ひとひら


 気付いたら、自分の体が宙に浮いていた。何が起こったのか良く分からなくて、キャーキャー周りが騒いでいたのは良く覚えている。真下を見て、驚愕。自分が車の間に挟まっていた。

 死んだんだ。

 と、すぐに悟った。まだまだやりたいこともいっぱいあったし、こんなところで死ぬなんて想像すらしていなかった。一番心残りなのは、恋人が俺なしで生きていけるかどうか、だった。そのせいで、俺は成仏できなかったと言っても、過言ではない。
 死後の世界とか、そんなもの一切無かった。俺は死んだときと同じようにスーツを着ていて、足もちゃんとあった。何が違うのかと言えば、宙に浮くことが出来ることと、俺の姿に誰も気付いてくれないこと。俺はみんなを見ることが出来るのに、誰も俺には気付いてくれない。ガラクタの中に放り込まれたようで、少し怖かった。
 持ち前のポジティブシンキングで、死んだことは認めることにした。死んだとしても、こうして現代に残れたことはよかったのかもしれない。気付いてくれないけれど、アイツの傍にいることはできるかもしれない。そう思って、俺はすぐに恋人の所へと向かった。
 俺の恋人はそこそこ良い会社で働いているサラリーマンだ。ふらっと風に揺られながらオフィスを窓から覗くと、正人は丁度、電話を手に取ったところだった。最初は笑顔で電話を取っていたけれど、見る見るうちに顔が強張って、周りが不安そうに見つめている。あぁ、俺が死んだ連絡を受けたのかな。受話器を落とすと、正人はいきなりしゃがみこんでしまった。何が起こったのか分からず、俺は試しにその窓をすり抜けてみる。音がリアルに飛びこんできた。
「仁科さん!? どうしたんですか!!」
 隣にいた女の子が、しゃがみ込んだ正人に声をかけている。正人の肩は震えていて、嗚咽の様なものが聞こえてきた。泣いてくれているのかと思うと、少し嬉しくなった。けど、やっぱり申し訳ない気持ちが込み上がってきた。
「うっ……」
「仁科君!? と、とりあえず、休憩室行こう。あ、斎藤さんは仁科君の荷物持ってきてあげて!」
 上司のような人が正人の前に立って、泣き崩れた正人を抱え上げてオフィスから出て行った。周りは唖然としていて、パタンと扉が締まったと同時に「どうしたの? 仁科さん」と噂話を始めてしまった。これ以上、こんな話聞いていられなくて、俺はオフィスから出て正人の後を追った。隣にある休憩室に押し込まれた正人は、机に突っ伏したまま、まだ泣いている。隣に座っている上司は何も言わずに、正人の背中を撫で続けていた。
 俺と正人が出会ったのは、今から約7年ほど前のことだった。高校2年生の時に、同じクラスになって、趣味も似ているからって仲良くなった。男同士なのに恋愛感情を抱いてしまったのは、正人からだった。俺を見る目が、徐々に変わっていき、仕草も変わった。俺に触れるのを極端に恐れて、俺が肩に触れたりすると驚いたりしていた。そしたら、何でか俺まで意識し始めちゃって、気まずい雰囲気が流れたりした。それこそ、友情の危機になりかけたとき、正人が俺に告白してきた。ただ、淡白に「好きになっちゃったんだけど」と言われて、嬉しいのと恥ずかしいのが混じって、俺は頷くことしかできなかった。そっから、俺たちは付き合い始めた。高校3年の夏だった。
 大学も同じところへ行き、大学3年から同棲を始めて、就職場所は違うところにしたけど今日まで大したケンカもせず、順調に付き合っていた。ずっと一緒にいようねと約束して、正人は俺にべったりだった。何をするにも俺の傍に居て、7年も一緒に居るのに正人の態度は高校の時と全然変わらなかった。
 ずっと一緒にいようねと言った約束が、今さら、胸に沁み込んできた。泣きそうになって、手の甲で目を拭う。幽霊になっても泣いたりすることが出来るんだ。しみじみ、そんな関係ないことを思った。
 正人が冷静さを取り戻したのは、休憩室に入ってから30分後のことだった。目を真っ赤にして上司を見て、「すみませんでした」と謝る。隣に居た年配の上司は「良いんだよ。何か、あったの?」と少し気まずそうに尋ねた。正人は唇を震わせながら、泣くのを堪え「恋人が……、事故にあって亡くなったそうです」と小さい声でそう言った。上司は数秒固まって、正人の背中を撫でると「落ち着くまで、休んで良いよ」と優しく言った。
 目から、涙がこぼれおちたのを、俺は見逃さなかった。
 正人は上司から荷物を受け取ると、俺と一緒に住んでいた家に帰った。正人は玄関に入るなり、「俊介!」と俺の名前を呼ぶ。何度も何度も、俺の名前を呼んでその場に崩れた。
 俺はここにいるよ。
 そう言ってあげたかったけど、正人には聞えないだろうし、聞えたとしても実体が無いから抱きしめてあげることも出来ない。そんなの、もっと辛くさせるだけだ。だから、俺は何も言わずに、悲しみに暮れている背中を見つめていた。
 正人は少し頭の足りないところがあって、泣きつかれてしまったのか廊下で寝てしまった。コロンと転がった体に近づいて、涙で濡れている頬に指を当ててみる。見事に通り過ぎてしまい、かすかに透けている自分を見てがっかりした。
 触れることも出来ない。もう、抱きしめてあげることも出来ない。俺が悲しみを与えてしまったから、慰めることも出来なかった。

 翌日、俺の通夜に正人は向かった。フラフラとした足取りだったけど、喪服はちゃんと着て、風呂にも入ったし髭も剃っていた。完全にやつれきっている顔をしていたけど、式場に着くなりに正人は拳を握りしめてしゃきっとした顔をしていた。記帳し、列に並ぶ。その姿は凛としていて、昨日の晩まで泣いていた奴とは思えなかった。
 焼香を終えてから、正人は一般席に座ってずっと前を見つめていた。俺の遺影がちょっとダサかったのが気に食わなかったけど、かなりの人数が来てくれていた。中には数人、泣いてくれてる人とかも居て、何だか居たたまれなくなった。読経の声が部屋に響いていて、このまま俺も居なくなってしまう気がした。
 通夜は無事に終わり、正人は母さんや父さんと話してから、会場が暗くなったと言うのに未だに一般席に座っていた。ジッと俺の遺影を見つめて、何時間もその場所に座っていた。時たま、お線香が無くならない様、母さんや父さんが会場の中に入って、正人なんて居ないようにふるまっている。母さんや父さんは俺が正人と仲良いことを知っている。さすがに付き合っているとは言えなかったけど、親友以上の関係だと言っていたから気を遣ってくれたんだろう。母さんも父さんも、少し目が赤かったような気がする。みんな、俺のために泣いてくれているのかと思うだけで、胸が締めつけられた。
 一人ポツンと座っている正人の隣に座ってみる。俺がこんなところに居るのを、正人は知らないだろう。俺の実体は遺影の下にあって、もう心臓は動いていないのだから。本当にこのままで良いんだろうかと思ったとき、正人の隣に誰かが立った。
「大丈夫ですか」
 俺と正人が一斉に横を見る。正人の隣に立っていたのは、今から1時間ほど前まで経を読んでいた僧侶だ。爺さんかと思いきや、俺とそう年も変わらない青年だった。髪の毛は短く刈っていて、顔はびっくりするぐらい整った美形だ。
「……え?」
「泣くの、我慢してるんじゃないんですか」
 正人の感情を読み取ったかのような、言い方だった。初対面の人間にそんなことを知られた正人は「……そんな風に見えますか?」と、悲しげな笑みを浮かべる。なんだか、少しイライラしてきて、俺は唇をかみ締めた。
「泣きたいときは、泣いて良いと思いますよ。きっと、後で後悔する」
「もういっぱい後悔しましたよ」
「今以上に、後悔しますよ」
 少し強めの口調で、僧侶がそう言った。それに揺さぶられたのか、今まで耐えていた防波堤が決壊したように正人は声を上げて泣き始めた。名前を何度も何度も呼んで、棺桶の前まで走り、その場で泣き崩れていた。僧侶は正人の背後に移動し、正人の背中を無言で撫でている。そんな二人の姿を、俺は後ろからジッと見つめていた。
 正人が泣き止んだのは、それから1時間後のことだった。線香をやりにきた母さんがびっくりした顔で二人を見つめ、「どうしたんですか?」と話し掛けたところで、正人が顔を上げた。大泣きしていたせいか、頬は涙でぐしょぐしょになり、鼻水まで垂れていた。ヘタレで優柔不断なくせして、変に頑固で、カッコイイ時は超カッコよかったんだ。男前が台無しだ。
「え、あ、……死んだの、受け止め切れなくて」
「そうなんですか……。こんなに泣いてくれるなら……、喜ぶと思いますよ」
 母さんは弱々しい笑みを正人に向けて、線香を焚くと、静かに会場から出て行った。また僧侶と二人きりになった正人は、スーツの裾で涙を拭い「なんか、恥ずかしいところをお見せしてしまってすみませんでした」と頭を下げる。僧侶はにっこりと笑って「良いんですよ」と答える。その笑顔に何か裏がありそうだと、俺は思った。
「泣いてあげることが弔いになるわけじゃないですけどね」
 正人はそう言って、俯いた。泣いてくれることは嬉しいけれど、悲しくもある。それを見てしまっている以上、俺は何も言えなかった。ただ黙って、二人を見つめる。すると、僧侶が振り返って、俺を見た。ばっちり目が合って、僧侶の口元だけが歪む。
「確かにそうですね」
 僧侶には俺の姿が見えているんだ。不気味に笑って、俯いている正人の手を取り、近くにあった椅子に座らせた。何をするのか分からないけど、無性にイラつき、俺は僧侶を睨みつけた。カタカタと、祭壇が揺れて飾ってあった果物がゴツンと落ちる。
「え……」
 それに驚いた正人が顔を上げて、落ちたバナナを見つめる。
「置き方が悪かったんでしょう」
「……そう、ですよね」
 希望を抱いていた目が、一気に落胆する。正人は俺が幽霊でも良いから、一緒に居てほしいと思ったんだろうか。正人がそう望むなら、俺と一緒に居たいと望むなら、近くに居てあげたいと思った。だって、正人は俺がいなきゃダメなんだから。俺が居ないと、アイツは生きていけないに決まってる。
「今日はずっとここに?」
「えぇ……、近くに居たいんです」
「じゃぁ、これを持っていてください」
 僧侶は着物の中から何かを取り出し、正人にそれを手渡した。手渡したものはただの数珠だったけど、なんだか邪悪なものに見えて気持ち悪かった。そんなものに触れたら、正人が穢れるんじゃないかと思って近づこうとしたら、僧侶に睨まれた。俺の方をジッと見つめて、近づくなと言っているように見えた。
 ムカつく。
「じゃぁ、私はこの辺で失礼します」
 正人がその変な数珠を受け取ってから、僧侶は正人に背を向けた。
「あ、ありがとうございます!」
「いえいえ」
 僧侶は顔だけ正人に向けて、仄かに笑い会場から去っていく。俺の隣を通り過ぎたとき、「ちょっと来い」と呟かれ、俺は渋々、その僧侶の後をついていった。式場から出て僧侶は着物の中からタバコを取り出し、俺の姿を見て笑った。
「アレ、恋人か?」
 普通の人間に話しかけるように、僧侶は俺に話しかけてきた。俺が死んでから2日目。ようやく俺の存在を見つけてくれた奴に出会い、俺はちょっとだけ嬉しかった。通り過ぎていく人は、俺の存在になんて気付かず、いつも通りの生活を送っていく。それほど虚しいものはなかった。だから、こんなにも嬉しかったんだと思う。自然と顔が綻ぶのが分かった。
「……そ、そうだけど」
「すげぇ大泣きしてたな。通夜やってんときから、ずーっと泣くのを堪えて、無理してんのバレッバレ」
 僧侶はタバコを口に銜えて、火をつける。一帯に煙が舞い上がり、俺はその煙から少し離れた。なんか、坊さんってタバコも酒もやらないイメージが強いだけに、何か妙な奴だった。
「良かったな、いい奴と出会えて」
「……え」
「あんな棺桶のまん前で大泣きしちゃう奴だから、不安かもしれないけど。アイツはアイツで大丈夫だ」
 なんだか、話が良く分からなかった。彼のことを良く知った風に言うのが、腹立つ。今日会ったばかりの初対面なのに、どうしてコイツは彼のことをこんな知った風に言うんだろうか。俺のほうが長い間、一緒に居たし、俺のほうが彼のことを何でも知っている。彼は、俺が一緒に居なきゃダメなんだ。
「知った風に言うな!」
「うるせーなぁ、怒鳴るな。お前が怒鳴ると、色んなのに影響する。仮に、納得いかなくてお前がアイツの傍にいるとしよう。何が出来る? 死んだ奴が、生きてる人間に何をすることができる?」
 面倒くさそうにそう吐き捨て、僧侶は近くの花壇に腰を下ろした。コイツの言うとおり、俺が彼に出来ることなんてなんも無い。何も無いことは分かってるんだ。だけど、一緒に居たいと願ってくれているから、俺は傍に居たいと思った。
「傍に居てやるだけだ」
「あーあー、そういう面倒なやつに限って、色々してあげたくなっちゃう悪霊タイプになるんだよなぁ」
「あ、悪霊だと!?」
 過剰に反応した俺が面白かったのか、僧侶はゲラゲラと笑っている。悪霊ってどういうことだよ。俺は生前、カワイイタイプだったんだぞ。女の子達にだって「化粧したら映えそう!」とか言われたんだからな。
「俺みたいなカワイイ子が悪霊になんかなったりするか!」
「あ、コレはウザイタイプだ。自分でかわいいとか言ってんじゃねぇよ」
「うるせー! 本当に可愛いんだからしょうがねぇだろうが!」
 そう言うと僧侶は俺の顔をジッと見つめて、「タイプじゃねぇな」と興味無さそうに言った。タイプじゃないってどういうことかよく分からないけど、バカにされてることは良く分かった。彼はいつでも、俺が他の誰かに攫われないか不安がっていたんだぞ。
「どっちかって言うと、お前みたいなタイプより向こうのほうが断然タイプだな。邪魔する奴も死んだことだし」
「は!? どういう……」
「ってことで、人の恋路を邪魔しないでくれ。早く成仏しろ」
 笑っているわけでもなく、茶化しているわけでもなく、僧侶は真面目な顔をしてそう言った。彼が、コイツのタイプだと? そんなの許せない。絶対に許さない。俺のことを忘れるなんて、絶対にダメだ。
「そ、そんなこと……」
「させたくないってか? でも、現実を見ろ。お前はもう、死んでいるんだ。この世にはいちゃいけない存在なんだ。そんな奴がこんなところに残っていたら、どうなるか分かってるのか? お前だって、心霊スポットとか、怖い話とか聞いたことはあるだろ?」
 そう言われてから、俺はコイツに言われた言葉を思い出した。そう、悪霊と言う言葉だ。俺が悪霊になるなんて考えられない。絶対、そんなものにはならない。
「有り得ない。俺が悪霊だなんて……」
「葬式が終わって、告別式が終わり、遺体が焼き終わるまでに成仏できなかったら、ヤバイな。悪霊になりかける。49日までに成仏できなかったら、完璧な悪霊になる。これはもうお祓いとかしないといけないレベルだ。そんなのがこの世にはごちゃごちゃ居るけど、祓われるのは苦しいぞ。自分で成仏できるのが一番楽で、心地いいらしい。でも、この世に悔いが残っていると、成仏なんて出来ない。お前をこの世に縛り付けているのは、もちろん、恋人の存在だ」
 僧侶の言葉が、右から左へ流れようとしていた。言っていることが信じられない。俺が、俺が悪霊になるなんて、絶対に有り得ないと思っていた。
「ん、お前、俺の言ってること、信じてないな。悪霊になると、生前のことを忘れる。ただ憑いているその人のことしか考えられなくなるんだ。……お前さ、今、自分の名前を思い出せるか?」
 俺の名前を忘れるわけない。そう思っていたのに、俺の名前が頭の中に出てこなくなった。そう、彼の名前すらも、俺は思い出せない。俺は一体、何で死んでしまったのだろう。俺は、死んだことすら忘れかけていた。
「自分の存在すら忘れかけているお前が、アイツと一緒にいるつもりか? それはただ、アイツを苦しめるだけになるぞ」
「……でも、だって。ずっと、一緒にいるって……」
 変わりつつある自分が悲しくて、死んでしまったことが悔しくて、涙が出てきた。どうして、俺はもっと長い間、彼と一緒に居てあげることが出来なかったんだろう。好きだったんだ。ずっと、好きだった。だからこそ、忘れられるのが悲しい。俺のことを、忘れないでほしかった。
「わざわざ、棺桶にしがみ付いて泣いてくれた奴が、忘れたりするわけねーだろ」
「……本当かよ」
「あんな号泣する奴、滅多にいねーぞ。相当、好かれてたんだな。…………落とすの大変そうだなぁ」
 ボソッと呟いた言葉に、今までの感動をぶち壊された気がした。コイツが彼を誘惑するのはまだ許せそうにないけど、コイツだったら彼を幸せにしてくれるんじゃないかと、希望を抱くことが出来た。俺は消えてしまう存在だから、彼の幸せを祈ることしか出来ない。
「お前、いつもこんなことしてんの?」
「あ? こんな面倒くせーこと毎回するわけねーだろ。ひっさびさに好みの奴を見つけたと思ったら、悪霊になりかけの霊が背後にくっ付いてるから除去しようと思っただけ。邪魔だし」
「こ、こんの、生臭坊主!!」
「僧侶がみんな、いい奴だと思ってたら詐欺師に引っかかんぞ。良かったな、騙される前に死んで」
 ニコニコと笑みを浮かべている僧侶を見て、文句言う気も失せた。少なからず、コイツのおかげで俺は悪霊にならずに済んだわけだし。彼らがこれからどうなるかなんて、俺には分からないことだけど、彼だけで良いから幸せで居てほしい。
「うるせぇ。アイツはなー、俺のことを好きで好きで仕方なかったんだからな。そう簡単に落とせるわけない」
「だろーな」
「でも、なんか、お前だったら大丈夫な気がする。ありがとう、気付かせてくれて。あいつだけは、これ以上、苦しめたくなかったから」
 自分の体が軽くなるのを感じた。ああ、俺もこの世に悔いがないから、消えていくんだと悟る。忘れないで居てほしいけれど、そう願うのは身勝手すぎるからやめた。
「最後にアイツのところ、行ってやれよ。多分、また泣いてるだろうから」
「うん」
 僧侶に笑みを向けて、俺は彼のところに戻った。一瞬で彼のところに行けるのは便利だと思ったけど、そんな考えも俯いている姿を見たらすぐに消え去った。肩が震えていて、泣いているのが分かる。
 俺は彼の前に立つ。
「……、……け」
 彼は小さい声で、何かを呟いている。声が上手く聞き取れなくて、俺はしゃがみ込んだ。彼の顔を見上げると、目から大粒の涙が零れ落ちていて、喪服は涙と鼻水で汚れていた。こんなにも泣いてくれる人は、誰も居ないだろう。最後の力を振り絞って、俺は彼に抱きついた。
「……俊介」
 俺の名前が聞こえた。
「好きだったよ、ずっと」
 声が震えていたけど、しっかり聞こえた。俺は堪らなくなって、彼と同じように泣き出してしまう。
 俺も好きだった。
 大好きだった。
「……俺もだよ、正人」
 やっと思い出せた名前を呼んでも、正人には聞こえないだろう。けど、それで良いんだ。俺はもう、消えてしまうのだから。
「好きだったよ」
 そう囁いて、俺は正人にキスをする。もうこれで、俺は悔いも何も無い。自分の体が光り、空へと浮いていくのが分かった。正人の体が遠ざかっていく。
 ふと、正人が顔を上げた。
 一人でも大丈夫だよ、と、俺に笑いかけているように見えた。

幽霊の日ってことで。
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