考えたら、岡はいつでも、俺に対して熱心だった。仕事はほとんどが肉体労働だ。デスクワークもたまにするらしいが、少ないと言う。ヘトヘトで帰ってきてるはずなのに、俺の所へ来て外の様子を教えてくれて、貴重な休日は俺を外に出そうと予定を組んで、初めて二人で外へ散歩をしに行った時は、岡が全てを揃えてくれた。
 それがいつの間にか当たり前になって、岡が俺の機嫌を伺ってくれるのも、当然になっていた。そんなの、当たり前ではない。当然でもない。岡の行動には、俺に対する気持ちが表れていた。
 それなのに、俺はそれをウソだと言ってしまった。こればっかりは俺が悪いから、ちゃんと謝ろう。そして、どうして怒っていたのか、それもちゃんと岡に伝えたいと思った。このまま、ケンカ別れするのはイヤだ。俺が逃げて終わるのはイヤだ。
 人間と言うのは、悪いことが自分の身に降りかかることを想定しながらも考えていない。最悪のパターンを考えていながら、いつでも、自分は助かると夢を見ている。
 今日は風が冷たかった。11月に入り、薄手のシャツでは寒さをしのげない。かと言って、トレーナーなどの服を持っていない俺は、寒さを堪えながら岡の家に向かっていた。俺の家から、岡が住んでいるアパートまでは歩いて10分ほどの距離にある。遠くも無く、近くもない。よく岡は自転車で来ていたようだ。俺には自転車が無いから、歩いて行くしかない。この前まで赤い葉や黄色い葉を付けていた街の木々は、ほとんど落ちてしまい、無残な姿へ変わりつつあった。
 雲行きが怪しくなり、ポツリと顔に軽い衝撃を感じて、俺は空を見上げた。曇天の空は雲が分厚く、雨が降り出し始めた。濡れてしまうと思い、俺は紙袋を両手で抱え走る。岡の家までは、走ってしまえば1分もかからないだろう。雨脚が強くなる。アパートの敷地に入った時は、髪の毛や肩が少し濡れてしまっていた。屋根のあるところに入った途端、ザーと言う音を立てて雨が更に強くなる。1階の、左から2番目。そこに岡の部屋がある。その前に立ち、俺はピンポンを押そうか迷った。
 手がチャイムに伸びる。
 その時、漠然とした不安が脳裏をよぎった。
 今日は、何日の何曜日なんだろうか。岡は家に来るたび、近日の予定をわざわざ俺に教えてくれていた。明日は夜勤だの、明後日は休みだの、し明後日は当直だの、岡の予定はほとんど知っていて、夜勤だったら何時に終わるだとか、当直だったら翌朝まで終わらないとか、帰ってきてうちに来る時間が大体は分かっていた。けれど、ここ数日、岡はうちに来ていない。つまり、俺は今日、岡が休みなのか、それとも仕事なのか、もしくは夜勤なのか、当直なのかすら分かっていないと言うことだ。家に居る可能性は、極めて低い。居なかったらどうしよう。そんなことを考えながら、俺はそのまま指を前に突き出し、チャイムを押した。
 家の中から、ピンポンと言う音が響く。中から、物音は聞こえてこなかった。やはり、今日は家に居ないんだろうか。このまま待ち続けても良いが、何時に帰ってくるか分からない人物をこんなところで待ち続けても、不審人物と思われるだけではないだろうか。上げていた顔が、どんどんと垂れさがっていく。期待が不安に変わり始めた頃、カチャンと解錠する音が聞こえ、ゆっくりと扉が開いた。
「…………どうしたの」
 不機嫌な声が、ドアの向こう側から聞えてきた。それだけで、どれほど岡が怒っているのか、想像できる。中々、開かなかったのは、開けようか迷ったからなんだろう。俺が思っていた以上に、岡は怒っていた。震える指を握りしめ、俺は口を開く。
「弁当箱……、返しに」
「……あぁ、そっか。俺、忘れたんだっけ。もらう」
 そう言って岡は扉を少し大きく開ける。俺が両手に持っている弁当箱を渡してしまったら、このまま扉が閉められるんじゃないかと思って、俺は何とかこの会話が続くよう、頭の中に言葉を思い浮かべる。ごめんって謝れば、謝れば、岡は許してくれるだろうか。何て言えば、この会話が続くだろうか。まだ終わりたくない。終わらせたくなかった。
 岡の手が、紙袋に伸びる。
「あ、あの……、はな、話が……、あるんだ」
「……何?」
 紙袋の取っ手を掴むと、岡はひったくるように取って行ってしまう。手ぶらになった俺は手を握りしめ、せわしなく動かす。言葉が続かなかった。このままでは閉められてしまう。まだ話したいことがあるのに、言葉はどんどん頭の中から消えて行ってしまう。
 何を喋っていいのか、分からなかった。
「……とりあえず、雨降ってるし。家の中、入れば?」
 長い沈黙の後、岡がそう言って俺を家の中に招き入れてくれた。俺は首を縦に振って、一歩、足を前に進めた。
 部屋の中に入ると、相変わらず、岡の部屋は汚かった。一人暮らしをしているからかもしれないが、座る場所があまり見つからず、俺は物が散乱しているテーブルの前をちょっとだけ開け、そこに座る。岡はわざわざ、湯を沸かして温かい飲み物を俺に入れてくれようとしていた。キッチンに立っている背中を見つめる。会話は無い。俺は正座をしながら、岡がここへ来るのを待っていた。
 寝ぐせのついた髪の毛と、スウェットに長袖のシャツを着ている。布団は前に来た時と同じように、捲ったまま団子になっていた。もしかしたら、岡は寝ていたのかもしれない。夜勤明けだったんだろうか。当直明けだったんだろうか。どっちにしろ、眠っている最中を起こしてしまったのは間違いない。それなのに、岡は何一つ、文句を言わなかった。俺と違って、岡の仕事はハードだ。疲れだってあるはずなのに、勝手な時間に来た俺を責めはしなかった。そんな岡に、ちょっとだけ安堵する。怒って無いのかもしれないなんて言う、希望にも似た楽観的な考えが浮かぶ。
 ピーと言うやかんの音が、部屋に鳴り響いた。突然のことだったので、俺はそれに驚いてしまい、体がビクと跳ねる。マグカップに湯を注ぎ、岡が「コーヒーだけど。砂糖とミルク、何個ずつ?」と背を向けたまま、尋ねてきた。俺は「二つずつ」と答え、俯く。岡が近づく気配がして、前にマグカップが置かれた。対面に、岡が座る。
「で、話って?」
 ゴクリと口の中に溜まった唾を飲み込んだ。とりあえず、謝れば、岡に気持ちが通じるんじゃないかと、俺はまだ希望を抱いていた。ごめんと、一言さえ告げれば、岡がいつのもように笑ってくれるんだと勝手な妄想を、俺はしていた。
「こ、この前なんだけど……、その……、あの」
 前に置かれたマグカップを両手で掴み、俺は息を吐きだす。一言だ。三文字だ。大丈夫。言える。そう言い聞かせて、顔を上げた。岡をまっすぐ、見る。
「……ごめん」
 その一言を言ったら、ホッとしてしまった。言えただけで、俺はその罪から解放された気がしていた。岡は俺を気だるげに見つめ、「何のことで謝ってんの?」と尋ねてくる。思いもよらぬ問いに、どうして良いのか分からず、戸惑う。動揺が、抑えられなかった。マグカップを掴んでいる手は、少し震えている。
「一緒に行くのが嫌って言ったこと? それとも、俺の気持ちを勝手に決めつけたこと? ウソを吐いたこと? ごめんって言えば、全てが収まるって思ってんなよ」
 岡の言葉は、厳しかった。言い返すことができずに、俺は俯く。俯くことしか出来なかった。予想以上に、岡は怒っている。物凄く、怒っていた。その怒っている理由すら、俺は分かっていなかった。岡の言う通り、謝れば全てが丸く収まると思っていたのかもしれない。
「ごめんって謝られただけで許せるかよ。里井の言葉に、謝る気持ちが感じられない。謝れば良いと思ってるだけじゃねぇか。そんな魂胆、丸見え」
「……そ、それは」
 ちがう、なんて言えただろうか。岡の目を見ていたら、ちがう、とすらも言えず、俺はまた俯いてしまう。ダメだ。俺、何のためにここまで来たのか、ほとんど忘れてしまっていた。怒っている岡が、怖い。それに委縮して、何も言えずに居た。
「違うなら、違うってはっきり言えよ。俺、エスパーってわけじゃないから、里井が何を考えてるかわかんねぇし」
「え、あ。そ、その……」
「はっきり言えよ」
 岡の口調が厳しくなって、俺はビクと体を震わせた。怖い。泣きそうになるのを堪えて、俺は言葉を紡ごうと口を動かす。それなのに、怖いせいか、声が出なくなった。人間って窮地に追いこまれると声が出なくなるのだと、頭の片隅で全く違うことを考えていた。
「……な、何でも、するから」
 学校の机が、フラッシュバックする。
 いつの記憶だ、これは。俺は板張りの床を見つめていて、ポタポタと水が垂れてきている。これは俺の涙、なんだろうか。床には丸いシミが沢山できていた。俺はその時と同じ言葉を、誰かに向かって言っている。視界の端には、白い上履きが見えた。
「……へぇ、何でも。ねぇ」
 まだ少し高い声が、岡の声と重なる。誰の声だ。……昔の岡の声だ。笑っている。笑っている声がする。俺を嘲笑っているような、侮蔑を込めた笑い。これはあの時と同じ場面だ。俺はあの時と同じことを、今、岡に向かって言って、岡も、あの時と同じ返事を俺にしている。違うのは、場所と体勢だけだ。俺はあの時、床にしゃがみこんで床に腕をついて、蹲っているような体勢だった。岡はそんな俺を、立って見下ろしていた。
「じゃぁ、ヤらせてくれたら許してやる。って言ったら、里井はヤらせてくれんの?」
 記憶とは違う言葉に、俺は顔を上げた。対面に居る岡は笑っていた。俺をバカにするような目で見て、笑っている。あの時と、言葉は違うのに、その笑顔はあの時と同じ笑顔だ。俺はそれが怖くて仕方ない。手が震えた。岡が立ちあがって俺に近づく。やめてほしい。近づくな。やめろ。怖いのに、岡から目が逸らせなかった。俺は目を見開きながら、岡を見上げる。少しでも離れようとして後ずさると、ベッドのパイプに背中をぶつけた。後ろはもう無い。どうして、岡は、どうして、岡は、あの頃に戻ってしまったんだ。俺のせいだろうか。イジメていたのも、今、変わってしまったのも、全部、俺のせいなんだろうか。
 俺のせいで、岡が変わった。俺が、岡を昔に戻した。
 怖い。岡が、怖い。
 岡の手が俺に触れる。目を瞑っていないのに、涙は溢れて頬を伝って行く。それを見たのか、岡の目が少し見開かれ、頬から指が離れる。そして、岡自身が俺から離れて行った。そして、先ほどと同じように対面に座り、俺から顔を背けて長いため息を吐いた。
「……何でも、なんて、できねーじゃん」
 岡の顔を見ていないから、どんな顔をしてそう言ったのかは分からない。でも、声は先ほどよりも覇気が無かった。どうして良いか分からず、俺は未だに俺を見てくれない岡を見つめ続けていた。遅れて流れてきた涙を手の甲で拭い、鼻水を啜る。
「俺がどういう風に考えてるか分かっただろ。……里井に理解できるはずがない」
「そ、そんなこと」
 無いと言おうとして、口を閉じる。あんなに怖かった岡を、俺が理解できるだろうか。あの時、俺はどう思っていた。怖いと思ったし、触れてほしくないと思っていたではないか。所詮、俺は岡のことを分かっていたつもりだったんだ。岡のことなんて、何も分かっていなかった。イジメっこだったときも、今も、何を考えているかなんてさっぱりだ。
「……帰れよ」
「え」
「もう帰れよ」
 岡の声がいつもより辛そうだったから、俺は立ちあがってそそくさと玄関に向かう。その時、キッチンに置いてある紙袋が目に入った。あのお弁当、頑張って全部食べた。それだけは岡に伝えたくて、俺は振り向く。岡は俺を見つめて、眉間に皺を寄せていた。怒っているようにも見えるし、悲しんでいるようにも見える。岡は今、何を考えているんだろうか。俺は喉に溜まった唾を飲み込む。
 これだけは、ちゃんと伝えたかった。
「お弁当、美味しかった」

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