Gain


 もう九月も終わりだって言うのに、今日は夏が戻ってきたみたいで、クソ暑い一日になった。
 お前ならできるって、と他人事のようにチームメイトが言う。
 今までしてきたことを出せば、大丈夫。と顧問が肩を叩きながら言う。
 あぁ、みんなちょっと他人事だなって思ったけど、気分はとても良かった。今日は勝てる気がしていたからだ。地区大会は余裕で突破した。そして、今日はついにやってきた県大会。開会式が始まるまで、俺は携帯を握り締めていた。
 夏休みが終わる直前、八月の三十一日以来、俺は二人きりで山本と会っていない。山本なりの自制らしい。そりゃ、同じクラスだから、顔を合わせれば挨拶だってするし、地区大会を突破した時だって「おめでとう」と言ってくれた。けれど、山本は少し複雑な顔をしていて、俺も物足りなさから、気まずい顔をしてしまった。何で物足りないか、はまだ分からないフリをしている。山本は今朝、<大会、行くから。頑張れよ>と短いメールをくれた。なんだか恥ずかしくなって返事をしなかったけれど、気にしてないだろうか。ギュ、と携帯を握り締める。山本の一言が、俺の勇気へと繋がっていた。
 勝てる気がする。ほんと、あやふやな気持ちだけど、俺が勝ったら山本も頑張るらしいから、勝ってやんなきゃなとも思ってた。何を頑張るんだか、考えてみたけれど分からなかった。でも、全国へ行くのは約束だから。俺はちゃんと、約束を守れる男になりたい。山本のためだけではなく、俺のため、のほうが気持ちは大きかった。予選は午前中、午後から決勝。今日一日で、俺と山本の運命が変わる。分かんないと言いつつも、俺はどこか、山本が何に対して頑張るのか分かってたのかもしれない。
『開会式を始めます』
 アナウンスが聞こえ、俺は携帯をカバンの中に突っ込む。「始まるな」と松木が俺の肩を叩きながら走り出し、俺も釣られるように走り出す。予報では今日、真夏日らしい。久しぶりの暑さに、俺は山本と過ごした夏休みを思い出していた。
 山本との距離が近づいたのは、今年の六月。梅雨真っ只中の雨の日だった。あの頃はグラウンドで練習が出来ない日が続いていて、俺の気持ちもじとじとしていた。山本の存在は知っていたけれど、どこか近寄りがたいイメージがあって、喋ったりなんかしたことがなかった。たまたま、昇降口で雨宿りしている山本と会い、一緒に帰ったのが始まりだった。なぜか分からんが、俺はその帰り山本にキスされ、それ以降、物凄く意識するようになってしまった。
 陸上が出来なくなったときもあった。人に八つ当たりしたときもあった。その原因は全て、急接近してきた山本にある。二人っきりになるたび、抱きしめられたり、キスされたりして、俺はとても戸惑っていた。けど、俺は山本に触れられるのが嫌ではなかったんだ。それがどういう感情なのか、俺は言葉だけ知っている。辞書で調べてみたりもした。でも、よく分からなかったから、今日、山本と会って確認しようと思った。きっと、今日、俺が勝てば全てが変わる。そんな気がしていた。
 まだ午前九時だって言うのに、炎天下の中、立っているだけでも暑い。それでも、真夏と違い、吹く風はさらさらとしていて心地よかった。走りに影響がない程度の微風と、雲ひとつない晴天。グラウンドの状態、気候は、とても良い。これなら、ベストタイムが出せるだろう。負ける気なんか、全然、しなかったんだ。
 開会式が終わり、荷物を置いてるところに戻る。カバンを開けて携帯を見ると、カチカチと光っていた。メールだろうか。誰にも見られないよう、そっと携帯を開くと着信が入っていた。誰だ。そんなことを考えながら、着信履歴を見ると山本と表示されている。百メートルの予選まで、あと三十分。トイレって言ったら、大丈夫だろうか。俺は携帯をポケットの中に突っ込み、「トイレ行ってくる」と松木に言い、全力疾走した。なんだか必死だな、って思って、笑いが込み上がってくる。あれから何度か電話で会話したことがあるから、電話を掛けるのは慣れた。リダイヤルから山本の携帯に電話を掛ける。ワンコールで、山本が出た。
『もしもし!? 俺さ、大会の会場、聞いてなかった!』
 突然、聞こえた大声に、俺は爆笑してしまう。ああ、いい意味で緊張がほぐれた。
『おーい、安藤? 笑ってないで教えてよ』
「俺、言わなかったっけ」
 何でかよく分からないけれど、笑ってしまって言葉が上手く出ない。俺も必死だったけど、山本も必死だった。伝えたと思ってたけど、どうやら、俺は山本に大会の会場を教えていなかったみたいだ。電話の向こうでは、『聞いてないよ』と不貞腐れた声が聞こえる。
「隣の市の、総合競技場。JRで一本だから。駅のすぐ隣だし、迷わないと思う」
『ん、了解。もうすぐ家、出るんだけどさ。安藤はいつ走るの?』
「……あー、この後すぐだわ。俺、そろそろ行かないとマズイ」
『え、マジで。じゃぁ、ダッシュで行く。ごめんな、忙しいときに』
「いや、良いよ。俺も前もって教えてなかったのが悪いし。じゃあな」
 ピと、ボタンを押して通話を終わらせる。ちょっとした会話だったけど、いい具合に緊張もほぐれ、やる気がぐんと出た。声一つで、こんなに気持ちが安らぐとは思いもしなかった。昨日の夜はもちろん眠れなかったし、山本が何を頑張るのか気になってたし、何より約束を守れるかどうか、不安だった。みんながみんな、ベストタイムを出せれば大丈夫だって言うけど、いくらコンディションが良くてもベストタイムが出せるとは限らない。
「あんどー!」
 遠くから俺を呼ぶ声が聞こえ、携帯をポケットの中に突っ込む。もう、予選の召集が始まってしまっていた。
 三走目の、四コース。心臓はいつもより少し早く鼓動している。やっぱり、緊張はしてしまうもので、手の平はじんわりと汗ばんでいた。一走目のグループが、走り始めた。パンと軽い音が鳴って、みんなが駆け出す。緊張のピークはこの時だった。二走目のグループが並び始め、俺達は前進する。このときにはもう、走ることしか考えてなくて、緊張なんてしていなかった。汗ばんでいた手のひらも、いつの間にか乾いて、少し早かった鼓動もいつも通りのテンポで血液を送り出している。前が走り出して、俺達がスタートラインに並ぶ。もう、俺には前しか見えていなかった。
「位置について」
 審判の声が聞こえ、スターティングブロックに足を乗せる。位置を調整して、前を向く。もう、俺の目には遠くにあるゴールしかなかった。走っているときは、何も考えられない。ただ、あのゴールに向かって突っ走るだけだ。
「用意」
 息を吸った。
 パンとピストルの音が聞こえ、走り出す。スタートは良かった。さすがに予選なだけあって、周りはさほど速くない。力を抜いて走ったが、グラウンドの調子も良く、俺自身の調子も良かったせいか、そこそこ良いタイムが出る気がしていた。ゴールして、自分のタイムを見る。十一秒五六。このタイムなら、余裕で予選は突破できるだろう。
「うっしゃ」
 小さい声で喜び、ふと視線を感じて顔を上げる。笑顔でぶんぶんと大きく手を振っている人がいて、誰だかすぐに分かってしまった。間に合ったのかどうかは分からないけれど、走る前にその姿を見つけなくて良かったと、ちょっとだけ思ってしまった。きっと、走る前に見たら、照れて走れなかったかもしれない。観覧席に近づくと、そいつも一番前にやってきて柵から体を乗り出す。
「危ないって」
「落ちたら、受け止めてくれる?」
 ふざけた調子で、山本がそう言う。
「バカじゃねーの」
 思わず、笑ってしまった。俺よりも背がある山本を、俺が受け止めれるはずがない。流れてくる汗を腕で拭い、山本を見上げていると「あんどー!」と遠くから声が聞こえる。二人揃って、その声がしたほうを見た。松木がこっちに向かって走ってくる。アイツ、これから長距離のくせに元気あるな、とか、どうでも良いことを考えながら「どうした?」と話しかける。
「あれ、山本、来てるんだ」
 松木が上にいる山本を見て、そう言う。山本は笑いながら手を振り、「応援しにきた。近いし」と松木に言う。それを聞いた松木は「ふーん」と言って、俺を見た。そこでどうして俺を見るんだと問い詰めたくなったが、松木は山本が俺に対してどんな感情を抱いているのか知っている。だから、今日だって俺を応援しに来たって分かってるんだろう。そんな目だ。
「……な、何だよ」
「いんや、別に。良かったな。応援しに来てくれて」
 山本には聞こえないぐらいの小さい声で、松木がそう言って俺の肩を叩いた。
「な、……おまえ!」
「怒るなよ。図星かー?」
「ち、ちが……」
「多分、違わないけどな」
 松木はしれっと言い放ち、顔を上げて笑顔になる。俺、これから大切な試合なのに、からかわれてて大丈夫だろうか。意識しすぎて顔を上げれなくなってしまった。山本の顔を見たら、ダメだ。走れなくなりそう。
「話してたところ悪いな。コイツ、顧問に呼ばれてっからさ。連れてくね」
「うん。気にしないで。じゃ、松木も頑張ってね」
「おー」
 松木に腕を引かれ、俺は少しだけ顔を上げる。山本は相変わらず笑いながら、手を振っていて、なんかコイツのために頑張るなんて、俺もなんかヤキが回ったなとか思ってしまった。でも、折角来てくれたんだし、約束だし、今日は絶対に勝ってやる。山本の顔を見たら、もっと気合が入った。
「予選なのに、結構、良いタイム出たな」
「ん、そうだな。なんか今日、すげぇ調子良い」
 肩をぐるぐる回しながらそう言うと、松木は「ふぅん」と言って笑う。なんか意味深な顔に、俺は「……なんだよ」と言うが、松木は「なんでもー」とはぐらかして、理由を言ってくれない。別に山本が来たから、調子良いってわけじゃないし。と言おうと思ったけど、それを言ってしまえば、山本を意識してるのを公言してしまうみたいだから、言わなかった。顧問のところへ行くと、「今の調子で決勝も頑張れ」と言われた。特に指摘事項はないみたいだ。二年と三年じゃ、かなりの差があるけど、俺は三年とはれるぐらい力を持っていた。自慢とかじゃなくて、走りが速いのは生まれ持った才能みたいなもんだから、仕方ない。それに、トレーニングだって沢山積んできた。決勝だって、勝てると、俺は全国大会に行くんだと。そして、山本が何を頑張るのか、勝ったら聞いてみたかった。
 時間の経過とともに暑さはどんどんと上昇して行き、昼休みを迎える。予選のタイムはかなり良く、俺は一位で予選通過した。この調子で、決勝も一位が取れたらいいと思う。でも俺が力を抜いたように、決勝に出る奴らも力を抜いたはずだ。予選タイムから選ばれた八人は、県の中でも有名な奴ばかりだ。勝てるかどうかなんて、もう分からない。百メートル決勝は午後二時からだ。軽くウォーミングアップとかしたかったから、俺は早めに食事を済ませ、競技場の周りを走っていた。日陰に入ると、冷たい風が入り涼しい。ベンチに座り一息ついていると、バサと上からタオルが降ってきた。驚いて、体が跳ねる。
「間に合ったよ、予選」
 聞きなれた声に、俺は頭に被ったタオルを取りながら振り向く。スポーツドリンクを持った山本が、俺の背後に立っていた。二人きりになるのは、一ヶ月ぶりだ。緊張してるのか、鼓動が少し早くなった。
「……よく、間に合ったな」
 あの時間からでは、間に合わないと思っていた。山本は俺の隣に座り、「全力疾走した」と笑いながら言う。家から駅まで走って、駅からここまでも走ったのか。
「別に、予選ぐらい急がなくても」
 タイム次第では予選突破出来ない可能性もあるけど、山本が折角来てくれるんだ。決勝まで行きたいと言う気持ちは強かった。だから、予選では絶対に負けられなかった。控えめに言うと、山本は笑う。
「見たかったし。やっぱり、安藤って足、速いんだな。ぶっちぎりの一位だったじゃん」
「……まぁ、頑張ったし」
「そっか」
 山本は笑って、「じゃ、次も頑張って」と言い、俺にスポーツドリンクを手渡した。「ありがとう」と言い、それを受け取り、ペットボトルのふたを開ける。こう言うスポーツ飲料って、本当は水で薄めたいんだけど、貰い物を薄めるのは気が引け、俺は一口飲む。良く冷えたアクエリは、喉を通って内側から体を冷やしてくれる。流れていた汗は、いつの間にか引いていた。
「ねぇ、安藤」
「何?」
 話しかけられて隣を見ると、山本はまっすぐ前を見つめていた。真面目な顔をして前を見つめている姿は、俺が走るときと少しだけ似ている。ただ、前を見て、何も考えてないときと同じ表情に、ドキと心臓が高鳴る。
「俺、安藤が勝ってくれたら、頑張るって言ったけど。安藤が勝っても負けても、頑張ることにした」
「……へ?」
 言っている意味がよく分からなかった。未だ、山本はまっすぐ前を見つめ、ウォーミングアップしている他の人たちを見つめている。その目の向こうに、何が見えているんだろうか。少し気になった。笑ったり、茶化したり、からかったりしているときとは違う、真面目な顔は何度か目にしたことがある。
「だから、安藤もあんまり俺のこと気にしないでさ。自分のやりたいようにやんなよ」
「いや、勝つし」
 勢いでそんなことを言ってしまうと、山本が噴出したように笑う。
「即答かよ」
「だって、山本のためだけに頑張ってるわけじゃないし。俺の目標でもあるし。そんでもって、俺は約束を守る男でいたい」
 はっきり言うと、山本は「男前だなぁ」と声を上げて笑った。爆笑しているのとは違う、なんだか嬉しそうな笑顔に、俺は目を逸らす。喜ばすつもりでこんなことを言ったわけじゃない。でも、山本はかなり喜んでるようだった。
「そっかそっか。そう言えば、約束したな。全国に行くって」
「そうだよ」
「じゃ、約束守って」
 山本はにっこりと笑ってそう言う。その約束が、どれほど難しいのか、きっとコイツは分かっている。分かっていながら、俺にそう強要するんだから、せこい奴だ。俺は「おう」と言って、立ち上がった。もうそろそろ、みんなのところに行かないと怒られる。決勝まであと、一時間。今のうちに緊張しておけば、決勝になったら緊張はほぐれるかもしれない。立ち上がった俺の腕を、山本が掴んだ。
「……どうした?」
 振り返ると、山本が俺の腕を掴んだまま、俯いている。何でか知らないけど、ちょっと顔が赤い。握り締める手は熱くて、その手から緊張が移ってきた。
「いや、なんでもない。頑張って」
 パッと手が離される。俺も「うん」と小さい声で頷いて、その場から逃げるように走り出した。山本が何を考えているのか、俺にはさっぱり分からない。でも、今の間はすごく緊張した。
 スニーカーからスパイクに履き替え、決勝が始まるのを待つ。いつまで経っても、俺のどきどきは消えようとしなかった。

 決勝を始めるアナウンスが流れる。ついにこのときがやってきた。予選を勝ち抜いてきた奴らが集まるんだ。次こそは本気で走らなければならない。アナウンスが聞こえた途端に、俺の緊張は一気にほぐれ、山本のことはあまり考えられずにいた。今、俺の頭を支配しているのは、陸上のことだ。ベストタイムを出せれば、決勝でも勝てる。予選では力を抜いていたのに、まずまずの成績が出せた。大丈夫。絶対、大丈夫。そう言い聞かせて、俺はいろんな人たちに見送られながら、トラックへと向かった。
 決勝に出れるのは、八人しかいない。風は二メートルの追い風。ほぼ、風なんて無いに等しい。本当のことを言ってしまえば、県大会で勝っても関東大会があるから、まだまだ全国への道のりは長い。いつもだったら、このとき、大体、自分のことを「大丈夫、勝てる」と励ますのだが、今日はそんなこと頭にも過ぎらなかった。ただ、走ることだけに集中する。周りは県内でも有名な奴らばかりで、当たり前のように速い。でも、俺だってその一員だ。全国大会に行けば学年なんて関係ないけど、関東大会までは学年別に競技は行われる。周りはみんな、同い年。負けるわけにはいかなかった。順々に名前を呼ばれる。俺は二コース目だから、すぐに名前を呼ばれてしまった。みんな、ジャンプしたりなど緊張を隠せていないようだ。
「位置について」
 ついに、始まる。決勝ってなると、いつも緊張していたのに、今日はあんまり緊張していなかった。何でだろう。俺はスターティングブロックに足を掛ける前、一度だけ顔を上げて観覧席を見た。一目見て、山本がどこにいるかすぐ分かった。目が合い、小さく手を振られる。決勝なのに、俺、何でか知らないけどすごく余裕だった。手を振り返してやりたかったけど、そんなことをすれば怒られるから、俺は目を逸らしスターティングブロックに足を乗せる。俺の目には、前しか見えていない。一度目を瞑り、「用意」の声で目を開ける。
 ピストルの音が聞こえた。
 何十回、何百回、何千回、毎日練習をしていた。雨が降った日でも、滑る廊下でスタートの練習をした。瞬発力とかいろんなものを必要とするけど、体に染み付くぐらい練習をしたのだから、スタートは抜群だった。前を見て、ひたすら足を動かす。途中、水滴が顔に当たったけど、そんなの気にもならなかった。今は、勝つこと、そして自分の力を振り絞ることしか考えてなかった。
 俺が走った百メートルは、短いようでとても長い、けれどあっという間に終わってしまう距離だった。
 わっと、声が上がり、きょろきょろと辺りを見渡す。誰が勝ったのか俺には良く分からない。結果発表をするアナウンスを待つのが、俺はどきどきした。一位は、誰だ。結構、混戦だったようだ。周りもきょろきょろと辺りを見渡している。
『男子百メートル走、決勝の結果発表をします』
 ドキンと心臓が高鳴る。いつの間にか、雨が降り始めたようで、空からはポツポツと水滴が落ちてくる。走っているときに感じた水滴は、どうやら雨だったようだ。空を見上げると、薄い雲の隙間から太陽が覗いている。お天気雨だ。
『一位、大北三中安藤翔太君。記録、十一秒三六』
 俺の名前、だろうか。初めは誰のことを言っているのか分からなかった。それから二位、三位と次々と名前が呼ばれていく中、俺は呆然としたまま、トラックで立っていた。
「安藤!」
 一際、大きい声が聞こえて、俺は顔を上げる。
「やったな!」
 山本が俺を見て、笑っていた。そこでようやく、俺は一位が取れたんだと、自覚する。嬉しくて、泣きそうだった。
「……勝った。勝ったぞ、俺」
 観覧席に近づいて、山本に向かってそう言う。ちゃんと、約束、守ったんだ。しかも、自己記録を大幅に超えての一位だ。頬を流れる水が、涙なのか、それとも雨なのか、俺には分からない。
「俺、一位、取ったぞ!」
 勝ったことを自分に言い聞かすように、俺は大声を出した。
「うん。すごかった。カッコ良かったよ、安藤」
 何でか良く分からないけど、今すぐ山本のところに行きたくなって、俺は走り出す。遠くから安藤、と俺の名前を呼ぶ声が聞こえたけど、無視してしまった。この喜びを一番伝えたいのは、上で俺を見守ってくれていた山本だ。階段を駆け上がって、観覧席へ行こうとしたところで山本とぶつかる。驚きを声に出す前に、思いっきり体を抱きしめられた。
「すげぇな、安藤。めちゃくちゃ速かった」
「うん」
 分かんないけど、すごく涙が出てきて、俺は山本の胸に顔を埋める。この勝利は、俺だけの力ではない。今までの俺だったら、あのタイムは出せなかった。雨脚は徐々に強くなり、俺達の体を雨粒が打つ。冷たい風が吹いた。
「勝ったんだな、俺」
 まだ、勝った自覚が無くて、確かめるようにそう尋ねた。信じることが出来なかった。山本は俺の体をぎゅっと抱きしめる。
「安藤が一位だった。凄かった。めちゃくちゃ速くて、あれが安藤だとは俺、思えなかった」
 山本の声も興奮していて、少し大きい。
「約束、守れたんだな。俺」
 河川敷でした山本との約束が、頭の中に過ぎる。これからはまだ関東大会が残ってるけど、今まで俺は一番良くて県大会の決勝だったんだ。それをようやく、超えることが出来た。嬉しくて、ボロボロと涙が零れてくる。
「うん。約束、守ってくれてありがとう」
 優しい声が、耳を通じて全身に伝わる。俺が勝てたのは、今、抱きしめてくれている山本のおかげだ。俺だけの力じゃない。
「ありがとう、山本」
 自然と、そんな言葉が出てしまっていた。
「ねぇ、安藤」
 山本が俺の肩を押して、体から引き剥がす。ボロボロと泣いてしまった俺は、なんだか恥ずかしくて俯いた。
「顔、上げてよ」
 笑いながらそう言われ、俺は渋々、顔を上げる。雨に濡れた山本の顔は、俺と同じように、泣いてるみたいに見えた。
「好きだよ」
 ごく自然な流れでそう言うから、初めは何のことか良く分からなかった。
「安藤が、ずっと好きだった」
 そこまで言われて、ようやく意味を知る。急に恥ずかしくなって、その場にしゃがみ込みたくなった。でも、山本に両腕を掴まれてるからしゃがむことは出来ない。
「……安藤は?」
 俺の気持ちなんて分かってるくせに、そう言うことを聞くんだから、意地が悪いなって思った。
「賞状貰ったら、答えてやる」
「うん。待ってるね」
 山本はそう言ってから、にっこり笑うと俺の腕を引っ張り、階段の隅へと連れて行く。何をするんだろうかと思えば、顔が近づいてきて、ちゅ、と唇が触れた。久しぶりのキスは、俺の涙の味も混ざっていて、しょっぱなかった。俺が勝つまで、山本は俺に触れることを我慢すると言っていた。それももう、終わりってことか。
「あーんどー!! どこだー!!」
 遠くから松木の叫び声が聞こえて、俺と山本の体がビク、と跳ねる。周りは分からないかもしれないけど、松木には気付かれてるかもしれない。俺は少し笑って「行くわ」と言った。山本も「うん」と言って、俺の肩を少し撫でる。
「風邪、ひかないように」
「うん。お前もな」
「帰り。一緒に帰れるかな」
「……頑張る」
 本来だったら、みんなで一緒に帰るのが通常だけど、今日ばっかりは許してくれる気がしていた。友達来てるから、とか言い訳はいっぱいある。山本の隣を潜り抜け、俺は呼んでいる松木のところへと向かう。
「どーこ行ってたんだよ!」
 階段から降りてきた俺を見つけた松木が、不機嫌そうにそう言う。
「ん、トイレ」
「嘘吐け!」
 パシと頭を叩かれ、俺は「いってぇなー」と松木の背中をたたき返す。ケラケラ笑いながら、俺はみんながいるところに戻って、もみくちゃにされた。
 全ての競技が終わり、閉会式が始まる。百メートル走で優勝した俺は、表彰され賞状を渡された。俺が走ってるときに降った雨は、通り雨だったようで、閉会式が始まる直前ぐらいに止んだ。優勝と書かれた文字を見ているだけで、ニヤけてしまう。まさか、県大会で優勝できるなんて思っても無かった。きっと、今までの俺だったら、勝ててなかったと思う。順当で言えば、まぁ、三位か四位ぐらいだっただろう。ここまで力を与えてくれたのは、紛れも無く、山本のおかげだった。アイツに悩まされたこともあったけど、そのせいで走れなくなったときもあったけど、山本が応援してくれたから頑張れた。誰かの応援が、ここまで力になるとは思いもしてなかった。
 それはまだ、俺の心が未熟だから、と言う理由もある。
 人の心に左右されやすいこの時期、恋愛なんてしている場合じゃないのはよく分かってる。
 でも、俺はこの感情を止めることはできなかった。
 松木に山本と一緒に帰ることを説明し、みんなとは会場で別れた。いろんなことを言われるかなって思ってたけど、松木は案外、普通で「ふぅん」と意味深な表情をしただけだった。松木ももう、気付いているんだろう。俺の気持ちにも、山本の気持ちにも。優勝した賞状を丸めて、筒の中に入れ、カバンに突っ込む。もう、競技場には人がほとんど居なくなっていた。
 山本はまだ、観覧席に座って俺のことを待ってくれていた。着替えたティシャツの裾を掴み、俺は息を飲み込む。隣に座ると「お疲れ」と言う声が聞こえて、俺は「待たせたな」と言う。山本は笑ったまま「待ってないよ」と言った。
「ねぇ、安藤」
「……何?」
「初めて、話したときのこと、覚えてる?」
 山本は前を見つめたまま、俺にそう尋ねた。俺も山本に習ってトラックを見つめる。つい一時間前まで、そこで走っていたとは思えない。映画のワンシーンを見ているような、別世界に見えた。まだ、雨を吸収してないのか、トラックの内側にある芝は太陽を反射して煌いている。とても、綺麗だった。
「一緒に帰った時、だっけ」
 そう言って、鬱陶しいぐらいのしとしととした雨を思い出した。屋根に溜まった雨粒はピシャンピシャンと音を立てて、タイルに落ちて行く。その様を俺は忌々しく見つめていた。雨のせいで、その数日間、練習が出来なかったから。
「違うよ」
 くす、と小さい笑い声が聞こえて、俺は「え?」と山本を見る。山本はまだ、笑っていた。俺の記憶の中では、山本と初めて会話したときなんて、そのときぐらいしか無い。他で言えば、いつなんだろうか。考えてみるも、分からない。
「そっか。覚えてないか。ま、仕方ないかもね」
 覚えていないことを怒るわけでもなく、山本は言葉通り、仕方ないと言った顔をしていた。
「……いつだよ」
 なんだか、覚えてなかった俺が悪者みたいな気がして、ジッと山本を見つめる。ようやく、山本の目がトラックから俺に向けられた。優しく微笑む表情は、いつもよりも柔らかい。
「一年のときの体育祭。百メートルの予選で、俺がおめでとうって言ったの、覚えてない?」
 一年のときの体育祭。随分と昔の話だ。学年の中で一番足が速かった俺は、リレーだの百メートルだの、いろんな競技に出され、少し困っていた。でも、やるからにはしっかりやりたいし、出るからには勝ちたかった。百メートルとか、俺の得意分野で負けるはずなんか無く、予選をトップで勝ち抜いたら、周りの奴らに「せっこいぞー。手を抜けよ」とか怒られて、うっせぇよ、と言い返したのを思い出す。あぁ、その後か。なんか退場門に目立つ奴が立ってて、あ、同じクラスの山本だ、って思って、俺、ちょっと嫌そうな顔をしてしまったかもしれない。なのに山本は笑って「おめでとう」と俺に言ってくれたんだ。誰も言ってくれなかったその一言を、山本が言ってくれて嬉しかった。
「そう言えば、そんなんあったな」
「俺ね、その前から安藤のこと気になってた」
「……え」
「今まで、誰かに話しかけたりするのに、緊張なんかしたこと無かったんだぜ? なのに、安藤におめでとうって言うの、すげぇ緊張した。俺、そのときから安藤のことが好きだったみたい」
 山本が笑いながら俺の頬を撫でる。その手はうっすら汗ばんでいて、百メートルを走る前の俺の手のひらと、よく似ていた。緊張してるんだろう。その手を、握り締める。
「安藤は?」
 山本は少し首を傾げる。
「俺のこと、好き?」
 ゴクリと、口の中に溜まった唾を飲み込んだ。もう、覚悟は出来ている。
 七夕にはまだ早い催涙雨を一緒に受けたときから、俺は恋に落ちていたのかもしれない。
「好きだ」
 はっきりと答えた。言うのは、とても簡単だった。この一言を言うのに、俺達はどれほどの遠回りをしてきたんだろうか。どれほど、我慢してきたのだろうか。やっと言えたことに、涙が出そうになった、抱きしめられる。山本から伝わってくる鼓動は、俺と同じように速い。決勝を走るときよりも、緊張している。
「良いの? 男だよ、俺」
「今更じゃねぇか。つか、それ、俺も一緒」
「うん。俺は安藤が良いから」
「じゃぁ、俺も山本が良い」
「も、って何だよ、もって」
 山本が俺の頬をつねって、笑う。嬉しそうな笑顔に、俺も笑ってしまい、「いてぇよ」と山本の手を掴む。笑ってた顔が、一変して真面目な顔になり、近づいてくる。ゆっくりと目を瞑り、唇を合わせた。
 もう、何回、キスしただろうか。ファーストキスと、セカンドキスは、一緒に帰ったとき。三回目のキスは、気まずさが無くなってスランプから脱出して、山本の家に服を取りに行ったとき。四回目のキスは、三十一日の夜にコレが最後と言ったとき。で、五回目はさっき、試合に勝ったとき。これで、六回目か。これから、何回こうやってキスするんだろうか。ケンカだって沢山するかもしれない。でも、俺は山本を選んだ。いつも直向で、俺のことをずっと考えてくれてた山本が、いつの間にか好きになってた。
「……俺、部活中心だし。山本のこと、疎かにしちゃうかもしれないけど。それでも良いのか?」
 確認するように尋ねると、山本は少し笑う。
「晴れの日は、陸上に譲ってあげるよ。だから、雨の日は、俺のもの」
 そう言って、山本は俺の体を抱きしめる。あぁ、そうか。好きになった理由は、案外簡単で、短絡的だったのかもしれない。俺は山本の背中に手を回し、ぎゅと抱きしめる。

 山本を好きになったのは、

 多分、雨の仕業だ。


+++あとがき+++
なんか、三年越しの恋って言うか、三年越しの完結って言うか……。
とっても遅くなってしまいましたね。ほんとは、あんまり続編とか書く気無かった話です。笑
半年記念でリク頂いて、その終わり方が微妙だったことから、ちょくちょく書いて、そして止まって……。
この二人の話は、一応ここで終わりますが、実を言うとこの先の展開とかもちょっと考えてて、続編をやろうと思えば出来るんですけど、
一先ず、ここで終わりです。ショートとしては、ですが。
カウンター50万記念で上位に上がれば、連載するでしょうし、もし、あがんなかったとしてもリクあればやります。笑
ま、やりたいって気持ちはあるんですが、これから投票するにあたって、この話がどうなるか分からないので、とりあえず、続編はやりません。
元々、雨とかそう言う雰囲気が大好きなので、この話は雰囲気的には好きな話です。
まぁ、でも、なんか最初の方とか文が……。うへへへへへって感じなので、あまり読み返したくないですが、まだ読み返せる話ですね。
ああ、仕事帰りに買い物へ行く最中に見た中学生の相合傘からこんなことになるなんて……!
思ってもませんでした。

最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。
コメント等、過去にくださり、ありがとうございます。
ちゃんとやろう! と決め手になったのは、七夕ネタでリクエスト頂いてからです。それまで放置してしまっていて、申し訳ありませんでした。
ご意見ご感想等、良かったらください。
お待ちしてます。

2011/8/15 久遠寺 カイリ
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