君を好きになる20の方法

14項目 君といた頃


 まだ雨は降っていた。
 どんどんと水を吸収していく服は、吸いきれなくなったと同時に、肌へ透けて行く。雨が体を伝った。とても、冷たかった。家に帰らなければ、俺を突き動かしていたのはその一心だけだった。手がまだ震えている。怖かった。本当に怖かった。家を出てから、恐怖が一気に押し寄せてきて、歩くことすらままならなくなりそうだった。この前までの岡は、何処へ行ってしまったんだろう。懐かしくなりそうなぐらい、あの明るかった岡が、俺の記憶から霞んで行く。一歩、また一歩、頑張って足を進める。泣いているのか、それとも、ただ、雨が顔を伝っているのか、どちらか分からなかった。
 雨は冷たい。
 寒くて震えている気もしてきた。ようやく、家の屋根が見え、安堵する。歩いている間、岡が追ってきたらどうしようかと思っていた。追ってきてほしいのか、追ってきてほしくないのか、よく分からない。昔の表情で俺に寄ってくるぐらいなら、来てくれないほうがマシだった。門を開け、玄関のドアノブに手を掛ける。家に入るなり、廊下に立っていた母さんが驚いた顔をして俺を見る。
「と……、ともちゃん!? び、びしょぬれじゃない」
 びしょ濡れの俺を見て、母さんは駆け寄り、俺の肩を掴む。その手は少し震えているようだった。濡れている俺を見て、かなり驚いているようだった。
「……うん。お風呂、入る。タオル取って」
 どうして濡れて帰ってきたのか、俺は言わない。余計に母さんを心配させるだけだが、岡を怒らせて帰ってきたなんて、もっと心配するだろうから、言わない方が良い。母さんは俺を見つめ、少し黙りこみ「ちょっと待ってなさい」と言って、俺に背を向けた。
 母さんはパタパタと足音を立てて、廊下を走っていく。俺が立っている場所から、水たまりが出来ていく。雨脚は強かった。びしょぬれになっているせいで、泣いているのが悟られなくて良かった。手の甲で鼻水を拭く。母さんがタオルを持って、戻ってきた。
「お風呂沸かしてるから、もう入っちゃいなさい」
「……うん」
 小さく返事をして、家の中に入る。ビショビショと歩くたびに、足元から音が鳴る。俺が歩いたところは、水で足跡がつけられていく。濡れた服はとても重たく、肌にくっついて脱ぐのも大変だった。ずぶぬれになった服を全部洗濯機に突っ込み、俺は浴室に入った。蛇口を捻り湯をシャワーから出す。
 熱いシャワーを浴びると、冷えは無くなった。頭がボーっとし始め、何も考えられなくなる。去り際、岡の表情は怒っているようにも見えたし、悲しんでいるようにも見えた。それが当時の感想だったけれど、今はちょっとだけ違う。泣くのを堪えているようにも、見えた。岡が泣いていたとしたら。あの行動は本意で無かったんだろうか。もう、分からない。帰れと言われて、居座れるほど、俺は図々しい人間ではなかった。
 風呂から出てタオルで体を拭く。パジャマがもう、脱衣所に用意されていた。母さんが用意してくれたんだろう。しゃがんでそれを取ろうとした時、頭が眩み、倒れそうになる。顔が熱い。息も熱い。ちょっとだけ苦しくて、体が重たかった。冷たい雨に当たって、風邪を引いてしまったのかもしれない。引きこもって免疫力が無くなった俺に、今日の雨は厳しかった。
「……母さん、体温計ある?」
「あら。ちょっと顔色悪いわね。風邪?」
「うん。ひいたっぽい」
 母さんは俺の額に手を当て「ほんとね。部屋、いってなさい」と言って、俺の背中を押した。やっぱりちょっと熱っぽくて、ふらふらしながら部屋に上がる。何も考えたくなかった。もう疲れた。久しぶりに凄く考えたから、少しだけで良い。休ませてほしかった。
 ベッドに寝転がり、布団と被る。思った以上に体は疲れていたようで、息が上がった。天井を見上げていると、目がしらが熱くなる。熱のせいなのか、泣きそうなのか、考えるのは面倒だ。大きく息を吐いて目を瞑ると、目じりから熱い液体が流れ落ちる。まだ、涙は出てきた。
「薬を持って来たわよ」
 母さんが扉を開ける。ぐったりとしたまま、顔を横に向けると「辛いの?」と言ってベッドの隣に座った。冷えピタを額に張ってくれる。すーっとした冷たさが、朦朧とした頭を少しははっきりとさせてくれる。
「ほら」
 そう言って、母さんは手のひらに乗せた薬を俺に差し出す。体を少し起こし、俺は母さんの手から薬を受け取って、薬を飲みこんだ。すぐに水を手渡され、急いで飲む。冷たい水は、飲んだところから体を冷やしてくれる。枕に頭を預け、「ありがとう」と小さい声で母さんに言った。
「久しぶり。ともちゃんが風邪をひくのは」
 記憶がある限り、風邪をひいたのは中学生ぶりだった。それからは外に出ていないから、体がだるい日はあったけれど、こんなにはっきりとした風邪の症状は無かった。久しぶりにひいた風邪は、辛くてしんどい。涙が出そうになった。それは、岡のせいなのか、風邪のせいなのか、判断はつかない。
「……うん。久しぶりに濡れたから」
「岡君の所へ行ってたんでしょう」
 はっきりと言われ、俺は母さんを見る。母さんは俺がどこに行ってたのか分かっていたようだ。俺を見て、優しく微笑んでいる。少しだけ頷くと「……やっぱり」と言って、ベッドに肘をついた。
「お姉ちゃんとケンカしたとき、ともちゃんが初めて、イジメられてたこと言ってくれたね」
 母さんは優しい目で俺を見つめ、そう言った。俺はどんなに問い詰められても、イジメられていたことを家族に言ったりしなかった。引きこもる原因は、誰にも話したことが無い。薄々とは気付いていたんだろう。毎日、学校へ行っていた俺が、いきなり行かなくなったんだ。母さんだって、父さんだって、姉ちゃんだって、かずだって、最初は俺のことを凄く心配してくれた。けど、その心配を邪険にして、家族との間に溝を作ったのは、紛れも無く俺だった。
 母さんから目を逸らし、視線を布団に向ける。母さんの目を見ているのは、辛かった。
「岡君ね。初めてうちに来た時、お母さんにこう言ったの」
 そう言いながら、ちゃんとかかっていない布団を、母さんは首までかけてくれる。母さんの目は、先ほどと変わらず優しかった。
「ともちゃんを引きこもりにさせたのは、自分ですって。お母さん、最初はこの人、何を言ってるんだろうって思ったの。だって、警察官よ? お巡りさんになるような人が、そんなことをするとは思えないじゃない。初めは信じてなかったの。でもね、あまりにも岡君がまっすぐお母さんを見て、そう言うから、あぁ、本当なんだなって思ったのね。でも、どうして今さら、こんなことを言うのだろうって、次は疑問に思ったの。だって、10年も前の話よ? その時ならまだしも、今さらそんなこと言われたって、お母さんは岡君のことを嫌いになるしかない。それすらも、出来ないぐらいの心境だったの。でね、お母さんは岡君にどうしたいの? って聞いたのね。岡君が何をしたいのか分からないから。そしたら、岡君は、懺悔とか、罪滅ぼしなんかではなく、ともちゃんのために引きこもりから脱出させたいって言ったの。憎くて、顔も見たくないと言うなら、ここへは来ないし、ともちゃんにも関わらないって言うから、じゃぁ、期限を設けるわって言って、岡君に1ヵ月の期限を与えたの。1ヵ月の間に、ともちゃんを引きこもりから脱出させれなかったら、岡君はもう、ともちゃんに関わらないでって。ねぇ、ともちゃん。よく考えてみて。岡君が初めて、ここへ来たのは、いつ?」
 それは忘れもしない、それは今日から1ヵ月前のことだった。岡と会ってから、1ヵ月が経った。長いようで短かった日々。最後の1週間は会わずにいた。謝りに行くにしては、遅すぎたのかもしれない。そんなことばかりを後悔して、俺は行動に移さなかった。母さんの目をジッと見つめ、俺は何も言わない。岡が、そんなことを母さんに言っているとは思いもしなかった。どうして、イジメていたことを母さんに言ったんだろう。母さんはどうして、岡のことを許せたんだろう。いや、母さんはまだ許せていないのかもしれない。母さんが、岡のことを許すとしたら、俺が引きこもりではなくなってからだ。目がそう、訴えていた。
「明日で1ヵ月なの。ともちゃん、かなり外に出るようになったわよね。お母さん、それは凄く嬉しい。これからもっと、ともちゃんはよくなるんだと思ってた。岡君ってちょっと強引だけど、引っ込み思案のともちゃんには丁度良いのかなって、思っていたのね。一時期、引きこもっちゃったときもあったけど、あの時だって、岡君は凄く頑張ってたとお母さんも思う。良い方向に、全てが向かうのかなーって思ってたら、最後の最後に、ダメになっちゃったわね」
 母さんは相変わらず、優しい目をしながら俺に向かってそう言う。ダメになってしまった、と母さんは言った。本当に、ダメになってしまったんだろうか。もう、岡は俺のことが嫌いで、二度と顔も見たくなくて、話もしたく無くて、凄く怒ってて……。謝っても許されない。
 ……本当にそうだろうか。
 岡はもう、俺を見放したんだろうか。
「ともちゃん。岡君のこと、嫌い?」
 俺は首を横に振った。
「岡君がどうして怒ってるのか、ともちゃんは分かってるのかな?」
 それにも首を振った。
「ともちゃんも、岡君に向かって怒ってたわよね」
 俺は首を縦に振る。
「それ、どうしてか、ちゃんと理由を言った?」
 首を横に振る。
「それ、ちゃんと言わなきゃダメよ。岡君だって、いきなり怒られたらびっくりするわ。岡君だってショックだったはずよ。それをちゃんと、謝らなきゃね」
 首を縦に振った。
 岡に怒られた理由も何となくわかった。言い方はとてもきつくて、岡の気持ちが通じにくかったけど、岡はいきなり俺に行かないと言われてショックだったのかもしれない。俺はあのとき、凄く怒ってて、怒りすぎてて変に冷静で、頭の中を支配していたのは怒りだった。怒りしかなくて、岡が何を考えているのか、岡がどうしたかったのか、岡がどう思ったのか、なんて全く考えていなかった。岡は動揺していた。動揺してちょっと困って、半笑いで「どうしたんだよ」と俺に尋ねてきた。俺は、その理由をちゃんと言わなかった。
 嫉妬だった。岡が、女の人と一緒に歩いているのが、嫌だったんだ。
 それすらも、俺はちゃんと言わなかった。勝手に覗いて、勝手に怒ってたら、岡が困るのは分かっている。そして、俺は岡の気持ちをウソだと決めつけて、怒らせてしまい、岡が怒っている理由も分からずに謝って、もっと怒らせて、何もかも悪循環だった。
 元通りには戻れないんだろうか。最初からこうやって諦めているから、ダメなんだと弱気な自分を叱りつける。まだ分からないじゃないか。母さんが決めた期限は、明日まであって、終わったわけではない。まだ終わって無い。終わって無いんだ。
 こんな名言だってある。
 ----最後まで……、希望を捨てちゃいかん。あきらめたら、そこで試合終了だよ。
 諦めたら、それこそ、おしまいだ。だから俺は諦めちゃダメなんだ。逃げ出したいし、もうこのまま、終わってしまっても良いと弱気な自分がいるけれど、その片側で、このままじゃダメだ。このままで終わりたくないと、強気な自分が俺に訴えている。なら、明日までは諦めない。
「とにかく、今は寝て、熱を下げなさい」
 母さんはもう一度、俺にしっかりと布団をかけ、部屋から出て行った。寝ろと言われても、頭から岡のことが離れない。いっぱい考えたいことがあるのに、体は無理やり、俺を寝かそうとする。母さんから言われた事実は、衝撃的だった。俺は、イジメられていたことを家族にバレたくなかったから、ずっと黙っていた。バレていたとしても、俺がそれを口に出さない限り、それは全て、思惑でしかないからだ。姉ちゃんに言ってしまったのは、売り言葉に買い言葉だったけれど、それまで本当に、言ったことが無かった。
 どんなに怒られようとも。
 どんなに心配されようとも。
 それなのに、イジメられていた事実を岡が暴露してしまった。決して、良いことではない。出来ることなら、黙っていた方が良いはずだ。岡だって、その方がうちに来やすい。母さんに言った理由は? 俺を引きこもりから脱出させたいため? それとも、俺のため? 自分のため? 考えるだけ無駄だった。
 頭が朦朧として、思考が正常に働かない。ずるずると、そのまま、意識は眠りに引きずり込まれていった。
 夢を見た。
 今から約10年前の、イジメられていた頃の記憶だ。
 岡といた頃の短いようで長い2年間の記憶。

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