君を好きになる20の方法

8項目 君を好きになる前提


 泣いたのは、数日ぶりだった。不規則な生活を送っているせいで、夜はなかなか、寝れないことが多い。椅子に座ってパソコンの画面を見ていたが、何もする気が起きず、カーテンを開ける。みんなが寝てしまった街は、暗く、静かだ。何となく、こんな時間に外へ行ってみたくなり、俺は部屋を出た。
 外に出るのも、数日ぶりだ。
 母さんや父さんを起こさないようそっと階段を降りる。もう時刻は、午前4時。夜中と言うより、朝方と言った感じだ。人も全然居ないだろう。靴を履いて、玄関を開ける。冷たい風が、全身を襲い身震いした。
 ポケットの中に入れていた家の鍵を、そっとかける。家の鍵をかけたなんて、何年ぶりだろうか。10年ぶりなのは確かだ。母さんは専業主婦だったから、家に居ることが多く、鍵をかけて出歩く習性が俺には無い。玄関を背に向け、歩き始める。少し薄着をしてきてしまった気がしたが、ちょっと肌寒いぐらいのほうが、心地いい。夜は、日中と雰囲気が全然違っていた。
 ブロロロと原付の音が聞こえて、ビクと体が跳ねる。どうやらもう、新聞配達は始まっているようで、俺の隣をバイクが通り過ぎる。こんな時間に、長袖シャツとスウェットで歩いてる奴なんて居ないだろう。変な奴かと間違われて無いだろうか。一度、不安になったら、マイナス思考が止まらなかった。けれど、家に帰る気にもならず、俺は足を前に動かした。
 ゆっくりと歩く。外に出るのは、岡と一緒が多かったから、どうしても岡のペースになりがちだった。背はそんなに変わらないけれど、岡は歩くのが早い。俺はそのペースがちょっときつくて、早いと文句を言うが、岡は「大丈夫」と言って歩調を緩めない。体力のない俺が、そんなペースについていけるわけもなく、周りを見る余裕なんてあまり無かった。今日は、周りの景色をいっぱい見て帰りたい。時折吹く柔らかい風が、俺の背中を押してくれているように感じた。
 薄暗い道は足元が見えにくく、ぽつぽつと点いている電灯は頼りない。家の電気はほとんど消えていて、一部の人以外、寝静まっているんだろう。早出とか言ってた岡も、今頃、寝てるんだろうか。岡が住んでいるアパートの隣を通り過ぎると、岡の部屋は電気が消えていた。早出だから、もう出てしまったのかもしれない。顔を合わすのは、嫌か、嫌じゃないか。考えすぎて分からなくなっていた。
 少し疲れて、近くにある公園に寄った。ここは、岡にキスされた場所だ。あまり近づきたくなかったが、休める場所はここしかないから、仕方なくブランコに座る。地面を蹴って、ブランコを動かすと、ギーコーと金属の擦れる音が響いた。もう少し蹴って、大きめに揺らす。空を見上げると、真っ黒だった。星は、あまり見えない。半月が丁度真上にあって、揺れながら月を見つめていると、「……君、何してるの」と話しかけられ、顔を正面に向けた。
 正面に警察官。一瞬、岡かと思った。
「……え、あ、ああ、……え、あの……」
 戸惑いが声に出て、挙動不審になる。
「こんな時間にこんなところで何してるの」
 警察官は少し厳しい口調で俺に話しかける。何をしてるなんて、説明できない。だって、何かをしにここまで来たわけじゃないから。どうしようかと視線を泳がす。警察官の人は一歩、俺に近づいてきた。
 これが俗に言う、職務質問、とやらなんだろうか。状況的にはあまりよくないのに、そんなことを考えてしまっていた。
「今、何時か分かる?」
「えっと、え、ああ……、えっと、えええ、えっと」
「もう5時だよ。そんな格好で、こんなところうろついてるなんて……。最近、不審者も良く出ててね」
 もしかしなくても、俺は不審者と間違われている。俺が警察官だったら、確かに声を掛けたくなるのは分かるが、違う。違うんだ。否定しようにも、なんか目の前に居る警察官の人が怖くて、否定できなかった。目から、涙が浮かぶ。
 何とか口を開いて、無実を証明しようとした時。
「先輩。何してるんですか」
 聞きなれた声がした。
「おぉ、岡。ちょっと不審な人物をな」
「……里井?」
 岡の顔が、俺に向けられる。
「あれ、お前、知り合いなのか?」
 岡の先輩も俺を見る。なんだか居たたまれなくなって、逃げ出したくなったけど、ここで逃げたら俺が本当に悪いことをしているみたいだから、我慢した。ぐっと拳を握って、俯く。笑い声が聞こえた。
「やだなー。先輩。これ、俺の知り合いっすよ。不審人物じゃないですって」
「おぉ、そうなのか。こんな時間にブランコ乗ってる奴がいたら、可笑しいと思うだろ」
「……まぁ、そうですけどね。ちょっと、時間もらってもいいですか? 後で追いつくんで」
「おぉ、分かった」
 ザッザと、砂を蹴っていく音が遠ざかっていく。どうしよう。すごく気まずい。俺は俯いたまま、ブランコの鎖を掴む。避けているわけではなかったが、顔を合わす準備をしてなかっただけに、どういう顔をしていいのか分からない。岡が動く気配がした。
「そんな格好で出歩いてちゃ、不審人物と間違われても仕方ないわな」
 からかっている声が聞こえ、俺は顔を上げる。岡は制服に帽子を被っていて、どこからどう見てもおまわりさんだ。初めて会ったときと、全く同じ格好をしている。たまにうちまで制服着て来る事があるけど、帽子は被ってなかったりする。だからなんだか、その格好が新鮮だった。
 岡の顔も、久しぶりに見た気がする。時間としてはそんなに経っていないはずなのに。
「なんか、久しぶりに顔見たな。……ま、時間的にはそうでもないんだろうけど。毎日、会ってたから」
 岡も俺と同じ事を思ったようでそう言う。俯いてしまって、どんな表情をしているのか分からない。意外と、会ってしまえば何とも無かった。今まで、うだうだと考えていた俺が、バカバカしい。岡がブランコを揺らす。ギーと重たい音が、響いた。
「こんな時間に、何してんだよ」
「……岡こそ。早出だったんじゃないの」
「あぁ、俺はあの後、夜勤の奴が熱で倒れたから来てくれって言われて出勤したの」
 つまり、岡は俺の家から出て行った後、すぐに働いていると言うことか。俺が姉ちゃんとケンカしているときも、うだうだと泣いているときも、こうして働いている。俺とは大違いだ。それもそうだろう。岡はちゃんと中学も高校も卒業して、大学はどうか分からないが、こうして全うな仕事にまで就いている。中学もろくに卒業できなかった俺と、違っていて当たり前だ。その違いが、劣等感を生む。
「……里井さ、昨日、泣いた?」
「え……」
 どうして分かるんだ。そう思ったとき、岡がすかさず「目が赤い」と言う。言われて、目を擦ってみると、まだちょっとだけ熱を持っていた。こんなくらい中、良くそんなの分かったな。それだけ岡が俺のことを見ているんだろう。わずかに恥ずかしくなって、体温が上がる。
「……姉ちゃんと、ケンカしたから」
「あぁ、なるほど。そういや、俺が帰るとき、里井の姉ちゃんと会ったな。もしかして、ケンカしたのってその後?」
 その問いに俺は頷く。
「里井の姉ちゃんさ。ちょーっと誤解してるっぽいんだよなぁ。甘やかすのは里井のためにならないから、これ以上、甘やかさないでって言ったんだよ。でもさ、俺、そんなつもりで里井の家に行ってるわけじゃないから、そうじゃないですよーって言ったんだけど。どうも納得して貰えなくてさ。俺は、里井と喋りたくて家に行ってたわけだし。部屋に入らせてもらえなくても、ドア越しに会話するのも結構、楽しかったしな? 囚人と面会人、みたいで」
「……なんだよ、それ」
「まぁ、それは冗談だけど。単純な話、それだけで十分ってことだよ」
 それは本当に単純だなって思った。岡はもう一度、地面を蹴ってブランコを揺らす。大きく揺れた岡の体が、俺の隣を行ったり来たりしている。
「なんて言われたの?」
 岡が俺を見る。ふいと、視線を逸らし、俺は俯いた。言っていいのか悪いのか、迷う。姉ちゃんとケンカした内容は、もちろん、隣に居る岡のことだ。岡もそれを気付いて俺に尋ねているんだろう。魂胆が分かってるだけに、岡のことで泣いたなんて言えば、岡はどう思うだろうか。喜ぶか? それとも、怒るか?
「言って」
 岡の声が、強くなった。その声に少しビビり、俺は口をもごもごとさせた。
「………………岡が、俺と仲良くしてるのは、使命感、だって」
 躊躇ったせいか小さい声になってしまい、俺は俯く。ギーと鳴っていた、隣のブランコが止まる。岡は何も言わず、黙り込んでいる。なんだかそれが怖くて、恐る恐る隣を見たら、岡はまっすぐ俺を見ていた。
「使命感なんかじゃないよ」
 姉ちゃんの言葉を、はっきり否定した。その言葉に恐怖なんか吹き飛んで、安心感が込み上がり、ホッとしてしまう。良かった。俺が違うと否定したのは、あっていたようだ。泣きそうになって、鼻の奥がツンとする。泣かないよう、必死に息を止めて襲ってくる衝動を堪えた。
「姉ちゃんは……、昔の罪滅ぼししてるって……」
 泣くのを堪えているせいか、声が震えてしまった。岡はブランコから降りて、俺の腕を掴み、引っ張って立ち上がらせると、いきなり抱きしめてきた。冷たい頬が、俺の耳に触れる。ビクと、体が跳ねた。突如、心臓の心拍数が早くなる。バクバクと加速する心臓の音が、岡に聞こえていないか、そんなことばっかりが気になって仕方なかった。
「確かに悪いことをしてしまったから、昔の俺を払拭したいってのはある。でも、罪滅ぼしなんかじゃない。だってこれは、俺を好きになってもらう前提だから。罪滅ぼしなんて、里井が引きこもりになった時点で、終わっちゃう。……そんなの俺、絶対に嫌だ」
 抱きしめる力が強くなった。岡は岡なりに考えていることがやっぱりあって、俺と姉ちゃんが岡の考えも知らずに口論すること自体、間違っていたんだ。
 岡を好きになる前提。
 それは俺から、イジメっこだったときの岡を払拭させること。それはもうほとんど出来ているようなものだけれど、岡にはあえて言わなかった。
 それがせめてもの、復讐だからだ。俺の苦しみを、ちょっとだけ味わせたかった。
「なぁ、里井」
 岡の力が、更に強まる。
「俺、イメージ変わった?」
 不安げな声が、耳元から聞こえた。岡も、不安を感じているのだろう。人を好きになったことがあるから、相手の気持ちが分からず不安になるのは俺だって分かる。分かるけれど、その人を好きになると言う大切な気持ちをめちゃくちゃにしたのは紛れもなく、俺を抱きしめている岡だ。岡は俺に、ひどいことをした。それは二人そろって分かっていること。どう答えようか、迷った。
「……ちょっとだけ」
 意地悪な返答をしたにも関わらず、安堵の声が岡から漏れてくる。俺の一言に一喜一憂する岡。胸が苦しくなった。辛いのか、それとも他の感情なのか、まだ知りたくない。いじめっ子だったときの岡が居なくなれば、この後は、岡を好きになるか、それともなれないか、その二つだけだ。岡を好きになれなかったら、きっとこの関係は無くなってしまう。岡は俺のことを避けるだろう。今度は、岡が俺を避ける。それはそれで、嫌だった。でも、岡を好きになる勇気も、俺には無い。
 岡は、人の想う気持ちをめちゃくちゃにしたんだ。
 俺は、人を好きになるのが、怖い。
 いつか、壊されてしまうから。
「なぁ、今日さ。昼には仕事が終わるんだ。……だから、ポケモンの対戦、しようぜ」
 俺はこくんと頷く。小さい声で、「よっしゃ」と呟く声が、俺の耳まで届いた。
 それから、岡に無線が入り、早く戻らないと怒られると言って、岡は公園から去っていった。何十分、ここで喋っていたのか、時計を持っていない俺は良く分からなかったけど、真っ暗だった空は東から白み始め、朝がそろそろやってくる。俺を不審者だと思っていた先輩も、岡の帰りがあまりにも遅いから心配したのだろう。慌てて帰っていった岡の背中を見送り、俺も家に帰る。もう、母さんは起きているだろうか。夜中に出て行ったなんてバレたら、怒られてしまいそうだ。でも、もう、俺だって26歳の大人だ。夜中に出たって、問題は無いだろう。朝の風は、夜の風よりちょっと冷たくて、そして、清らかだった。
 歩いているうちに、太陽が姿を現し、鳥の鳴き声が近づいて、遠ざかっていく。外に出る人も増え、ランニングしている人や、会社へ出勤するのかスーツ姿の人もいた。こんな時間から働くなんて、大変だなと、すれ違いざまにそう思う。岡も、いきなり呼び出されて夜勤だったのだから、大変なんだろう。市民の安全を守るとか偉そうなことを言っていたけど、確かに頑張っているようだった。いじめっ子だったことを考えると、警察官なんて、岡には似合わないと思っていたが、あの格好は中々、様になっていた。
 慌てて帰っていった様子を思い出して笑う。
 朝の心地よい風が、俺の頬を撫でていった。

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