夏の夜の夢


 カラン、コロン、カラン、コロン。
 目隠しをした祭司の手には奇妙な絵が書かれた賽子(サイコロ)があった。それを真っ白の布の前に転がし、祝詞を唱える。
 その村に伝わる年間行事の一つ、賽詠み(サイヨミ)。賽子を二つ振って、その絵柄で村の一年を卜う行事だ。
 毎年新年、1月3日に行われる。賽子の模様は祭司の家系しか読めず、村の運勢を占えるのもこの祭司だけだった。
 村中の人が祭司の家に集まりその行事を村人全員で見守る。今年の運勢が決まるだけに全員必死だった。
 目隠しを取って、祭司は賽子の模様を見た。目を細くしてにこりと微笑んで村人を見た。
「今年は神が舞い降ります」
 その言葉に全員が動揺した。嬉々とした顔、不安な顔が祭司を見る。
「良い神か、悪い神かは分かりませんが……、8月18日にやってくる美しい青年と一緒に神はこの村にやってきます」
 祭司がそう言うと村人はざわめき、それぞれに顔を見合わせた。そんな村人の姿を、遥か遠く庭の片隅で黒い着物を着た男が、ジッとその姿を見つめていた。


 8月18日
 今日も猛暑日を記録している。照りつける太陽は体力を奪って行った。1日に1回出ている定期船に乗って、鷺宮優希は大学の調査である島へやってきていた。
 九州と沖縄の間にある孤島。なぜ、そんなところにやってきたのかと言うと、地球温暖化における植物生態系の変化を調べレポートにまとめなければならなかった。
 観光気分で来たのは、東京ー九州までの移動のみで船に乗ってからは船酔いに遭い、観光どころじゃなかった。
 本来だったら大学の友人と一緒に来る予定だったが、数日前から高熱に襲われ、来れなくなってしまったため優希一人でこの島へやってきた。
「……あつ」
 額に浮いた汗を腕で拭って優希は獣道のような道を歩いていく。
 賽鬼島(サイキシマ)。名前の由来は分からないが、この島には古くから賽子に関わる史実が残っていて、現在でもその賽子を使って村の運勢を卜うと言う儀式が残っている。
 一応、村長はいるが、実質この村を仕切っているのは祭司の一族だと言う。現在の祭司は30歳の若く綺麗な男性だと大学の教授から話は聞いていた。
 そして、この島は自給自足で過ごしているため環境汚染は少なく、生えている木々は古くから残っているものが多い。地球温暖化によって植物生態系がどう変わったのか調べるには、うってつけの島だった。
 それにしても、本当に辺鄙なところへ来てしまったのだ。優希は神奈川県の浜辺の街で生まれ、現在東京で一人暮らしをしている。基本的に近くにコンビニや駅があり、生活するのに不自由をしたことがなかった。そんな彼が今、コンビニ1軒もない超ド田舎で1週間過ごさなければならなかった。
 村は島の中心部にあり、半径5kmほどの小さい島にポツンと存在する。住民は約100人程度。村のほとんどが親戚と言ってもおかしくない状態だった。
 それでも、祭司の一族が持つ権力は強く、誰も逆らえそうにない。と言うのが、去年、この島へ来た先輩のレポートに余談として書かれていた。
 毎年優希が通っている大学から1人から3人までこの島へやってくる。村人は排他的で最初は素っ気無いが、後に親切にしてくれるだろうと教授からアドバイスを受けた。
 こう、小さい村で排他的になるのはなんとなく想像がついていた。他から人が来れば、村の風習・風土・伝統などを穢される不安がある。その心境からどうしても受け入れを拒否してしまうのだが、あくまでも大学のレポートをまとめに来ただけだ。
 優希も村人と接するつもりもなかったし、下手に歓迎などされれば優希も優希で色々と面倒だった。
「本当にここは道なのか!?」
 草木が生い茂った森林の間を抜けるように歩いていく。一応村への看板は出ていて道は間違っていないが車など通れるはずも無く、自転車でも難しいと思われた。
 昨晩雨が降ったのか、地盤がぬかるんでいて足を何度か捕られそうになった。1時間半ほどかけて優希は小さい賽鬼村へやってきた。
 まず、どこか家に泊めて貰わなければならない。昨年、先輩は肩身の狭い村長の家に泊まらせてもらい、延々と愚痴を聞かされたとの報告が上がっている。愚痴を聞くのはあまり好きではないが、昨年先輩がそこに泊まっているなら泊まらせて貰えるだろうと言う仄かな期待を持って、優希は村長の家へと向かう。
 じゃりっと村の土を踏んだ瞬間だった。バッと並んでいる家から人が出てきて、優希をジロジロ眺めている。
 何が起こったのか分からず、優希はその場に立ち竦んでいた。ジロジロ眺めては、こそこそと耳打ちをしている。もしかして、来てはいけなかったのだろうかと言う不安に駆られながら、優希は一歩一歩とゆっくり歩いていく。
 村人のほとんどは薄汚れた衣服を着ていて、清潔感にかけている。優希が一歩歩くたびに、村人が優希を囲っていく。気づけば四方八方、360度村人に囲まれてしまった。
「あのっ……」
 せめて自己紹介でもしようと声を出したときだった。シャランと小さい鈴の音がして、全員がまっすぐその音のほうを向いた。分かれ行く海のように、バッと優希の進行方向つまり村の奥への道が開かれ煌びやかな着物を纏った男性が優希に向かって歩いてきた。
 白地に赤い袴。そして、袖口、衿にオレンジ色のラインが入った清楚な着物である。両手には神事で使われる神楽鈴と呼ばれる、鈴がわっかのように括られ何段かになっている鈴が持たれていた。
 歩くたびにその鈴が揺れて、シャラン、シャラランと音をたてる。
 神楽鈴の取っ手には黒、緑、赤、三色の帯で巻かれていて、それが風に煽られ棚引いていた。
「この村の祭司、賽堂透と申します」
 賽堂と名乗った男性は聞いていた通り、30歳ぐらいの若い男性だった。長くもなく短くもない髪の毛は陽に透けて茶色い。にっこりと微笑むその容姿は美しく妖艶だった。それにつられるように優希も「あ、初めまして」と一礼した。
「東京の大学からいらした学生さんですね」
「……はい」
 まさか祭司に歓迎されるなど聞いてもいなかった優希は緊張して、声が縺れそうになる。排他的と聞いていただけに、かなり予想外な展開だった。
「泊まる所はお決まりですか?」
「……いえ、これから探そうと思っていたんです」
「なら、わたくしの家へ。ご用意しておりますので」
 賽堂はそう言うとくるっと優希に背を向けて歩き始めた。一体、何事なのか。聞いていた話とは全く違う展開に、優希は付いていけそうに無い。
「ちょっと……」
 優希が事情説明を求めようと声を掛けると、賽堂は歩みだけを止めて振り向かずに優希に告げる。
「ご遠慮なさらず。あなたがここに来ることは、決められていたことですので」
「……はぁ」
 占いやミステリーなど一切信じない優希は、どうせそう言っているだけだろうと思い賽堂の後をついていくことにした。泊まる場所も探さずに済むし、祭司の家なら食にも困ることは無いだろう。
 そう安易に考えて、優希は賽堂の後をゆっくりと追っていった。
 村の一番奥、島で唯一の山の前に賽堂の家はあった。広大な土地に建つ純和風の日本家屋。それはまるで平安時代にタイムスリップしてしまったかのような錯覚に陥った。
 門から砂利道で道が作られ、それは玄関まで続いている。何も言わずに歩いていく賽堂の後を優希は追った。
 とんでもないところに来てしまったなと、心の中で呟き薄暗い屋敷の中に足を踏み入れた。
「奥の客間をお使いください。なにぶん、こう古い家ですので蚊が多く、網戸も無いものですから蚊帳になりますが……」
「いえ、泊めて下さるだけで十分ですので、お気遣い無く」
 優希は一礼すると給仕に案内されるまま客間へ向かった。広大な土地に建てられた広い屋敷の客間は、それに伴うぐらいの大きさだった。一人でこんな広い部屋に寝るのもかなり恐縮だなと思いながら、優希は持ってきた携帯をチラッと見る。
 もちろん、圏外だった。
 携帯は役に立たないなと電源を切り、カバンの奥底に突っ込む。そして、レポート用紙とデジタルカメラを持って客間を出た。
 着物を着た給仕が「何処へ行かれるのですか?」と優希に話しかける。
「植物生態系について調べに行きたいのですが……、祭司さんはどちらにいらっしゃるんですか?」
「透様でしたら、奥の祭殿に居ます。お呼びいたしましょうか?」
「いえ、自分で行きます」
 ただ広い屋敷で作りも中々簡素だったため、優希はすぐに賽堂の居る祭殿へ行くことができた。優希が襖をノックする前に、賽堂が振り向き「どうかしました?」と話しかけてきた。
「温暖化における植物生態系の変化を調べにこの島へやってきたんです。なので、調べに出かけようと思っているのですが……」
「あぁ、お出かけは自由になさってください。暗くなりますとあまり電灯も無いものですから、迷うと思いますのでどうか暗くならないうちにお帰りください。その頃には夕餉の支度も出来ていると思いますので、給仕に申し付けてください」
「分かりました、ありがとうござます」
 優希はまた一礼して背を向けると、賽堂から「あ、そうだ」と引き止められた。
「植物についてお調べになるなら、どうぞそこの山に登ってみてください。面白い発見が出来ますよ」
 にっこりと微笑む賽堂に優希も仄かに微笑み返し、聞いたとおり山へと登りに靴紐をギュッときつく縛って屋敷から出た。
 屋敷の裏手に回ると古ぼけた鳥居があり、そこから鬱蒼とした森を掻き分けるかのように階段が連なっていた。まだ日中だと言うのに山の中はかなり暗く、優希は懐中電灯を片手にその階段を登っていく。
 見たことも無い木々が生い茂り、空を緑色が多い尽くしていた。木の量に比例して虫の量も多かった。道中、肌を露出しているところは蚊に刺されまくり、虫除けスプレーをふった筈なのだが全く効果をなしていなかった。
「……かゆい」
 ボソッと一人で文句をいい、刺された箇所を爪で掻き毟る。日本の中でも南端に位置しているせいか、森の中でもかなり暑く歩いているだけで汗が頬を伝っていく。
 一段一段かみ締める様に階段を登っていくこと30分。山頂に到着した。山頂には大きい楠木が生えていて、その幹の周りには注連縄が巻かれている。
「神社?何の神様を祭ってるんだ?」
 今、課題のレポートとは全くジャンルの違うことだが気になってしまい、優希は楠木の隣にある小さい社に近付いた。今にも崩れ落ちそうな小さい社には何も無く、優希は楠木を見上げた。
「でけぇ……」
 見たことも無いぐらい大きい楠木は、山頂全体を覆い隠し太陽を拒絶している。その隙間から零れ落ちるような淡い太陽光は、とても神秘的だった。
 優希が空を見上げているとき、グラッと地面が揺れた。体勢を崩した優希は近くにあった大きい岩に手を付く。ピシッと亀裂が入り、優希は慌てて手を離した。
「脆い岩だな。大きいのに……」
 急にその岩に触れることが怖くなってしまった優希は、岩を避けるように階段を駆け降り本来のレポートのための資料をデジタルカメラに写していた。
 夕暮れになり優希は階段を下り、山から降りた。そのとき丁度、野菜の収穫を終えた村民と出会った。
「あーあー、その山に近付いてはいけない。その山には神が住んでいるんだ」
「……え?」
「悪い神が居るんだ。近付いてはいけない。あぁ、そうだ。見せてやろう」
 村民は優希の腕を引っ張って、近くにある自分の家の倉へと連れて行った。何を見せてもらえるのだろうかと、優希は半分興味本位でその倉の中を覗いた。
 中には鍬や籠、農業で必要とするものばかり入っていて、この村に関することは一切なさそうだったが、入り口の上に飾られた一枚の絵に目が行った。
 紫色の曇天の空に浮かぶ、青色の鬼。その真下では人が恐怖に怯え、泣き苦しんでいる絵が描かれている。とても奇妙な絵だった。もっとよくじっくり見てみると、遠くに光をバックに鬼に挑んでいる黒色の着物を着た男性が立っている。
「あの……、この絵は……?」
 優希は中でごそごそと探している村民に絵を指差して尋ねた。
「あぁ、その絵は、1期に1度この村に起こる禍(ワザワイ)を示した絵だ。青い鬼は禍を示しておる。禍は人に乗り移り、村人を恐怖に陥れる。人から鬼に代わってしまったから、青い鬼になっているんだ」
「1期に1度……。どういう周期なんですか?」
「数え方が難しくてのう。近年に来ると噂されておるが……」
 優希はふぅんと頷き絵をじっと見つめた。
「で、この黒い着物を着た人は?」
 祭司は白い着物を着ていた。だから、この人が祭司でないのは確かだった。むしろ、祭司とは逆のような雰囲気が感じられた。
「あぁ、それは憑き祓いじゃ」
「……つきばらい……?」
 村民の言葉を反復するように優希は尋ねた。初めて聞く言葉に首を傾げる。
「憑き物落し、憑き物を祓ったりするのを生業としている奴らじゃ。黒い着物を年中纏った陰気臭い連中じゃ」
 村民は鬱陶しそうに吐き捨てまた探す作業に移る。
「でも、祓ってくれるんですよね?」
 村民は何を当たり前のことを聞いているんだと言った顔で優希を見た。優希からすると、何故そこまで憑き祓いの話をするのに嫌そうな顔をするのか気になっていた。
「禍は憑き祓いでないと祓えん。あいつ等はそれを祓う為に存在しているんだ」
「そう……なんですか……」
 優希は村民の言っていることと態度が解せなかった。言葉だけ納得したのを聞いて、村民はまた倉の中を捜索していた。
「あぁ、あったあった。これだ」
 村民は蔵の中からもう一枚、紙を取り出した。そこには人を誘惑している女の絵が書かれている。
「え?」
「あの山には、この悪い神が封印されているんだ」
「悪い神!?」
 優希はそのとき、岩に手を付いて亀裂を入れてしまったことを思い出した。もしかして、あの岩に悪い神が封印されているのではないかと思考が巡る。
 それでもあまり信じていない優希は「まぁいいや」と勝手に結論付け、村民の話を適当に聞いていた。村民が持っていた絵も特に気にしてみていなかった。
 空が薄暗くなったのを見て、優希は祭司の屋敷へと戻った。
「良い写真は撮れましたか?」
 屋敷に入るなりに賽堂が待ち構えていたように出現した。優希はきつく結んだスニーカーの紐を緩め「はい」と賽堂に返事をする。
「夕餉が出来ておりますので、準備が整いましたらおっしゃってください。部屋までお運びしますので」
「すみません、わざわざ」
「……いえ、気になさらず」
 賽堂は微笑むとさっさっと着物の裾を引きずって廊下を歩いていった。その後姿を見送りながら、何故賽堂はあの山へ入れと言ったのか気になっていた。
 確かに優希は東京から来た学生で、幽霊や呪いと言った類は全く信じていない。しかし、賽堂はこの島の祭司だ。人一倍、ああいった呪いや幽霊など信じていそうなのだが。ただそういう職に就いているだけで、本当は信じていないのか?など優希は考えていた。
 それも夕食を食べて、風呂に入る頃になるとすっかり忘れてしまっていた。
 9時を過ぎたぐらいになると旅の疲れからか、眠気が襲ってきた。浴衣を借りて蚊帳を取り付けてもらい、優希は早々と寝ることにした。
 その日、優希は淫靡な悪夢を見た。
「んっ、あぁっ、やだ……、やめっ……」
 何十人もの男に囲まれ手足を掴まれ、蹂躙されていく。触れる指先から快感が生まれ、首を振って拒んでいる。
 じっとりと汗をかき、暴れているせいで浴衣は乱れていく。白い胸板が露になり、布団を蹴り上げ裾から足が投げ出される。
 何もされていないはずなのに、優希の白い胸板には赤い鬱血痕が散りばめられたように付いて行く。
「はぁっ、やだぁ……、やめて……、いや……」
 明らかに様子がおかしかった。寝て魘されているにしては、声は大きいし動きも大きかった。それに声がやたらと艶やかで、本当に犯されているような雰囲気だ。
 その姿を見つけた給仕が祭司を起こし、優希の異変を伝える。
「あふっ、はっ、やぁっ、だめっ……」
 悶えている優希の姿をジッと見つめ、賽堂はどうしようかと振り向くと廊下から黒い人影が現れた。
「憑き祓い」
 何故、ここに居るのだと言いたげな表情で賽堂は憑き祓いを見る。端整な顔つきをした憑き払いはその綺麗な口元をゆがめて、笑う。
「貴様の給仕より連絡を受けて参上した。憑かれているのはそいつか?」
 憑き祓いは優希の寝ている蚊帳を指差して賽堂に尋ねる。賽堂は何も言わずに1回縦に頷くと、憑き祓いは優希の部屋の前に立ってその様子を見下していた。
 美しい青年が淫らに悶えて居る姿は、かなり甘美的で欲をそそるものだった。
 月明かりに照らされ、白い肌が映える。汗に濡れた額に張り付く前髪、赤く痕の付いた首筋や肌蹴た胸板。投げ出された白い足は付け根まで捲れ上がっていて、浴衣などほとんど着ていないに近かった。
「憑き物を祓うときは誰も見てはいけない仕来り。何人たりとも見てはなりませぬ。分かりましたな?」
 優希の部屋に集まった賽堂と給仕にそう告げると、憑き祓いはピシャンと襖を閉めて蚊帳の中へ入った。すると同時にぴたりと優希の悶えも消えて、うっすらと目を開けた。
 程よく茶色い瞳が憑き祓いを捉える。そして、細い腕を伸ばした。
「……助けて……、苦しい……」
 優希は見下している憑き祓いに助けを求めるように縋り付く。憑き祓いはしゃがんで優希の体を抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。
「私のこの苦しみを……、解放して……」
 求めるかのように絡んできた優希に口付けをし、憑き祓いは優希の中に居る悪い神を静めるように呪を吐いた。
「なっ!!」
 優希に乗り移った悪い神は目を見開いて憑き祓いを見る。そして、意識を失うように目を瞑りバタンと横に倒れた。
「おい、起きろ」
 ペシペシと優希の頬を叩いて、憑き祓いは優希を起こす。山頂で足元を崩したときに岩の封印を解いてしまい、優希は中に潜んでいた悪い神に取り憑かれている。先祖がかなり苦労した悪い神をすぐに封印は出来ない。とりあえず、静まらせてからどうしようかと考えていた。
「全く、厄介なことをしやがって。早く起きろ」
 もう一度強く頭を叩くと、優希は目を開いた。疲れきった表情でゆっくりと辺りを見渡して、焦点の合わない目で憑き祓いを見る。
「貴様の名前は?」
「……さ、ぎ……、み、や……、ゆう……、き……」
 息を吐くように答えた優希は、名前を言い切るとバタンと倒れて眠りに就いた。
「鷺宮優希ねぇ」
 憑き祓いは乱れた優希の浴衣を直し、薄い布団を上にかけると客間から出た。空には煌々と星が煌き、月の輝きを邪魔していた。

 翌日も優希は同じように島の探索へと出かけていた。昨日まではジッと見つめるだけだった村民の目の色が少し変わっていた。
 憎悪と言うよりも、汚いものを見るような排他的な目。気のせいかと優希はあまり気にせず、いつも通り普通にふるまっていた。昨日から奇異の目で見られていたので、そう気にならなかった。
 その目に悪意が込められていると気付いたのは、数時間後昼飯を食べようと村に戻ってきた時のことだった。
 最初に来た時と同じように村にたどり着いたとき、数人の男に囲まれた。何が起こったのか分からず、ジッとしていると「こっちへ来い」と言われおとなしく付いて行った。
 薄暗い蔵の中に入れられ、村人の男衆が優希を囲む。多少武術は習っているが、多勢に無勢。ここで襲われても優希に勝ち目はなかった。
「どうしたんですか?」
 鍬や鎌を掲げて優希に襲いかかろうとしている村民を刺激しないように、優希は静かに尋ねた。生命の危機に晒されると思っていなかった優希は、少しずつ後ずさって距離を置く。
「お前を殺せば、村に平和が訪れる」
「悪い神を連れて来よって……」
 呪詛のようにぶつぶつと唱えながら、村民達は優希を殺そうと近づいてくる。こんなところで殺されてしまえば、証拠隠滅もしやすいだろう。優希は「意味が分からないっ!!」と叫んで逃げ出そうとするが、押さえこまれて身動きが取れなくなった。
「やはり、祭司様のご神託通りだ。お前は禍を連れてこの島へやってきた」
 昨日、優希に1期に1度訪れる禍の話をしてくれた村民が鍬を振りかざして、優希に襲いかかる。それを寸前のところで交わして優希は体勢を整えた。
「やめてください。俺がこの島に居ないほうが良いなら出て行くので!」
「そう言う意味ではないわ!お前の存在自体が禍なのだ」
「やっ、あの……、意味が分からなー……」
 襲いかかろうとする村民に必死に弁解しようとすると、ガラっと蔵の扉が開いた。逆光で誰が入ってきたのか、優希には分からない。真っ黒い着物が目に入り、村民たちは少したじろぐ。
「憑き祓い」
 服装だけで誰が着たのか分かったようだ。
「……つきばらい……?」
 優希は村民の言葉を繰り返し、昨日あの絵に描かれていた真っ黒い着物を着た聖人を思い出した。絵だけの話かと思えば、本当にこの島に存在していたようだ。
「あれが……?」
 憑き祓いは優希の姿を発見すると舌うちして、蔵の中に入ってくる。村民は振りかざしている武器を降ろして憑き祓いから距離を取った。まるで近づきたくない存在のように。
「この青年は禍ではない。何処の誰が喋ったのか知らないが、コイツに憑いているのは全く違うものだ」
「憑いているのか!?」
「一体、何が憑いているんだ!?」
 村民は憑き祓いを囲んで問い詰める。憑き祓いは面倒くさそうに息を吐いて「ただの淫魔だ」と答えた。その答えを聞いて安心したのか、それとも近づきたくなくなったのかぞろぞろと村民たちは外へ出て行った。蔵の中に優希と憑き祓いの二人きりとなった。
 憑き祓いはパタンと扉を閉めて、優希を見つめる。真夏の蔵は蒸し暑くて、ジメジメとしていた。うるさいぐらい蝉が鳴いていたはずだが、今はその音が聞こえない。この空間だけが特別に切り取られているような錯覚に陥った。
「……あなたは……?」
 見たこともなかった憑き祓いを目の前にして、優希は恐る恐る声をかけた。男性にしてはかなり伸びている黒い髪の毛を後ろに一括りにした憑き祓いの顔は、そこらの村民よりかなり整っていて見つめられただけで囚われそうになる。
 鬱陶しいぐらい真っ黒の着ものに覆われ、手に持っている扇子も真っ黒。まるでカラスのようだった。
 優希を見つめる黒い目は、優しく見つめる賽堂とは逆で冷たく感じた。賽堂が陽なら、この憑き祓いは陰だ。
「昨日のことは全く覚えていないのか」
「え?」
「鷺宮優希。昨日自分で自己紹介したのを忘れたのか」
 憑き祓いの言葉に優希は困惑した。昨日は9時過ぎに眠たくなって寝ているだけだと思っていた。そう言えば、朝起きた時賽堂は普通に接してくれたが、昨日まで親切にしてくれていた給仕の反応は少し違っていた。
 優希の目を見ずに、どこか敬遠しているような態度に今の今まで疑問に思わなかった。
「俺、昨日何かしたんですか?ただ寝ているだけだと思っていたんですが」
 憑き祓いは何も答えずに優希に近づき、Tシャツの襟元を掴んで扇子でキスマークの付いている部分を押した。
「ここを鏡で見てみろ」
 そう言われて優希は蔵にあった手鏡を手に取り、自分の鎖骨部分を鏡に映す。そこには無数のキスマークが付いている。その量にも驚いたが、まずキスマークが付いていることに優希は驚いた。
「なんだ、これ」
「夢だ。今、お前に憑いている神が見せた夢で付けられたんだよ」
「……夢?」
 昨日、夢を見た記憶は無い。本当にそのまま寝て、そのまま起きたのだ。優希は憑き祓いの言葉が信じられず疑いの目で見た。疑惑の目で見る優希の視線に気づき、憑き祓いは仄かに笑った。
「俺に助けてくれって頼んだのも全く覚えていないんだな」
 鎖骨から扇子を移動させて、優希の顎を扇子で持ち上げる。あまりの扱いに優希も嫌気がさし、その扇子を手で払い出て行こうとすると憑き祓いに腕を掴まれた。
「祭司の所へ行くのはやめろ。本当の禍はアイツだ」
「……え?」
「お前は祭司に嵌められたんだ。バカな奴め。お前は注意力散漫すぎる」
 バカにするような笑いに優希は腕を振り払った。仮にも今、初対面である憑き祓いにこんな風に扱われるのは心外だった。昨日、寝ながら憑き祓いに助けを求めたのも記憶にない。記憶にないことを信じれるほど、優希は憑き祓いのことを信じているわけではなかった。
「あなた、禍を祓う為にこの島にいるんですよね」
「そう言う仕事だからな」
「じゃぁ、なんで祭司さんに憑いているワザワイとやらを祓わないんですか?仕事でしょう?」
 真剣な目をして言う優希を見て、憑き祓いはゲラゲラと笑った。髪の毛を振り乱して、本当に腹を抱えて抱腹絶倒している。笑いが収まらないようで、ゆっくり息を吸ってから涙目で優希を見た。
「貴様、結構真面目な奴だな。俺が祭司に憑いている禍を祓わないのは、この島民がバカだからだ。バカな奴らは1度痛い目に遭わないと分からないからな」
「……でも、苦しい目に遭うんですよね?おかしいじゃないですか」
「お前も相当のバカだな。なんでこんな辺鄙な島へやってきた。しかも一人で」
 優希は相当のバカと言われムッとする。眉間に皺をよせながら「大学の研究で」とぶっきらぼうに答えた。その姿を見て、また憑き祓いが噴き出す。今回は抱腹絶倒までは行かなかったが、軽く笑って優希の腕を掴んで地面に押し倒した。
「あぁ、毎年東京から来ているな。今年は1期に1度の禍の年。こんなところへ来たこと自体が、お前にとってのワザワイだったな」
「だから、それはっ!!」
 大学の研究で来なくてはいけなかったのだから、仕方ないでしょうと言い返そうとしたとき、憑き祓いの唇が優希の唇を塞いだ。蹂躙するように入ってきた舌に優希は抵抗できず、受け入れてしまった。
「やぁっ……」
 ごりっと背骨が地面に擦れて痛かった。そんなことも気にせずに、憑き祓いの手は優希の服の中に入ってきた。
 透き通るような白い肌を憑き祓いの手が走る。唇を塞がれ優希は上手く息が吸えずに、もがく様に憑き祓いから離れる。
「はっ、あ……」
 それと同時に逃さないような手が、優希の胸板にある突起を捉え指で強く抓んだ。女にするような扱いを男の憑き祓いにされ、優希は嫌悪感が込み上がってきた。
 しかし、イヤだと声が出せず、その代わりに喘ぎ声となって声が上がる。今まで自分が女にしていることが、逆の立場になってしまったことに頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
「やっ、んぁ、やめっ……」
 優希の抵抗が静まると憑き祓いはTシャツをたくしあげて、赤い舌で白い肌を這う。骨の隙間を縫うように舌を這わすと、ビクッと優希の体が震えた。
「やだ、あっ、んぁ……」
 こんなに感じてしまう自分を客観的に見て、本当に自分なのかと優希は疑問に思った。女に上に乗られこうされたことは何度かあったが、ここまで感じたことは無かった。気づけばペニスは勃起していて、ズボンを圧迫している。
 今の女が下手くそだったのか。それとも憑き祓いが上手すぎるのか。そんな関係ないことばかり考えていた。
 憑き祓いの右手が優希の内腿に触れる。ジーパン越しだったが、それだけでも強烈な快感に身を捩じらせた。
「やっ、あ、やめっ!!」
「やだやだ言ってる割には感じてるだろ。……ほらな」
 意地悪をするような笑みで優希のペニスの上に手を置いた。そして先端を包み込むように優しく握られ、優希は声を上げた。
「な、おかしっ、こんなのっ……」
 服越しに擦られただけでびくびく反応してしまう自分の体が、自分の物とは思えなかった。目には涙が浮かんでいて、潤んだ目で憑き祓いを見ている。その姿は昨日の淫夢にうなされる優希の姿と似ていて、憑き祓いの口元が歪んだ。
「続きは本体が出てきたときにやってやる。異常に感じてるのは、お前の中に淫乱な女の神が付いているからだ。……あぁ、それでも少し異常だな。もしかしたら、お前……」
 憑き祓いはそこまで言って口をつぐんだ。代わりににやりと欲情を顔に出して笑い、すたすたと蔵から出て行った。扉が開くと甲高い蝉の鳴き声が耳を突く。時間が動き出したように、優希の頬を汗が伝った。
 結局その後、祭司の家にも行けずにどうしていいのか分からず優希はただ呆然と道端に座って空を仰いでいた。
 照りつける日差しが強く、体感温度的には40度をゆうに越している。元々、そう体の強いタイプではないため、このままだと熱中症になってしまう恐れもあった。
 それでも優希はその場から動かず、憑き祓いに言われたことをずっと考えていた。
 憑き払いは何が目的なのか。まず、そこが気になっていた。優希に執着している、そういうわけではなさそうな感じだった。変な神が憑いているからこそ、放っておけないそんな気がしていた。
 じゃりっと土を踏む音がして、優希は顔を下げる。目の前には朗らかに微笑む賽堂が立っていた。
「どうされたんですか? 昼餉の時刻は過ぎておりますが」
 昼飯を食べようと思ってこの村に戻ってきたことを、優希は今頃思い出した。この村に戻ってきてから1時間強、いろんなことがありすぎて昼飯どころではなかった。
「……そうですね」
「元気がありませんね。何かありましたか?」
 賽堂だけは昨日と同じように優希に接していた。そこで思い出したのが、憑き祓いによる言葉。「本当の禍は祭司」その言葉が優希を突き動かす。
「あなたは本当の祭司さんですか?」
 優希の目には確信が篭っていた。その目を見て、ふっと微笑み賽堂は全く動じていなかった。
「何を言っているんです?」
「禍はあなただと聞きました」
 ジッと見つめる優希の目を見て、賽堂は笑みを深くする。ここでもまたバカにされているような気がして、優希は賽堂に鋭い視線を送った。
「誰からですか?」
「それは……」
 このとき、憑き祓いの話をしていいのか迷い優希は言葉が出せなくなる。俯いた優希を見て、賽堂は「憑き祓いですね」と核心に迫った。
 そう聞かれても、優希は「憑き祓いから聞いた」とは言えずに、黙ったまま賽堂を見つめる。
「全てをお教えしましょう。どうぞ、ついてきてください」
 踵を返した賽堂についていくように、優希もその後を追った。ここまで知ってしまったからには、真実を知るまで引くことが出来なかった。
 家に戻り地下への階段を降りる。このとき、優希は「注意力散漫」と憑き祓いに言われた言葉を思い出す。くるっといきなり振り向いた賽堂の手には神楽鈴。それが振りかざされ優希の脳天に直撃した。
 薄れ行く意識の中で見たものは、にやりと笑う賽堂の表情だった。
 
 激しい頭痛で目を覚ました。硬い床に寝かされていて、目前には木の格子がある。体を足を動かすとジャラっと嫌な金属音が聞こえ、優希は体を起こした。
 真っ赤な着物を着させられ足首には枷が付けられている。その枷は木の格子に括りつけられていて、逃げられそうにも無かった。
「なっ……。これ、着物じゃなくて、赤い襦袢じゃないか……」
 かぁっと顔が熱くなるのが分かった。真っ赤な襦袢に襟だけ白く、それは遊女のような格好だった。
「ようやくお目覚めになりましたね、やいしらいの神」
「……は?」
 賽堂の言っている意味がさっぱり分からず、優希はポカンと口を開けて賽堂を見ていた。
「あなたの体を借りて、いや、乗っ取っているのはやいしらいの神と言う、100年以上前にこの村を支配していた女性の神です。男を誘惑して自分の思い通りに動かし、飢饉、災厄などを生み、憑き祓いに封印されたのです」
「やいしらい……の、神……」
 語源は分からないが、そんな悪いことをするのに神と名乗れることが不思議だった。大体、古代からそういう悪いものは「鬼」とされてきている。
 なのに、この村は神と言った。
「私は待ち続けていました。何年も何十年も何百年も」
 この時ふっと賽堂の背後から黒い靄が見えた。禍々しい靄は賽堂に乗り移って居るようにも見えた。檻の中に入ってきて優希に近付こうとする。
 自然と恐怖を感じ、優希は後ずさった。ドンと壁に背中がつく前に、足枷の鎖の長さが足りなくて身動きが取れなくなった。
「このっ、はずれっ、ろっ……」
 足枷を脱ごうとしても足首に傷口を作るだけだった。コンクリートの床と鎖がジャラジャラと音を奏でた。
「お目覚めください。やいしらいの神」
 すっと賽堂の手が優希の内腿を撫でる。ぞっと鳥肌が立った。身震いして逃れようとも、触れる指先から熱さを感じ頭がくらくらしてきた。
「宵闇が迫る時刻です。やいしらいの神、お目覚めください」
 腹の上に指を置かれ、すっと文字がなぞられる。言葉とその指の動きに、優希は意識を失った。一瞬優希が倒れて、数秒後むくっと起き上がる。
 パッと目を開いた優希の瞳の色は、赤色に染まっていた。
「よおやってくれた。この若い体は動きやすい。女子で無いのが悔やまれるが、この顔なら何とかできようぞ」
 目の前にいる賽堂を褒めるように、優希に乗り移ったやいしらいの神は髪の毛を撫でる。その一撫でで、賽堂の表情が一変する。目が見開き優希を凝視している。
 支配されたのだ。やいしらいの神に。
「……やっぱり、そいつが狙いだったのか。この淫魔め」
 カツンカツンと階段を降りてくる音がして、二人の視線が階段に向かう。真っ黒い着物に真っ黒い髪の毛、手には黒い札が持たれている。
「おぬしは……」
「かつて、153年前にお前を封印した憑き祓いの末裔だ」
 憑き祓いは鼻で笑ってやいしらいの神を見る。真っ赤な着物に真っ赤な目玉が映える。その真横には憑き祓いを睨み付ける賽堂の姿があった。
「奴を取り込んで、この村を支配することが目的だったんだろう? 祭司に雑魚がついているのは知っていたがな」
 祭司にやいしらいの神の使いが取り付いたのは大分前の話だった。特に何もしないし、村人に危害を加えるわけではないので憑き祓いは無視をしていた。
 やいしらいの神が憑いたのは、この島の住民ではなかった。大学の研究に来ていた優希だった。この神を島から出すことは許されない。
 だからこそ、憑き祓いは動いたのだ。賽堂の給仕より依頼があったことも含めて。
「雑魚を祭司に憑かせて、封印の石の事を知らないこのバカに封印を解かせるよう指示したんだな」
「そうじゃ」
 やいしらいの神はにやっと笑う。妖艶な笑みは人々を虜にするが、憑き祓いは違った。あの優希の強気ながらも負けそうになるあの表情が一番くるのだ。
「……透は死んでしまったな」
 憑き祓いは賽堂に札を貼り付ける。低級霊はこんな札一枚ですぐに浄化されてしまう。問題はこのやいしらいの神だった。
 バタンと賽堂の体が倒れた。低級霊が居なくなった賽堂の体は空っぽで、息をしていなかった。
「どうするのじゃ? このものが居なければ来年から神託は受けれぬぞ」
「祭司、憑き祓い共に血筋で繋がっているわけではない。魂だ」
 祭司が死んだとき、この村の誰かにその祭司の魂が入り込む。その人は鬼の声を聞くのだ。憑き祓いも同じで、憑き祓いが死んだあと誰かの体の中に魂が入り込む。そして、祭司と同じように鬼の声を聞く。
 賽鬼島の名の由来。
 鬼が書かれた六面体の賽子を転がして鬼がその村の将来を卜い、鬼が賽子でこの村を守る。鬼が賽を振り、鬼が賽で守る島。賽鬼島なのだ。
「私の中には鬼が棲んでいるんだ」
 元々、この島の鬼は神と同格のものだった。だからこそ、悪い神のことを鬼と言わないのだ。
「お前はまた、この鬼に賽子で封印されるんだ。この木箱の中にな」
「そ、その箱はっ……」
「顔が真っ青だぜ? やいしらいの神」
 コロン、コロン、コロン。憑き祓いが手のひらから4つの賽子を転がす。それは地面を這う前に、優希の体の周りに転がり四方に囲む。
 一つ一つが光り輝き、グルグルと優希の体を回り始める。それを見たやいしらいの神はギョッとし、慌てふためいた。見たことのある光景に、恐怖を覚えている。
「や、やめろっ……。まだ、何もしてないじゃないかっ……」
 確かに言うように、賽堂に雑魚を取り憑かせて殺しただけで、やいしらいの神自身は何もしていなかった。
 憑き祓いは何か祝詞を唱えているようで、やいしらいの神の質問には答えない。ブツブツと聞き取れない呪文を繰り返すたびに、賽子が高速で回っていく。
 光が柱のようになり優希の体を包みこむと、頭のてっぺんから赤い靄が吐き出される。あれがやいしらいの神の原型。
 靄を吐き出すと賽子たちは上へと上がって行き、赤い靄を取り囲む。徐々に円が小さくなって行き、4つの賽子が重なり合うと光は無くなり、床に賽子が4つ転がった。
 それと同時に意識を失った優希が倒れ込む。この賽子は魔を振り払うために作っているが、今回は強大な神を封印するため大分と時間がかかった。昔の資料を探すのにも手間取ってしまっただけに余計だった。153年前と同じ方法で、やいしらいの神はまた封印された。
 もし、雑魚であれば、最初に封印出来た。
 転がった賽子を拾い上げ、憑き祓いは呟く。
「お前の霊が殺した祭司は、俺の兄だ。何もしていないわけじゃない」
 最後にやいしらいの神が憑き祓いに質問した返事だ。
 憑き祓いが気づいたときにはもう、手遅れだった。祓えば死んでしまう。そうなるのがイヤで憑き祓いはわざと祓わなかったのだ。
「兄さん、お休み」
 見開いた賽堂の目をふっと閉じると、安らかに眠っているように思えた。やいしらいの神を封印した賽子を複雑な構造をしている木の箱の中に入れ、封を閉じる。
 これならもう封印が解ける事は無い。木も何年間も清らかな水の流れる清流に置いておいたものだ。
 憑き祓いは自分の兄である賽堂をジッと見つめた。優しくて人辺りの良い兄が先に神託を受けた。一代前の祭司が90歳の大往生で死んだとき、鬼の声が聞こえたと言った。
<汝こそが光なり>
 そこから読めないはずの賽子の面が読まれ、覚えた記憶の無い祝詞を唱えたりして正式に祭司と認められた。
 その数年後、村を守っていた憑き祓いが死んだときに、彼の身に神託を受けた。
<汝こそが闇なり>
 兄弟で神託を受けると言うのは珍しいことだった。憑き祓いになった途端周りの目の色が変わったが、賽堂だけは態度が変わらなかった。
 唯一の家族である兄を助けれなかった悔しさが、ほんの少しだけ込み上がってきた。かかる前髪を指でどけて、安らかな死に顔を目に焼き付ける。
「んっ……」
 じゃらっと背後から人の動く音がして憑き祓いは振り返った。
「……目を覚ましたか」
 起きあがる優希の姿を見て、憑き祓いはふと表情を変えた。憑き祓いとなって、周りの視線が変わった時に嫌われると言うのは分かっていたので自分に仮面を付けることにした。
 無表情で何を言われても動じない仮面。
「……俺、なんつぅ格好を……」
 優希は自分の姿を見て、ギュッと着物の襟を掴んだ。乱れた姿を憑き祓いに見られたくなかった。その様子が余計に憑き祓いを刺激することとは知らずに。
「枷を外してやる。こっちへ来い」
 ふと足元を見ると足首が枷によって傷だらけになっていた。動かすだけで足が痛む。眉間に皺を寄せた優希を見て、憑き祓いは賽堂の袴の中から鍵を取り出した。
 足を傷つけないよう枷をあまり動かさずに憑き祓いは鍵を外した。やっと足の軽くなった優希は立ち上がって歩き出そうとするが、枷によって付けられた傷口が傷み上手く歩けない。
「どうしたんだ」
 座り込む優希を見下すように憑き祓いは優希の背後に立つ。傷口が痛いなど言えばバカにされると思った優希は何も言わずに首を振った。
「……足か」
 赤く腫れている足を見て憑き祓いは優希の体を抱き上げた。
「やっ、歩けますから」
 拒否をする優希を無視して、憑き祓いは地下室から出て行く。外はもう暗くなっていて、ホウホウと鳥の鳴く声が聞こえる。幾度と無く拒否の言葉を言った優希だったが、憑き祓いがどうも離してくれそうに無いので拒否することを諦め大人しく抱きかかえられていた。
 今日は今年一番の熱帯夜だった。ジッとしているだけでも汗がたらっと流れてくる。それでもまだ東京よりも湿気が少ないので、さほど暑くは無かった。
 賽堂の屋敷から出て憑き祓いは無言で歩いていく。優希は何処へ連れて行かれるのか分からず、大人しくしていた。足はじりじりと焼けるような痛みが走り、動かせそうになかった。
 数分間歩き続けると、賽堂の屋敷と似たぐらいの大きさの屋敷へたどり着く。賽堂の家の真裏にある山を越えた先に、憑き祓いの屋敷があった。
 村からは少し外れていて、月明かりが照る池にはパシャンと魚が跳ねる。
 屋敷の中に人は誰一人としていない、孤独な屋敷であった。
 スタスタと歩き、憑き祓いは優希を布団の上に置いた。燭台に火を灯し、患部に触れないよう足を持ち上げてじっと見つめた。
 白い足はいくつか虫に刺されていて赤く膨れたものが点々としている。男の割りには無駄毛が薄く程よく付いた筋肉が、足を美しく見せていた。
 やいしらいの神が好んで着ていたとされる赤い襦袢が、とてもよく似合っている。実在する遊女のようだ。
 燭台を布団の隣に置いて、優希の傷口を舐める。
「んっ……、いっ……」
 変な儀式のようだった。じりじりと焦がされるような焦燥感。試されている気分だった。
「やっ、やめ……」
 やめろと言いながらも憑き祓いを止めることが出来なかった。舐められる舌先に感じてしまい、優希は後ずさった。足を強く掴まれ優希は身動きが取れない。
「やだ……」
 拒否をしようと手を伸ばした優希の手を引き、憑き祓いは優希の唇を塞いだ。止める事のできない欲望に憑き祓いは流されるように優希を蹂躙する。
 下唇に舌を這わせ、口の中にゆっくりと入っていく。静かに優希を押し倒し肌蹴た着物の衿から手を入れ、薄い胸板を撫で回すとビクッと肩が震えた。
「んっ、ちょ、やめっ……」
 優希は首を横に振り憑き祓いの唇から逃れる。こんな行き当たりばったりで初対面に近い人間に犯されるなど、望んだことではなかった。
「やめろっ……」
「やめろと言う割には、語尾が弱いな」
 言葉では拒否をしているが、本当はどうなのだ? と言うような試す目を優希は睨み返した。強気な目がまた憑き祓いをそそる。
「……そう言えば、賽堂さんはどうなったんですか?」
 目に色が見えたので、優希は話を逸らした。少しでもいいから時間を置き、憑き祓いへの対応を考えていた。
「あぁ、祭司か。アイツは死んだ」
「……え」
「もう手遅れだったんだ。取り憑かれた霊に憑かれ殺されていたんだ」
 淡々と語る憑き祓いに優希は胸倉を掴んだ。
「あんたがしっかりしてたら、死ぬことはなかったんじゃないのか!?」
「……うるさい。お前に何が分かると言うんだ」
 怒鳴りつけた優希に対し、憑き祓いは冷静に答えた。優希の言うことは間違っていないが、この島に来て数日の新参者に言われる筋合いは無い。
「あんたが殺したようなもんじゃないか」
「……そうだな。俺が殺したようなものだ」
 もう少しだけ早く異変に気付いていれば、賽堂が死ぬことはなかった。たまたま別件で立て込んでいて、村の様子を伺うことが出来なかった。憑き祓いが気づいたときにはもう、体のほとんどを乗っ取られていた。
 祓えば死ぬ。分かってしまっていただけに、祓うことができなかった。
 目を伏せた憑き祓いを見て、優希は言い過ぎたと口を閉ざす。表情や態度には見せないが、憑き祓いは憑き祓いなりに責任を感じていたようだ。
「魂が新しい器を求めて浮遊する夜。……今日は暑くなりそうだな」
「え……?」
「この島は特殊な島だ。鬼の棲家。……本当にお前はタイミングの悪い時に来てしまったな」
 憑き祓いは宥めるように優希の髪の毛に触れる。ふっと燭台に乗った蝋燭の火が消える。
「今日はゆっくり寝ろ。そして、明日には帰れ。大学のレポートとやらは終わったんだろう?」
「え……、まぁ、終わりましたけど」
 確か滞在時間は1週間だったはず。まだ数日残っているが、憑き祓いとしては早くこの島から出て行ってほしいようだった。
「ここは普通の人間が来る場所じゃない。早く帰れ」
 憑き祓いはそれだけ言うと優希のいる部屋から出て行った。その夜は、憑き祓いの言うようにとても寝にくい暑い夜になった。

 翌朝、12時には定期船が来ているということで優希は帰り支度をしていた。いつの間にか、賽堂の家から憑き祓いの家へ優希の荷物が運ばれていて、中身の確認をするだけでよかった。
 朝から村はざわついていた。賽堂が死んだからだった。
 厳かに取り仕切られる死者を弔う式は、真っ黒い服を着た憑き祓いが先頭に立って行っていた。
 村人もみな、憑き祓いと同じように真っ黒い服を着ている。泣いている人は誰一人居なかった。じりじりと焼く様に強い日差しが照りつけ、優希は遠くからその姿をジッと見つめていた。
 葬列は山の裏へ回り洞窟の中に入っていく。そこまで見送ってから、優希は憑き祓いの屋敷へと戻った。
 定期船の時間まであと3時間もあった。早く帰れと言われていても、船が来なければこの島から出て行くことも出来なかった。
 優希はボーっと天井を見上げ、畳の上に寝転がった。不思議な4日間だった。
 大学に提出するレポートの資料を見直して、どうレポートを書くか考えていた。頭の中に残っているのは、昨日少しだけ切なそうな顔をしていた憑き祓いの顔だ。今日はいつも通り、無表情で葬列の先頭に立ち淡々と作業をこなしていた。
 何を考えているのか分からない、奇天烈な人だった。あのまま、賽堂の話をしなければ優希は流されるまま、憑き祓いに犯されていたかもしれない。
 そう思うと体の芯がちょっとだけ熱くなった。
 枷で傷ついた足はいつの間にか治っていた。今日、足元を見ると腫れは引いて傷口も残っていない。変な気分になった。
「……これじゃぁ、ただの変態みたいじゃないか」
 仰向けになったままポツリと呟くと、ぬっと黒い陰が表れる。
「いつの間に、変態になったんだ?」
 からかうような声に優希はガバッと上半身を起こした。葬式を行っていた格好のままで、憑き祓いは優希の部屋へとやってきていたのだった。
「た、ただの独り言だ」
 優希は感情を悟られないよう憑き祓いから目を逸らした。グイッと顎をつかまれ、憑き祓いは無理やり優希を自分に向かせる。
「どうした? 続きをしてほしくなったのか?」
 耳元で囁かれた低いバスの声に優希は身を震わす。震えたのが分かると、耳を甘く噛まれ変な声が上がった。
「あっ……」
 憑き祓いの黒い髪の毛が顔にかかってくすぐったかった。グイッと近付いてきた肩を押しのけ、優希は憑き祓いを見る。
「……名前も知らない人とやるつもりはない」
「名前さえ知ってれば、誰とでもやるのか?」
 揚げ足を取るような言い方に、優希はもっと恥ずかしくなった。男とやったことなどないし、やられるつもりも更々無かったが、憑き祓いだったら良いのではと言う誘惑に駆られていた。
 それに気づいてか、憑き祓いはわざとそういう風に言い優希をからかう。
「もう二度と会うことは無いんだ。名前など知っても意味が無いだろう」
 憑き祓いはそう言って優希から離れ「もう時間だ」と時計を指差した。優希は立ち上がり荷物を掴むと、憑き祓いに簡単に礼を言ってから屋敷を出た。
 村人は優希をジロジロ見るだけで何も言わない。下手すると賽堂を殺したのは優希だと問い詰められる気がしていたが、そうではなかった。早く出て行けと言った視線に、優希の足も自然と速くなった。
 最初に歩いてきた獣道のような道を歩き、流れ出てくる汗を優希は腕で拭う。森が開き、海岸沿いに出たときにはもう定期船が優希を待ち構えていた。
 船に荷物を乗せ船尾に立ち、島を見つめる。4日間しかいなかったが、とても濃い4日間だった。
 ボンボンボンボンと船のエンジンがかかり、ゆっくりと進んでいく。そのとき、森から黒い着物を着た憑き祓いがやってきた。
「……え」
 憑き祓いは決して走らずに桟橋までやってきて、船尾にいる優希に何かを投げる。きらっと太陽に反射して優希の手のひらに落ちてきた。
 黒い賽子が手のひらに乗っかっている。
「お守りだ。持っておけ」
「お守り?」
「昨日まで淫魔に取り憑かれていたんだ。戻ってから変な異変が出ても困るだろう。数日は持ち歩いておけ」
 優希は手のひらに乗った賽子をグッと握り締める。出発してしまったため、どんどん桟橋から距離が離れていく。憑き祓いの姿も徐々に小さくなっていった。
「……ありがとうございます」
 変なこともされたが、助けてくれた憑き祓いにちゃんと礼を言っていなかった優希は、ぺこっと頭を下げる。嫌味を言ういやな奴だったが、悪い人ではなかった。
「俺の名前は、賽堂翔だ。飛翔の翔でカケル。別に覚えなくていい。もう二度とこの島へやってくるんじゃないぞ」
 このとき、やっと憑き祓いが優希の前で仮面を外した。ほんのり微笑む笑顔に優希は眉間に皺を寄せる。最後の最後にあの笑顔は卑怯だった。
「言われなくても、もう二度とこんな島誰が来るか」
「ふっ、強気な奴」
 憑き祓いはそういうと優希に背を向けた。もう二度と会うことの無い不思議な人物は、すっと自分の棲家へ戻るように森の中へ消えていった。
 優希は握り締めた黒い賽子を見る。太陽に反射して黒光りしている賽子をポケットの中に突っ込んで、陽の当たらない場所へと批難した。
 


 真夏の蒸し暑い熱帯夜に見てしまった夢のような出来事は、優希の心の奥深くに封印された。






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