空を飛ぶ風船


 彼を言葉で表現するならば、空を飛ぶ鳥、と言うより、空に浮かぶ風船のような人だった。

 穏やかな春の気候に転寝をしているときだった。「大丈夫?」と声が聞こえて目を開けると、日に透ける茶色い髪の毛が目に入った。愛想のいい笑顔に、柔らかいな物腰。同じ制服を着た男が、頭上に居た。
「音楽室に行きたいんだけど、迷っちゃって。場所、知らないかな」
 男はそう言って、困ったように笑った。彼の存在はそこそこ有名なので、以前から知っていた。親は会社を経営している資産家で、人当たりの良さから誰からも好かれていた。振りまく笑顔は誰にでも平等で、困っている人が居たら放っておけないと言う。品行方正な生徒だった。しかし、どうも勉強面と運動面においては他人より劣っていて、成績は基本的に学年最下位、運動も同じだった。けれど、彼が自分のことを卑下することも、他人を羨む事も、自分の地位を誇示することも無いので、誰からも気に入られ、彼の周りには沢山の人が居た。
 そんな彼を、俺は遠くから見つめていた。彼と俺の居場所は、日向と日陰のように違っている。彼が太陽ならば、俺は月で、同じ場所に居てはいけない存在だった。そう思い込んでいたのは自分自身だけで、彼はそうとも思ってなかったようだ。いきなり話しかけられたことに驚き、声が出せなかった。
「僕も、隣に座っていいかな」
 そう言ったと同時に、チャイムが鳴った。
 音楽の教科書を隣において、俺と同じように寝転がる。空を見上げて、「気持ちいいね、ここは」と言って空から俺に視線を向ける。彼の目は、髪の毛と同じように綺麗な茶色をしていた。それが、楽しそうに歪む。首元を締めているリボンを解いて、ぴっちりと止めた一番上のボタンを一つ外す。それから彼は、何かに解放されたように、大きく息を吐き出した。
「初めて、サボっちゃった」
 いたずらをした、子供のような声だった。そもそも彼は、どうしてこんなところへ来たんだろう。音楽室に向かっているのは、先ほどの会話から分かったけれど、ここは、音楽室がある特別教室の対面にある棟だ。しかも、その屋上。どう言う経緯で迷い、ここへ来てしまったのか、想像もつかなかった。呆れた顔をすると、彼は愉快に笑う。
「こんな心地いい日は、サボったりしても怒られないよね」
 どんな理屈だと、突っ込みを入れそうになる。
「君は……、いつもここにいるの?」
 その言葉に、彼と俺の差を感じた。俺は彼の名前を知っていて、彼は俺の名前を知らない。一部では有名な名前であるけれど、日の当たるところにいる彼が知らなくて当たり前だったのかもしれない。----知っていてほしかった。そんな身勝手なことを考え、チクリと胸が痛む。どうして、胸が痛いのだろうか。彼をジッと見つめ、俺は分からないことを必死に考える。彼はにっこりと笑い、「喋れないの?」と聞いた。
「……いや」
「やっと喋ってくれたね。綺麗な、声だ」
 彼は、人を褒めるのが、とても上手だった。一方的に話す彼の隣で、ずっとこうしているのが俺にとっては一番楽しいことだった。彼は常にポジティブで、明るく、いつも楽しそうな顔をしている。どんな天気であろうと、どんなことがあっても、彼が暗い顔を俺の前で見せたことは無い。無理をしているのではないかと思ったこともあるけれど、彼は「毎日が、楽しい」と言っていた。そんなにも楽しい理由は、分からない。きっと、バカだからだろう。彼との会話が慣れてくると、俺はそう思うようになった。
 彼は俺が思っていた以上に、バカだった。
 よく人の名前は忘れるし、学校の敷地内ですら、ちゃんと覚えていない。借りたもの、貸したものはすぐに忘れて、読解力も理解力も人並み以下だった。でも、彼の周りに人が集まるのは、家が有権者だから、ではなく、彼自身の人柄だった。どんなにバカでも、朗らかに笑う表情を見ていたら、何でも許してやりたくなるのだ。顔も整っているほうであるし、女生徒からも男子生徒からも人気が高かった。だからこそ、いつも一人でいる俺のところへ来て、しがらみから開放されたかのようにため息をつく彼を見て、俺は特別な存在になったのだと、勘違いしていた。
 彼には、特別な女性が居た。
 その話を聞いたのは、彼と会話するようになってから、1年後の夏だった。
 いつの間にか、月日は流れていて、俺たちは最高学年である三年になった。そんな夏の日、だった。
「君に、話したこと、無かったっけ」
 彼はあっけらかんとした顔でそう言う。知らなかった俺は、聞いていないと事実を告げ、彼からの返答を待つ。彼は「んー、そうだったけ。話してたと思ってた」と言って笑った。聞いていない事実よりも、彼に恋人が居た事実のほうが、衝撃的だった。
 目の前が、真っ暗になる。
 彼は楽しそうに、その女性について語った。その目はいつもより柔らかく、そして、俺が見たことの無い表情だった。それだけで、彼がその女性を大切にしていることが分かる。言葉が、右から左へと流れていく。いつもだったら、彼の言葉は頭に強く残り、俺の中で響く。誰の言葉もろくに聞いていなかった俺が、彼の話だけは良く覚えていたんだ。それなのに、彼の言葉すら、俺の中に残らなくなってしまう。ひどく、寂しい。彼は俺のものでもなく、誰かのものでもない。
 その女性の、モノだった。
「……その人とは、何年ぐらい、付き合ってるんだ」
 何の気なしに、そんなことを聞いてみると、彼は嬉しそうに笑い、「あのね」と言う。俺が彼女に対し、興味を持ったことが、彼にとっては嬉しかったのだろう。それは表情だけでよく分かった。ジクリと、化膿した胸の傷から膿が出る。彼が彼女の話をするときは、いつもこうだった。胸が痛い。苦しい。辛い。目の前が、暗くなる。彼の笑顔が見えなくなりそうになって、前を向く。誰にでも向ける平等の笑顔が、そこにはあった。
 あぁ、これは嫉妬なのだと、悟る。
 必然的に、彼のことを好きだったのだと、思い知らされた。
「これ、内緒なんだけど。君には伝えておこうと思って」
 彼は俺に向かって、そう言う。少なくとも、彼女の次に俺は特別な存在だったようだ。内緒ごとを教えてもらえるだけでも、俺は満足だったのかもしれない。……まだ、そのときは。
「何だ?」
「結婚、するんだ」
 それを聞いたとき、言葉が詰まった。
「実はね。彼女が妊娠しちゃって。恥ずかしい話なんだけどさ。親からも勘当されちゃってさ。卒業と同時に家を出て行けって言われてるんだ。僕としては、家のしがらみから抜け出したいと思ってたし、彼女とは結婚したいと思ってたから……」
 おめでとうと、言えなかった。俺は目を見開いたまま、彼を見つめ、何も言うことが出来ず固まっていた。泣くことも、無視することも、諦めることも、何も出来なかった。日に日に、思いは募っていくのに、状況はどんどん悪化していく。彼にとっては、良化だったのかもしれないが。彼の笑顔は、全て彼女のためであり、俺のものにはならない。
 俺のものにはならない。
 俺のものにはならない。
 なら、どうすれば、俺のものになるだろうか。
 高校三年の夏、俺はそんなことを思った。

 それから、彼は自立しなければならないと言って、高校卒業後は就職した。俺は自分の家の跡を継がなければならないので、大学に進学し、進路は別れた。元々、頭の出来も彼とはかなり違っていたので、彼が親に勘当されず、家を出て行くことも無かったとしても、おそらく、進路は別れていただろう。けれど、彼は俺から連絡すれば、いつも笑顔で対応し、会いたいと言えば喜んで会ってくれた。けれど、話すことはいつも家族のことばかり。子供の話を、良くしていた。世辞のように、俺の近況も聞いてくるが、その話は軽く流され俺は相変わらず彼の話を聞いているばかりだった。
 最初は、それでも良かった。彼はもう結婚し、父であるのだから、こんな淡い気持ちはすぐに忘れ、彼が親友だと言ってくれてる以上、彼の親友であろうと自分を押さえつけた。しかし、顔を合わせば合わすほど、どうして彼は俺のものではないのかと、考えるようになった。
 欲しい。
 彼が欲しい。
 あの笑顔を、独占したかった。
 日に日に強くなっていく感情と、それを責める俺の自我が、鬩ぎあって、狂っていく。自分が狂うのを間近に感じながらも、彼のことを考えるのはやめられなかった。今でも思い出せる数々の表情。俺を見下ろす優しい目。綺麗な声だと言ってくれた声。俺の声なんかより、彼の声のほうが綺麗だった。きっと俺が彼を手に入れるときは、彼の全てを壊してしまうだろう。好きだった表情も、目も、声も、何もかも。それなら、俺は彼に関わらないほうが良いと思い、俺から離れた。
 けれど、その自制も数年後には振り切ってしまう。
 もう全てが賭けだった。彼に自分の気持ちを告げて、どう反応するか、反応次第では諦めようと思っていた。断られるのは分かっている。だから、断られたらすぐにでも諦めようと心に決めていたんだ。
 震える手で受話器を握り、彼に電話をする。
『もしもし?! 秋月かい?』
 彼はひどく元気な声で、そう俺の名を呼んだ。
「……あぁ、元気にしてたか?」
『うん。もちろんだよ。君はどうだい? 家、継いだんでしょう?』
 受話器の向こう側からは、子供の騒ぐ声が聞こえてくる。「コラ!」と叱る女の声も聞こえ、受話器を握り締める。この電話の向こうでどのような光景が繰り広げられているのか、想像するのは容易い。ジリジリと燃え滾る嫉妬が、俺を覆い尽くす。
「明日……、会えるか?」
 尋ねられたことに答えず、そう聞くと、彼は少し間を置いてから『いいよ。久しぶりだし、僕も会いたい』と答えた。俺と会って、どうなるかなんて彼は全く分かっていないだろう。昔と何も変わらない残酷なほどの平等な笑みを向け、俺に近況を話すだろう。付き合いはそこそこ長い。離れていた時間も長かったけれど、一緒に居た時間もそれなりに長かった。
 その間に化膿した傷口は、熟れて、周りを侵食し、体全体に毒が広がった。俺の目の前に見えるのは、暗闇のみだ。
「……じゃぁ、明日。いつもの場所で」
 そう言い、俺は電話を切った。
 いつもと同じ笑顔を見せ、彼は待ち合わせの場所にやってきた。約束の時間より30分も遅れたに、彼はいつも謝らない。久しぶり、と言って笑う笑顔を見て、そのまま連れて帰りたくなる。口を塞いで、腕を拘束して、車の中に連れ込んだら彼はどんな表情をするだろうか。押さえつけて上に乗って服を脱がしてその白い肌に触れて何もかも奪い取ったら彼はどうするだろうか。
 即答されたら、諦めるつもりでいた。
 彼は、即答すると思っていた。
「好きだ」
 俺の気持ちなんか、たった三文字で表せれるほど単純で、簡単な気持ちだった。こんな気持ちにどれほど狂わされ、踊らされ続けたか、今となっては良い思い出なのかもしれない。彼はきょとんとした顔して、「僕も秋月のことは好きだよ?」と言う。そう言う意味じゃない。彼の言う好きは俺の好きじゃない。
「お前を、恋愛対象としてみてる」
 はっきり言うと、彼は数秒ほど固まって「……え?」と驚きを声にした。それから慌てふためき、辺りをきょろきょろと見渡し、どうしようと言った顔で俺を見た。助けを俺に求めるな。そう言いたかったけれど、彼が即答しなかったことで、俺の中の考えが固まる。即答すれば、良かったものを。
 無理だ、と。
「また明日、この場所で待っている。それまでに考えておいてくれ」
 そう言って、俺は彼に背を向けた。ああ、遂にだ。遂に彼を手に入れれる。返事を待つつもりなんて、俺には更々無かった。頭が可笑しいと詰られようとも、卑怯だと罵られようとも、嫌いだと拒まれようとも、彼が俺のものになるのは決められたことであり、心など手に入らなくても、彼が俺の手の内にいるだけで十分だった。
 たとえ、彼が彼でなくなってしまったとしても。
 綺麗な声だね、と褒めてくれなくなったとしても。
 あの、誰に対しても平等な笑顔を見せなければ、それだけで十分だった。その美しい茶色い目の中に、俺だけを捉えて生きていけば良い。
 意を決した彼の目は、まっすぐで強く、そして美しかった。気が抜けたような笑顔など一切見せず、俺をまっすぐ見つめ、「秋月の気持ちは嬉しいけれど……」と言い始めた口を塞ぎ、部下が運転する車の中に引きずり込んだ。それ以上の言葉など、俺は彼に求めず、抵抗する手足を縛りつけ、俺の家に連れて行った。目に涙を浮かべ、塞いでいた布を外すと「離して」と彼は叫ぶ。抵抗するのは目に見えていたから、手足を縛りつけたままの状態で彼を犯し、泣き叫ばれ、最後は家族の名前を呼んでいた。ここまで連れてきたのに、彼は俺を見ない。俺しかこの場にいないのに、彼はまぶたの裏側にある家族の幻影を見つめ、彼が愛した女の名前を呼ぶ。その度に、彼の細い体をめちゃくちゃになるまで抱いて、俺だけを見るように命じた。しかし、彼の目に俺が映ることはない。虚空を見つめる日もあった。うわ言の様に家族の名前を呼ぶ日もあった。俺がどんなことをしようとも、彼は俺のことを責めず、常に「帰して」と懇願する。細い体は日に日にやつれ、もうこのときはすでに彼は狂っていたのかもしれない。ここから出すことも許さず、死ぬことも許さず、毎日毎日、狂うぐらいに犯されて、優しく微笑むこともなくなり、帰してと言わなくなったら、今度は殺してと言うようになった。
 俺は彼を手に入れた。
 しかし、心までは手に入れてない。彼が俺を見ることは、一生無い。
 空を飛ぶ風船を打ち落としたのは、紛れも無く、この俺だ。

<<<<<<<<<<< Index >>>>>>>>>>>