Abstain


 鬱陶しく、面倒くさい、学校生活が始まろうとしていた。はっきり言って、夏休みも授業のある日も大して変わらないけれど、授業を受けている暇があるなら走っていたいと言うのが9割の本音で、残りの1割は溜まってしまった宿題をまだやりたくないってことだ。自分が悪いのだけれど、やっぱり、やりたくない。
 8月20日の昼、なぜか両親が俺に携帯電話を買ってくれた。最近、中学生でも持ってるしね。何かあったときのために。って言ってたから、少しは俺のことを気にしてくれているようで嬉しかった。そっから、弟達の玩具にされたけど、長男である俺はそんなこと全く気にしない。
 そして、8月26日の夕方、ばったり山本と出くわした。携帯買ったんだと言ったら、じゃぁ、メールアドレスと電話番号教えてって言われて、父さんと母さんの次に山本の番号とメールアドレスが俺の携帯に登録された。少し嬉しくて、笑いそうになる自分を精一杯堪えた。それからと言うもの、俺は弟たちに携帯を貸さなかった。凄く文句を言われたけど、絶対に貸さなかった。だって、いつ、山本からメールが来るか分からない。そう思ったら、誰かに貸してなんかいられなかった。でも、メールは来ない。電話も来ない。けど、俺からメールする勇気も電話する度胸も全く無かった。
 夏休み最後の8月31日。部活は休みで、俺は昼に目が覚めた。ゆっくり寝る時間なんて無かったから、久しぶりに熟睡できた気がする。今日、宿題をやんなきゃいけないと思うだけでうんざりする。かなりの量出ている宿題の一覧表を見つめて、ため息を吐いた。まだ大丈夫。まだ時間はある。そう言えば、松木は宿題が終わってるとか言ってたな。写させてもらおうと思い、俺は1階へ降りる。階段の横にある固定電話に手を伸ばして、俺は覚えきった松木の家の電話番号を押した。
 プルルルとコール音が鳴る。数秒後に松木のおばちゃんが出たから、松木はいるかと尋ねる。ちょっと待ってねと言われると、何の曲か分からないけど音楽が鳴って、すぐに松木が出てきた。
『……宿題か?』
「そうそう。写させて」
『嫌だ』
 俺が宿題を写させてくれって言うのを気づいていたようで、松木に即答された。それでも俺はめげずに「助けてくれ! 死んでしまう!!」と叫んでみた。その声にうちの家族が反応して、弟たちが俺の体にまとわりついてくる。
「おにーちゃんしんじゃうー」
「しんじゃうー」
 10歳も離れている双子の弟達は、俺の脚にしがみ付いてきゃっきゃと笑っている。少し鬱陶しいと思ったけど、かわいい弟達であることは変わりない。電話の先から『弟君たち?』と楽しそうな声が聞こえた。
「そう。ほら、俺のかわいい弟たちを見たいだろ? な、な?」
『……仕方ないなぁ。教えてあげるから、自力でやれよ』
「おう! 答えがわかんなかったら、答え、教えてくれよ!」
『自力で解け』
 冷たい声でそう言われ、電話が切られた。さすがは俺の親友だ。俺が困っていると知ったら、助けに来てくれるなんて、何て良いやつなんだ! 弟達の頭を撫でて、俺は部屋へと戻る。松木が来るなら、少しぐらい部屋の掃除をしておかなければいけないなと思った。
 テーブルの上は物でごった返していたから、俺は全て勉強机の上に置く。あと、部屋を汚しているのは本とか服とかだから、すべてベッドの上に置いた。それが終わる頃になると、ピンポンとインターフォンの音が聞こえてきた。
 階段を駆け下りて玄関に行くと、またもや弟達がリビングからやってくる。あけるあけるーと、二人が大騒ぎをしながら、玄関のドアを開けると松木が立っていた。
「おー! 早かったな」
「そんな言うほど、早くないよ。相変わらず、かわいーねぇ。安藤の弟とは思えない」
「そーだろ、って! 紛れも無く、俺の弟だよ!」
 かわいいと言うのは認めるが、俺の弟とは思えないって言葉は聞き逃せれなかった。松木は俺の反応にケラケラと笑って、スルーしやがる。もう一度、ぽんぽんと二人の頭を撫でてから、松木は俺の家に上がりこんだ。
「おじゃましまーす」
「おー、あがれあがれ。部屋行ってて。飲み物取ってくるから」
 松木にしがみ付こうとしている二人の手を握って、俺はリビングへと向かった。母ちゃんは「誰か来たの?」とダルそうに寝転がっていて、「松木だよ」と言うと「あー、松木君なの。お母さんがお茶持って行ってあげるわよ」と言って起き上がった。
「じゃー、颯太と楓太が上に上がってこないようにしといてよ。これから、宿題するから」
「はいはい」
 母ちゃんは面倒くさそうに返事をして、二人に手招きをする。弟達は俺の手から離れて、一斉に母ちゃんへ向かって走り出した。本当に小さい子供と言うのは元気なんだなぁと、後姿を見つめながらそう思った。
 部屋に戻ると松木がCDをじろじろ見つめていて、何をしているのだろうかと思った。よく見てみると、そのCDは山本から借りた奴でここ最近、ずっと聞いてる奴だった。あの時、山本が言ったとおり、俺はア・シャワーって曲が一番、好きだった。
「これ、どうしたの?」
「ん、もらった」
 山本の名前を出すのが少し怖くて、俺は素っ気無く答える。それに松木は違和感を覚えなかったようで、「ふーん」と言って流すとCDケースを元にあった場所へ戻した。そして、その隣にあった携帯電話に目を付けた。
「……あれ、安藤、携帯買ったんだ?」
「あぁ、そうそう。母ちゃんが買ってくれた」
「なんだよー。買ったなら言えよ。番号とメルアド、教えてよ」
 どうやら松木も携帯を持っていたようで、ポケットから携帯を取り出す。一応、学校には持ってきちゃいけないことになっているし、松木が携帯を持っていることすら知らなかったから、教えるって気にならなかった。
「やり方わかんないから、適当にやっといて」
「おー、分かった。じゃ、携帯、開けるからな」
 それに返事をすると、松木は俺の携帯を開いて操作を始めた。前から携帯を持っていたせいか、松木の動きは手馴れていて、恐ろしいスピードで何かを入力している。そう言えば、山本の番号を登録したときも、山本にやってもらったんだっけ。そんなことを考えている間に、登録が済んだ様で「まだ4件しか入ってないのかよ」と松木が笑った。
「だって、人におしえてねーし。学校も始まってないし」
「あぁ、そうだよな。両親と、俺と……、あとは家の番号とか?」
 松木は指を折りながら俺のアドレスに登録されている人数を数える。急に胸が高鳴って、めまいを覚えた。あまり接点の無い山本が登録されているなんて知れば、松木はどう思うだろうか。震える唇で、俺は「ちげーよ」と茶化すように答えた。
「え、じゃぁ、誰?」
「山本だよ」
 できるだけ自然に答えたつもりだった。俺の返答に松木が振り返る。唖然とした顔をして、「山本と仲良かったんだ?」と俺の携帯を持ちながら、聞いてきた。
「仲が良いって言うか……」
 なんて言えば良いのか分からず、俺はどもってしまった。俯いていると、松木は俺の前までやってきてその場に座る。
「意外だったな。安藤と山本が仲良いなんて」
「……そんな、仲が良いってわけじゃないって」
「でも、メルアド教えたんだろ?」
「それはたまたま道で会ったから……」
 尋問されているようで居づらくなった。山本との関係なんてどう説明すれば良いのか、俺には分からない。だって、仲が良いとかそういうレベルじゃない。普通の友達同士ではしないようなことをしてしまっているのだから、友達だなんて言えなかった。
「……山本、良い奴だよ」
 いきなり話が逸れて俺は顔を上げた。松木はいつもの表情で、俺を見つめている。どうして、そんなことを言ったのか、俺にはさっぱり分からない。
「ほら、安藤ってああいうタイプ苦手そうじゃん? だから、見た目で敬遠してんのかなーって思ってるんだけど」
 松木の言っていることは、間違ってはいなかった。あの雨の日のことがなければ、俺は山本と話したりなんてしなかっただろう。こんな風に悩んだりすることも無かっただろう。そして、こんなに苦しい気持ちになることもなかった。それが喜ばしいことなのか、それとも悲しいことなのかはまだ分からない。でも、少しだけ、山本と仲良くなることができて嬉しがっている俺もいる。
「確かに苦手なタイプだけど」
「まぁ、結構、悪いやつともつるんでたりするから、悪そうに見られるかもしれないけどさ。あいつ、めちゃくちゃ良い奴なんだぜ。みんなに気、使えるしさ」
「……知ってるよ」
 なんか松木が山本のことを話すのが耐えれなくて、ぶっきらぼうにそんなことを言ってしまって後悔した。この体の奥で渦巻くどろどろとした感情は何なんだろう。火種がくすぶっているような、歯をかみ締めたくなるような感情。
「なんだ、結構、山本のこと知ってんじゃん」
「良い奴だってことは知ってる。けど、どんな奴なのかは分からない。あいつが何を考えてるのか、いまいち、分からない」
 呟くように言うと、松木はプッと噴出して笑った。何が笑えるのか、分からなくて俺は不安げに顔を上げた。そんな俺の顔を見て、松木はもっと笑う。
「な、何、笑ってんだよ!」
「いや、安藤ってさ、人付き合い苦手そうなタイプだとは思ってたけど、こんなに苦手だとは思わなかった」
「なっ!?」
 人付き合いが苦手というのは否めないけれど、こんなに笑うことは無いんじゃないのか? 挙句の果てには、げらげら笑って腹を抱えている。なんか、悔しくなって、俺はまた俯いた。今日はやたらと、下ばっかり見ている気がする。
「あれだろ? 安藤はさ、苦手なタイプと仲良くしてることが信じらんないんだろ?」
「……へ?」
「あれ、違うの? 山本みたいなタイプと仲良くしてる自分が信じらんなくて、仲良くしてること認めたくないんじゃないの?」
 激しく見当違いな意見に、俺は受け答えができなかった。そして、なぜ、松木がこんな検討違うなことを言っているのか、ようやく気づく。俺が悩んでいるのは、山本とキスしたり抱きしめられたりすることだ。けど、松木は、そんなこと頭の中にも無いはずだ。だって、友達同士でそんなことは絶対にしないし、したら気持ち悪い。だから、普通にそんな考えは思いつかない。
 あんなことしてたら、普通、気持ち悪いよな。
 でも、気持ち悪いと思わない俺がいる。
 山本も、こんなことしてる自分が気持ち悪いって言ってた。
 気持ち悪いことをしてるから、松木に相談なんて絶対にできない……。
「おい、どうしたんだよ。俺、なんか悪いこと言った?」
「……いや、言ってない。考え込んでただけ」
「溜め込むなよ。最近、安藤、変だったじゃん? それって山本が関係してるの?」
 松木が俺の腕を掴んだ。物凄く心配そうな顔をして、俺の顔を覗き込んでいる。こんなに俺のことを心配してくれている親友に、話せないことが辛い。でも、話して見放されることも、俺にとっては辛いことだった。黙っていることがこんなに辛いなんて、知らなかった。
「なぁ、言ってくれよ」
 その誘惑に駆られて、言いそうになるのを飲み込む。黙って何も言わない俺に苛立ちがこみ上げてきたのか、俺の腕を握る力が強くなった。
「黙ってられるのが一番辛いんだよ。俺、安藤の親友でいるつもりなのに……!」
「俺だってお前のことは親友だと思ってる」
「じゃぁ、何で言ってくれないんだ!」
 問い詰めるような厳しい声が上から降ってきた。いっそ、言ってしまったほうが互いに楽なんだろうかと考えて、俺は唾を飲み込んだ。こんなこと、言ってどうするつもりだ、俺は。言って、どうにかなるようなもんでもないだろ。
「……言えない様な事、されてんのかよ」
「え……」
「俺に言えないようなことを、山本にされてんのか? それなら、俺は山本を許さない」
「ち、違う!」
 山本だけが悪いわけじゃないんだ。だから、山本を責めてほしくなくて、俺は必死になってしまった。言えない様な事をしている自覚はあるけど、言えない様なことをされているわけじゃない。山本はいつも、俺に拒否権を与えてくれていたんだ。でも、断らないのは俺だ。山本が悪いわけじゃない。
「聞いたら幻滅する。だから、言えない……」
「しねぇよ! ふざけんなよ、お前!」
「じゃぁ、お前。男同士でキスしてるとか聞いて、おかしいとおもわねーのかよ!」
 勢いあまってと言う言葉があるけど、まさにこの状態だったと思う。言ってしまった後に、はっとして俺は松木の腕を振り払うと少し距離を置いた。言ってしまったことを撤回することもできずに、ぽかんと口を開けている松木を俺は見つめていた。
 何分間か分からない。松木は同じ顔で、俺を見ている。本当に俺はとんでもないことを言ってしまった。こんなことを言ってしまえば、山本にだって迷惑がかかるかもしれない。どうしよう、本当に、どうしよう。
「……え、あ、ごめん。なんかちょっと空耳? 空耳だよな」
 ついに松木は現実逃避し始めたようで、俺に空耳かと尋ねている。空耳なら空耳にしてほしいし、俺だって空耳だと言いたい。けど、言ってしまった以上、それを撤回なんてする勇気も無かった。
「……空耳じゃないんだ」
 返答のない俺に、それが現実だと思い知ったようで、松木が呟くように言う。
「違う……」
「まぁ、なんかそんぐらいで良かったと思っちゃったなぁ」
 安堵した声が聞こえ、俺はびっくりしすぎて何の反応もできなかった。そんぐらいってどういうことだよ。男同士でキスすることって普通なのかよ!?
「あんまりにも黙り込んでるから、なんかもっとそれ以上のことされてるのかと思った。……まぁ、ちょっと俺、前から気づいてたから幻滅なんかしない」
「は……?」
 前から気づいてたってどういうことなんだろう。幻滅しないって言ってくれたことは嬉しかったけど、それ以上に驚きがでか過ぎて言葉が出なかった。
「山本、安藤のこと結構見てたんだよな。だから、なんて言うか。おかしいことは分かってるんだけど、わざわざ囃し立てて大ごとにするのも可哀想だと思ったから、何も言わなかったけどさ」
 気まずさのあまり俺の視線がきょろきょろとしているのに気づいた松木が、俺を見て笑う。
「良い事とは言えないけど、あれほど山本のことを庇うってことは、安藤もそれなりに気があるんだろ? だったら、俺は否定しない」
「……それがわかんねーから迷ってんだよ」
 もうやけくそになって言うと、松木がもっと笑う。俺はそんなに面白いことを言ってるのかと、不安になるぐらい松木はげらげら笑っていた。笑いすぎてて、ちょっと気持ち悪い。
「なんか、納得した」
「はぁ!?」
「まぁ、安藤が思うようにやればいいんじゃねーの? 頭で考えてても上手くいかないと思うし」
 はっきり言って、俺はその言葉に救われた。迷ってても仕方ないと言うのは間違ってなくて、俺が思うようにやるってのも微妙だけど、足りない脳みそで考えてても上手くいかないのにも納得してしまった。すべての感情を吐き出すように、大きくため息を吐くと松木が少し笑った。
「さ、ほら、宿題やんぞ。明日から学校なんだし」
「……おー」
 いきなり話を現実に戻され、俺はがっかりした。


 なんだかんだで夜には宿題を終わらすことができた。あれから、松木は山本のことなど口には出さずに、勉強はとてもスパルタだった。授業中、何を聞いてたの? と聞かれて、すごく気まずくなったことを良く覚えている。母ちゃんがお茶を持ってきてくれたとき、弟たちも一緒にやってきて勉強が一時中断したのは良かったけど、「俺、弟君たちと遊んでるから、まとめ問題解いておけよ」と言われたのは忘れられない。目の前でみんなが遊んでる中、俺一人だけ勉強だなんて虚しすぎた。
 ベッドの上に乗せていたものを床に落とし、ベッドに寝転がる。明日から学校って考えるだけで、気落ちした。夏休み、すごく早かった。毎日のように走っていたのに、今日だけ走らなかったから物足りないように感じた。天井を見上げていると、どこからか振動音が聞こえた。
「……ん?」
 最初は何が鳴っているのか分からなくて、きょろきょろとあたりを見渡すと、携帯がカチカチと光っていた。初めて、携帯が鳴っているのを見て、俺は呆然とそれを見つめていた。
「あ!」
 鳴っているのだから出なければいけないと思って、俺は携帯に手を伸ばす。携帯のサブ画面に表示されているのは、山本と言う漢字。
 自分自身、驚いたことに驚いた。携帯は着信を表示していて、俺は恐る恐る携帯を開く。かなりの時間なり続けていると言うのに、切れる気配はなかった。震える手で、俺は通話ボタンを押す。
「も、もしもし……?」
『やっと出た。電話出るの、遅すぎだろー。どっか行ってたの?』
 茶化すような声が聞こえて、ほっとしたのと同時に、気まずさが込みあがってきた。どうして、もっと早く、着信が来てるってことに気づかなかったんだろう。なんで、もっと早く出ることができなかったんだろう。考えれば考えるほど、ドツボにハマる自分が居た。
「いや、出かたがいまいち分かんなくて」
『あぁ、そうなんだ。携帯、買ったばっかりだもんね。ねぇ、今、何してんの?』
 さりげない質問に、心が跳ねる。松木にあんな話をしてしまったからかもしれないけど、山本のことを妙に意識してしまう。
「え、あ、寝転がってた」
『何できょどってんだよ。ねぇ、ちょっとだけさ、外出れる?』
「……へ」
 手が少しだけ震えているのに気づいた。出ようと思えば出れるし、今から走ってくると言ってもおかしくない時間だ。いきなり聞かれた質問に、ここまで言い訳が思いつく自分が必死すぎて恥ずかしかった。
「出ようと思えば」
『じゃぁさ、あのT字路まで来てよ。俺、そこで待ってるから』
 そこで一方的に通話を切られた。待ってるからってことは、すでに山本はT字路にいるってことなんだよな。そう思ったら、すぐに行かなきゃいけない気がして、俺は部屋を飛び出した。
 どこへ行くの? とたずねてきた母さんに、ちょっとだけ走ってくると言って外に飛び出す。俺の家からT字路まで走って数秒。はっきり言って、家を出たときにはもう、山本の姿が見えていた。全力疾走で山本のところまで行くと、山本は笑いながら俺に手を振る。
「ほんと、家、近いんだね。すぐそこじゃん」
「すぐそこって、前にも、言っただろ」
「まさか、こんなに近いとは思わなかったんだよ。そう言えば、今日は部活無かったの?」
 何気ない質問に、俺は「今日は宿題休み」と答えると、山本は「そっか」と言って俯いた。どうして俯いたのか分からず、首をかしげていると困ったような照れてるような笑みを浮かべた。
「俺さ、今日も練習してるのかと思って、覗きいいったんだよ」
「え」
「そしたら、グラウンドがらーんとしてて、超恥ずかしかった」
 照れ笑いしてる理由がわかって、俺まで笑ってしまった。でもどうして、学校なんかに来たんだろう。山本は人差し指で後頭部を掻くと、ちょっとだけまじめな顔をして俺を見た。
「今日、なんか凄く安藤に会いたかった」
「……え」
「会えて良かった」
 腕を引っ張られ、抱きしめられた。一瞬、何が起こったのか分からなかった。むっとした湿度の高い風が、俺達にぶつかって通り過ぎていく。俺のドキドキとした心拍数が、山本に聞かれていないだろうか。そんなことを疑問に思って、バカだなって自嘲した。
「ごめん、いきなり」
「……いや、良いけど」
 何が良くて何が悪いかなんて、俺の頭では分からなかった。考えていてもどうしようもないんだから、自分の思うがままに動いたほうが楽だ。気持ち的に、そして感情的にも。
「……ねぇ、陸上の大会っていつ?」
「9月の終わりぐらいから」
「県大会は常連なんだよね?」
「……まぁ」
「約束、覚えてる?」
 山本との約束なんて、一つしかなかった。橋の下で誓った、全国大会へ行けって言う約束。俺は約束を守れる男になりたくて、練習を頑張っている。山本のためだけじゃない。俺の名誉にも、かかってる。
「覚えてる」
 はっきり答えると、俺を抱きしめる力が強くなった。
「県大会、見に行くからさ。絶対に勝って。安藤が勝ってくれたら、俺も頑張るから」
「……何を?」
 とても他人任せな意見に、俺は耳を疑った。俺が勝たなかったら、山本は頑張れないみたいじゃないか。そんなの、かなり卑怯だ。俺が負けれなくなる。
「安藤が勝ったら、ちゃんと言う。だから、絶対に勝って」
 そう言って、山本は俺の手を握った。強く握り締めて、顔が近づいてくる。
「それまで、俺、我慢するから。これが最後」
 最後と言われて、胸が軋んだ。ゆっくり唇が近づいてきて、優しく触れる。頬に生暖かい水滴がぶつかったけど、気にならなかった。気にすることなんて出来なかった。ただ、ひたすら、触れた唇を離したくなくて、目の前にいる山本に夢中だった。


……やっとここまで来た!
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