越えられない壁
恨み続けることが、僕に与えられた罰だ。
ある日突然失ってしまうぐらいなら、最初から幸せなんて知らなければ良かったと思った。憎み続けるのも面倒になった頃、目の前に新しい男が現れた。彼の弟だと言う。弟もどうせ彼と一緒なんだろうな、と思ったけれど、もう諦めていたせいもあって、なんとも思わなかった。
生きる希望を与えられるのは非常に辛い。
愛する人と結婚をして、その人との間に子供が出来て、裕福な生活はさせてあげれなかったけれど、とても幸せだった。一日、一分、一秒がかけがえの無いものへと変化する。子供と同じように怒られてばっかりだったけれど、怒ってくれるのは彼女しかいなかった。親や兄弟からは落胆されて、自分の存在価値なんてちっぽけだと思っていたけれど、彼女はそんな僕を認めてくれた。とても大切だったのに、顔がぼやけて思い出せない。それが苦しかった。
いっそのこと、死んでしまいたかった。
「息子に、全てを話したんだ」
そういうと彼はとても驚いた顔で僕を見つめ、数秒後に「本当ですか?」と聞いた。
「うん」
「黙っておくつもりだったんじゃないんですか」
「もちろん、そのつもりだったよ……、うん」
原因は自分がポロリと余計なことを口走ってしまったからだが、言いにくくて言葉を濁していると壁の向こうから白々しい視線が向けられる。
「どうせ、嵐さんのことだ。余計なこと言っちゃったんでしょ」
「え、何で分かったの!」
「やっぱり」
状況まで予想できたのか、彼は面白そうに笑う。そんな笑顔を向けられるたびに申し訳なくなって、急に胸が苦しくなる。自分があんなことを言わなければ、彼はこんなところに捕らわれなかったはずだ。自分と代わった彼の元へこうして度々来るのは、ただ会いたいのではなく贖罪なのかもしれない。
「それでそのお兄ちゃんはなんて?」
「複雑な顔をしてたよ。普段はつんけんしてるけど、根は優しい子だからね。こんな話をしたら、背負わせてしまうんじゃないかなって思ったけど、あの子もあの子で色々悩みがあるみたいだから気にしてないかも」
「へえ、また悩んでるんですか」
「そういうところも美空さんに似てるんだよねぇ。何でも抱え込んじゃう」
「嵐さんとは全く似てないですもんね」
「しっつれいだな! 僕と晃はそっくりって有名なんだから!」
「見かけだけでしょ」
父と母、どちらに似ているかと聞かれれば、晃は確実に父だと言われていたはずだ。だが彼の中身を知っている人は決して僕だとは言わない。僕は弱くて脆い人間だった。ただゆらゆらと周りに流されて自分の意思なんてどこにもなかった。
「わたし、アンタのその笑い顔嫌い」
心にもない笑顔を向けると美空さんはそう言って僕から目を逸らした。周りのみんなはちょっと笑顔を向ければ、僕に優しくしてくれるのに美空さんだけは特別だった。
「何で?」
「だって目が笑ってない。楽しいなんて思ってもないのに笑うな」
そう言われたのは中学三年の春だった。習い事ばかりさせられその殆どに才能がないと分かると、両親は僕を出来損ないと判断して放置した。人より学力が劣っていた僕は、兄が通っていた私立の高校へ通うのが決められていた。エスカレーター式で、ほとんどの人は幼稚園の頃からその学校に通っていた。兄も例外ではなかった。
「ねえ、嵐。嫌なことはちゃんと嫌って言わないと、誰かには伝わらないのよ。いくら親でもね」
「分かってるよ、美空ちゃん」
「だから楽しいと思ってないのに笑うな」
ペシンと頭を叩かれる。僕のことを考えてくれるのは昔から彼女しかいなかった。
「おーい、美空。何やってんだよ」
遠くから見慣れない男が馴れ馴れしく名前を呼ぶ。僕ですら呼び捨てなんてしたことなかったのに、あっさりとそう呼んだ男に仄かな怒りが沸く。
「……はぁ? ちょっと、呼び捨てしないでって言ったでしょ」
美空さんは先ほど以上に不満そうな顔をして振り返る。態度もかなり悪くて、肩に手を回そうとした男の手を思いっきり叩いた。
「いいじゃねぇか。ちょっとぐらい」
「良くないわよ。それで、何か用?」
「遊びに行こうぜ」
「イヤ」
しつこく誘ってくる男を美空さんは頑なに断り、根負けした男は「またの機会にな」と言って去って行った。美空さんは舌を出して「またなんかないわよ!」と叫ぶ。
「……誰? 今の」
「クラスメート」
素っ気ない返事は何かを隠していた。それを問い詰めようと思って「あのさ」と話しかけると「あのさ」と声を被せてきた。明らかに話題を変えようとしていたので、僕はにこりと笑ってしまう。さっき怒られたあの笑顔を向けてしまう。
「だからその顔やめてって言ってるでしょ」
じりじりと焼けつくような焦燥が僕の思考を支配する。それを美空さんに悟られたくなくて、怒られているのにへらへらと笑ってしまう。感情を隠すために笑っているのを、美空さんは知っていた。だから僕にそれをやめろと言ったのだろう。
結局、僕は親に嫌だと言わず、言われるがままに進学した。外部から入ってきた僕を最初こそは疎んじていたようだが、元々そんなもの気にしない性格だから打ち解けるのは早かった。
高校に入って少し経つと、美空さんと会う回数が減ったのに気付いた。中学は近くだったので道を歩いていれば顔を合わせていたけれど、高校は距離があるからなかなか会えない。それに美空さんは受験生だから忙しそうだった。
これまで約束もせずに会っていたせいで、今更、会おうと言って会うのも気恥ずかしくなる。会えないのももどかしい。ぐるぐるとそんなことを考えているとき、僕は道端で美空さんが男に告白されているのを見てしまった。
美空さんはあっさりと断っていたけれど、その断り方がどこか慣れていたのが気になった。これまで彼女の見てくれを客観的に判断したことがなかったから分からなかったけど、クラスの女子よりも断然美空さんは綺麗な顔をしていた。
それは贔屓目なのかどうか、僕には分からない。初めての感情だった。
僕には二つ年上の兄が居た。兄は僕なんかよりも頭が良くて利口だった。そんな兄を嫌いだとは思わなかったけれど、何もできない僕を兄は疎んでいるようだった。まあ、そんなことは正直、どうでも良かった。兄は美空さんと同い年で二人もまた僕と同じように幼馴染だった。ただ兄は美空さんと同じ学校に通っていなかったから、顔見知りなだけで仲が良いとは到底言えないのだと、僕は思っていた。
兄は端正な顔をしていたから、美空さんと並ぶとお似合いだった。美空さんは珍しく笑いながら話していて、普段、仏頂面の兄も心なしか笑っているようだった。二人を見ていると心がざわつく。カバンを握る手の力が強くなる。美空さんが誰に向かって笑いかけようとも一向に構わない。けれど兄だけは許せなかった。何をやっても勝てない兄に美空さんだけは渡したくなかった。
「あ、嵐。久しぶりね。そう言えばさっき……」
「あのさ」
「ん?」
近辺で一番頭のいい学校に通っている美空さんは僕なんかよりもふさわしい人が居ただろう。
「僕と付き合ってよ」
「は?」
「僕ね、美空ちゃんのことが好きみたい」
美空さんは噴き出して腹を抱えて笑い、それから「いいわよ」と言ってくれた。どうして僕の気持ちを受け止めてくれたのかこの時はよく分かっていなかった。もしかしたら僕が今までにないぐらい必死な顔をしていたからかもしれない。
美空さんは受験生だったから付き合い始めてからそんなに遊べなかった。受ける大学は合格圏内だったらしいけれど、受かるまでは安心できないと言って真面目に勉強していた。会える時間は相変わらず少なかったけれど、僕たちの付き合いは順調だった。美空さんは一度も僕を好きだとは言ってくれなかった。でも僕を見てよく微笑んでくれた。だから好きと言ってくれなくても十分だった。それに好きでなかったら付き合ってくれなかっただろう。
兄と美空さんの関係は、友人なのか、それ以上なのか分からない。僕もわざわざそんなことは問い詰めなかったし、今、美空さんと付き合っているのは自分だと言い聞かせた。これは嫉妬なのか、それとも兄に対する敵対心なのか。
「おい、嵐」
兄の声が聞こえて振り返ると、かなり難しい顔をした兄は高いところから僕を見下ろしていた。
「何?」
「お前、美空と付き合ってるのか?」
どうしてそんなことを兄が聞いたのか、分からない。なぜ、知っているのかも。一緒にいるところは小さい頃から何度も見ていたはずだし、それらしい雰囲気をこの近辺で出したことはない。
「うん」
黙っていようとは思わなかったから素直に頷いた。僕を見下ろす兄は表情一つも変えずにこういう。
「お前じゃ、美空は幸せにできない」
「けど、彼女が選んだのは、僕だよ」
「不幸にする前に、別れろ」
今、思えば、兄の言っていることは間違っていなかった。身近に危険な人物がいると知らず、こんなことを言われて腹立った僕は美空さんに迫って既成事実を作った。兄に負けたくなかった。嫉妬なのか、敵対心なのか。そして高校三年の夏、美空さんが大学二年の時、僕の子供を身ごもった。わざとではなかったけれど、こうなってもいいと思っていたから、純粋に嬉しかった。
それを両親に伝えると、父からは殴られ、母には泣かれた。兄は無表情で僕を見ていた。美空さんも両親から堕ろせと言われたらしいが、彼女は頑なに拒否して僕と結婚することを選んだ。絶対、幸せにしてやろうと、家族のためなら何でもできると思っていた。
最初は兄に対する敵対心だったかもしれない。それでも美空さんがかけがえのない人であるのは昔から変わらなかった。
障子が閉められた部屋は日中なのに薄暗い。布団の上で寝転がりながら、昔を思い出した。これは兄が掛けた呪いなんではないかと思ったけど、自業自得だ。人のせいにするにはあまりにも愚かすぎる。
けれど兄の言っていることは間違っていなかった。僕は最終的に美空さんを不幸にしてしまった。こんなところに閉じ込められて、見張りが無ければ外にも出れなくて、男なのに男に犯されて、無意味に生かされている。
僕を生かしている人物にとっては意味ある行動なんだろう。もう死にたいとも思わなくなっていた。
「おい」
声を掛けられて視線だけ向ける。わざわざ動くのも面倒くさい。お前がこれからどこへ行こうとも、僕には全く関係のない話で好きにしてくれたらいい。どうせここからは出れないんだ。僕から幸せ全てを奪った男はのうのうと今日も生きている。
「………………何」
「今日から一人、人数が増える」
「へえ」
誰がこの家に来ようが僕には関係ない話だ。結婚すれば終わると思っていたこの行為も、未だにずるずると続けられている。こんな男の奥さんは本当に可哀想だ。あぁ、それは両方に言えることだ。
「そう言えば、たまたまこんなものを手に入れた」
秋月は僕の目の前に何かを落とす。ひらひらと落下してきたそれは写真で、男と女が写っていた。何となく拾って写真を見る。僕の両目が大きく見開いた。
「そろそろ離婚届でも送ってやったほうがいいんじゃないのか? 届けてやるぞ」
秋月の言葉が右から左へと流れていく。女は美空さんだ。そろそろ十年ぐらい経つのにあまり変わっていない。ただかなり疲れた顔をして体も細かった。そして一緒に写っているのは僕の兄だった。二人とも重たい表情をしているから、どうせ僕の話をしているに違いない。この状態は紛れもなく自分のせいだと分かっているのに、心の奥底から熱い感情が込み上がってくる。兄はまだ結婚もせず、一人でいると耳に挟んだ。やはり兄も美空さんが好きだったのか。やっぱり僕は美空さんと結婚しないほうが良かったのか。
それでも秋月の誘いには乗れなかった。僕が離婚届を書かない以上、美空さんの夫は僕だ。それだけが繋がりだった。
写真をじっと見つめる。十年以上も会っていない二人は年相応の顔で、相変わらず並んでいるとお似合いだった。ふと美空さんに告白した日を思い出して胸が苦しくなる。兄だったら美空さんを幸せにできただろうか。おそらくできただろう。生活が苦しくて憔悴しきった顔なんてさせなかった。
秋月から解放されて、兄と顔を合わせた。どこから情報を手に入れたのか、いきなり僕の家にやってきた。兄は怒るわけでもなく、ただ一言「どこへ行っていた?」と尋ねた。その言葉から、彼なりに僕を心配してくれたのだと知る。年を取れば嫉妬とか敵対心とかどこかへ消えてしまい、僕はひたすらに申し訳なく思っていた。
だから兄には正直に話した。秋月に攫われて、これまでずっと監禁されていた、と。兄は目を伏せて「そうか」と言い、それ以上は言わなかった。今更、僕を責めたところで何も変わらないと知っているからだ。
五年前に、僕の両親は揃って病死した。晩年は僕のことを少しは気にかけて、一度も会えなかった孫に会いたいと言っていたらしい。まあ、兄が結婚しなかったことのほうが、両親にとって大打撃だっただろう。
「美空から写真を貰っていた。それを大事にしていたぞ。だから最後は一緒に焼いた」
「ええ、それ、僕も欲しかったよ」
子供の成長を目にできなかった僕としては複雑な気分だ。
「自業自得だ」
「……そうだけどさ」
「俺は何度も美空に金の援助をしようとした。だが美空は頑なに拒んだ。俺に頼るのは、嵐を裏切ることになるって言ってな」
「え、どういう意味?」
苦しかったんだから、頼ってしまえばよかったんだ。兄だったらかなりのお金を持っているわけだし、子供たちだってちょっとは楽に生活できたのではないだろうか。
「美空はお前が俺に嫉妬していると気付いていたんだ」
「え……、えぇええ!!」
「中学の頃、美空に告白した。お前が好きだから、付き合えないってフラれてたよ。最初からお前の完全勝利なのに、勝手に嫉妬するなんて、本当にバカだな」
「ちょ、ちょちょ、ちょっと。何で今更、そんなこと暴露すんの!?」
「今だからだ。あと、これ、墓の場所の地図だ。ちゃんと毎日墓参りに行って、毎日美空に謝れ。それがお前に出来る償いだ」
兄がどんな気持ちでこんなことを言ったのか分からない。それでも今になって美空さんがかなり昔から僕を好きで居てくれたとしって嬉しかった。ボタボタと涙が紙の上に落ちる。
「これからどうするんだ? 子供と一緒に住むのか?」
「ううん。断られた」
二十二年間もほったらかしにしていたんだから、晃の選択は間違っていなかった。まあ、この家に引っ越した時に、桜と旭に会ってしまって、彼の言いつけを破っているところだが。
「虫のいい話だし、一緒に住もうとは思わない」
「そうか。まぁ、時たま様子を見に来るから、掃除とかしっかりやれよ」
「こ、子供じゃないんだから大丈夫だよ。なんか兄さん、小姑みたいだよ」
目元をごしごしと擦って少し笑っている兄を見る。昔から仲のいい兄弟ではなかったけれど、年を取ればこうも変わるのか。なんだか不思議な気分だった。
僕は秋月が死ぬ瞬間を見ている。
拳銃で撃たれた秋月は僕に向かって手を伸ばして縋ろうとした。僕はその手を無視して、彼の体から流れ出る血を見つめていた。徐々に広がる赤い水たまりは何だか血だとは思えなくて、秋月に足首を掴まれてようやく意識が彼に向いた。
徐々に弱っていく手の力を足首で感じて、色んなものが流れた。
「あ……、あ、ぁ……」
秋月が何を言おうとしているのか僕は分からない。しゃがみ込んで焦点も合わなくなりかけている秋月の目を見つめる。
頭が悪くて、体力もさほどなくて、仕事をしても長続きしない僕が、家族を持とうとしたこと自体、間違っていた。
それでも一番悪いのは秋月だ。
「僕は一生、秋月を恨み続ける」
そう言うと秋月は嬉しそうに笑って目を閉じた。
僕は一生、秋月を恨み続けるだろう。けれどそれは秋月を忘れないと言う意味であり、彼にとってそれが唯一の報いだ。
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