不確かな確約


 直向に頑張る姿は認めるけれど、彼には才能が無かった。どんなに努力しようとも、才能がゼロなら何を掛けようとも答えはゼロだ。諦めの悪さと頑固さは人一倍の彼に、誰も現実を教えようとはしなかった。
 役者になる、と言う一端の夢だけを持った人たちが集まるこの劇団では、次々と現実を知ってここを去っていく。その中で昇っていこうとするなら、がむしゃらに頑張るしかない。努力が実らず生気を奪われる人もいれば、努力が結果に現れて生き生きとする人もいる。俺はこの中でも成功者の道を歩いていた。
 身長は平均よりも十センチ以上高く、筋トレはもう何年も続けているから体格も人並み以上に良い。自分で言うのもなんだが、才能はそれなりにあった。小さい頃からこの世界で生きてきたから、生き残れないはずがなかった。才能が無ければ、十年も続けることは出来ない。映画にも出たことがあるし、ドラマも何本か出演したことがある。そして今回は一回限りの小さな舞台だが、その主演を貰った。俺の名前を知ってる人は世の中に何人居るだろうか。道を歩いていて声を掛けられたことは数回あって、サインを求められたりなんかもした。けれど好きな俳優と聞かれて、俺の名前を出す人は少ない。そこまでの知名度はまだ無かった。
 そんな俺と比べて、彼、岡谷はエキストラで出演した回数は三桁を超える悪い意味のベテランだった。今回、俺が主演をする舞台でも、岡谷は脇役として出演する。セリフはほぼ無かったと思う。
 男としての魅力はさほどないけれど、岡谷は素直で率直だった。曲がったことと陰口が大嫌いで、人と衝突することもしばしばあった。そして誰よりも演技が大好きで人並み以上に頑張っていたけれど、どんなにオーディションを受けようとも最終選考まで残ったことは無かった。
 大体、十件以上オーディションに落ちると、人は自分の才能を疑い始める。にもかかわらず、岡谷は五十回連続で落ちようともめげることなく、今は何回落ちたのか数えてないから分からないと言い出す始末だ。その努力は認めるけれど、いつまでも無意味なことを続けてるのは愚かにも見えた。けれど岡谷は役者を夢見ることをやめなかった。
 その諦めの悪さが気に入っていた。
 岡谷は誰とも仲が良かった。それこそ二十年ぐらいこの劇団にいる人とも砕けて喋ったり、新人が入ってくれば率先して話しかけていた。入ってきたときから岡谷はそんな感じで、元々才能もなかったせいか嫌われたり僻まれたりすることもなかった。俺は十年以上この劇団にいるから、どんな役を取ってこようと表面上では文句を言うやつは居ないが、不満そうな顔をしているのは目にしたことがある。でも、岡谷は役を取ってきたと知ると、「良かったな」と俺に向かって笑ってくれる。
 報われないと分かる日が来るかもしれないが、いつまでもいつまでもこの劇団に居てほしいと俺はいつしか思うようになっていた。
 公演が近づくとともに、演技の指導も厳しくなっていく。毎日遅くまで指導が行われて、心身ともに疲れきっていた。更衣室でへたり込んでいると「こんなところで寝るなよ」と声が降ってくる。顔を上げると岡谷が立っていた。岡谷は俺の顔を見るなりに笑う。
「お疲れ。ほらよ」
 手渡されたスポーツドリンクを受け取り、さっそく封を開ける。礼を言う前に、体が水分を求めていた。ペットボトルの半分ほど一気飲みしてから「ありがとう」と言う。岡谷は俺の対面に座った。
「気にすんなって。お前、一番頑張ってんもん。主演だもんな」
 役すら貰ってない岡谷に応援されるのは少し辛い。首を縦に振って、手持無沙汰にスポーツドリンクを口に含む。岡谷がこんなことを気にしないと分かっていても、自分の役をひけらかすようなことは出来なかった。
「お、岡谷は何で残ってるんだ?」
 俺と同じ時間まで残っているのは、舞台でも重要な役を貰った人か、もしくは劇団関係者だ。大手プロダクションであるうちの劇団には、いろんな人が出入りする。中には番組のプロデューサーだったりして、ここぞとばかりに顔を売る奴もいた。岡谷もその一人だ。
「ベンキョーだよ、ベンキョー。俺みたいなんは、お前みたいなのから技を奪うしかないの」
 岡谷は自慢げに言う。俺も昔はよく、人の演技を見て勉強したものだ。今だってそれは欠かせないし、やはり日本人のほとんどが知っている俳優なんかは演技力が断然に違う。俺なんかまだまだ足元にも及ばない。そんな俺を岡谷が見てくれてるのは、ちょっとだけ嬉しかった。
「明日も早いんだろ? さっさと帰れよ」
 追い出すような言い方だったが、悪い気はしなかった。俺のためを思って、そう言ってくれてるのは言葉で分かる。
「あ……、良かったらメシでも食べに行かないか?」
 何の気なしに誘ってみると、岡谷は面食らった顔をして、「うーん」と唸る。
「ワリーな。今日は大河内部長に呼ばれてんだよ」
 そっか。と言って立ち上がる。去年、統括責任者になった大河内部長は、若いのにかなりのやり手で業績を伸ばしていると噂に聞いた。俺らは夢に向かって走るのが精一杯だから、内情はよく分からない。ただ大河内部長に呼ばれるということは、どういうことなのかある程度想像が出来ていた。大役に抜擢されたとか、やめるように促されるか。岡谷の場合、後者だと思っていた。既に数人の関係者に、諦めるよう促されているのは知っている。それでも諦めの悪い岡谷は、それを頑なに断ってきた。
「また、誘って。お前が誘ってくるとか、超めずらしーし」
「……うん」
 子供のような笑顔を見せて、岡谷は走っていった。
 岡谷は入ってきた当初から変わっていない。明るく元気で活発で、竹を割ったような性格だ。レッスンがある日は誰よりも早くやってきて、誰よりも遅くまで残っている。レッスン料だってかなりの額だから、レッスンの無い日はほとんどバイトをしているらしい。寝食以外の時間は演技の練習だったり勉強だったり、毎日が演技詰めだ。実際、岡谷と同じような人がほとんどで、岡谷が特別だとは思わない。けれど人に諦めるよう言われても絶対に諦めないその志は特別だと感じていた。俺ならとっくに諦めているからだ。
 もちろん、俺だって入った当初は岡谷と同じように夢を持っていた。しかし十年も続けていれば現状が当たり前になり始めていて、役を貰ってもあまり達成感なんてなかった。けれど岡谷を見ていたら刺激されて、頑張ろうと思った。俺にはまだ才能があるからとか、そう言う理由ではなくて、こんなにも頑張っていて報われない人がいるのに、頑張ってない自分が結果だけ出ているのがイヤだったからだ。岡谷の全力で取り組む姿勢を見て、俺も昔の自分を思い出した。
 だから一方的にだけれど、岡谷には感謝をしている。岡谷の努力が報われる日がくれば良いなんて、そんな上から視線の確証もないことは思わないが、いつまでもこの姿勢は保っていてほしいと身勝手なことを考えていた。
 汗でびしょ濡れになったティシャツを脱いでいると、ブブブと何かの震える音が聞こえた。タオルで体を拭きながらその音源を探ってみると、さっき岡谷が座っていた椅子の上に携帯が置いてあった。おそらくだが、岡谷のだろう。大河内部長に呼ばれたと言っていたから、まだ館内にいるはずだ。すぐにティシャツを着て、更衣室を出る。
 冷房が切られたせいか、中はムッとしていて暑い。更衣室を出てから十分ぐらいは過ぎているし、話はそろそろ終わるかもしれない。そんなことを考えながら事務室へ近づくと、うっすら扉が開いているのが見えた。ぼそぼそと話し声が聞こえて、足が勝手に止まる。立ち聞きは良くないと思っていても、自然と耳は二人の会話へと向いてしまっていた。
「ん、ッ、……ぶ、ちょ」
 聞いてすぐに何をしているのか分かった。いや、違うだろうと訴える自分も居て、混乱はすぐさまやってきた。声とは違う肉のぶつかる音に、背筋が凍る。鈍器で頭を殴られたような衝撃は後から俺を襲ってくる。何をしているのか、なんて目にしなくても分かることだ。演技なんかではない、リアルな声だ。
「次の舞台では岡谷君がもうちょっといい役をもらえるように、上へ掛け合うからね」
「ん、は、ッ……。おねが、んっ……」
 口を押さえて、ずるずるとその場にしゃがみ込む。枕営業をして役を貰う人は少なくない。でもそれは異性に対してが多く、同性にしているなんて聞いたことも無かった。しかしこの業界ではゲイだのレズだの、同性愛者が多いとも聞く。岡谷がそうだったのか? でも、岡谷はこんなことをして役を貰うような奴ではないと、俺は勝手に思い込んでいた。
 役者になると言う夢を抱えた人間が、綺麗であるだなんて誰が決めたのか。
 才能がない岡谷が努力だけでは役を与えられないことぐらい知っていたのに、この現実を知って絶望しているのはどうしてなのか。
 岡谷はどんな役でも、エキストラだったとしても、喜んで引き受けた。仕事が舞い込んでくると大喜びで「ありがとうございます」と礼を言う。誰かが大役に抜擢されると自分のことのように喜んで、祝勝会をしようだの誘ってくる。レッスンをしているときは誰よりも真面目に話を聞いて、他人の指導ですらしっかりと聞いていた。一度言われたことは必ず覚えていて、他人のセリフだって覚えていることもある。今回の舞台だって脇役しかもらえなかったことを愚痴るわけでもなく、主演が俺だと発表されたときは俺よりも喜んで「すげぇな!」と言ってくれた。才能がないと言われ続けても、諦めたり絶対しなかった。今日だって岡谷の指導は俺よりも随分前に終わっていたのに、俺と同じ時間まで残っていた。誰よりも、もしかしたらこの世にいる世界中の俳優達よりも、演技に対して真剣だった。そんな岡谷が自分を売ってまで役をほしがっていたなんて、俺は知らなかった。
 いくら、才能が無いからと言って、わざわざ男と寝てまで役を取ろうとするなんて、岡谷らしくなかった。岡谷のことだから、実力で取ってなんぼ、とか言うのかと思い込んでいた。芝居に対して、誠実だから。
 枕営業をしたと噂のある人の話を聞いた時は苦虫をかみつぶしたような嫌悪が襲ってきたのに、岡谷には嫌悪を抱くことはなく、なぜどうしてなのかと疑問ばかりが浮かんだ。
 酷く動揺している意味が分からない。岡谷の秘密を知ってしまったからか。いつの間にか声は聞こえなくなっていた。
 かちゃ、と扉の開く音がして顔を上げる。逃げるにも逃げられない。岡谷が座り込んでいる俺を見て顔を顰めた後、一度は部屋の中を見て「じゃぁ、お疲れ様です」といつも通りの明るい声を出す。「あぁ」と大河内部長の声も聞こえてきて、岡谷は扉を閉めた。薄暗かった廊下は光源を失って、先まで見えない。シンと静まり返っている。出てきたのが岡谷だから、やはりさっきのあえぎ声は岡谷だったんだろう。実際の行為を目撃しなければ、違ったと思いこむこともできたのに現実はそう甘くない。俺を見下ろしている岡谷は、何も言わずに俺の腕を引っ張って無理やり立ち上がらせた。そのまま俺のほうなんか見ずに、更衣室へと連れて行く。
 投げるように押し込まれて、扉が音を立てて閉まる。今までに見たことも無いぐらい憎しみの篭った表情で睨まれた。俺はどんな表情が出来ているのか、定かではなかった。
「……立ち聞きかよ」
「そうじゃ、ない」
「そうじゃないなら、何であんなところに居たんだよ!」
 怒鳴ったと同時に、俺の手の内にある携帯電話を目にしたのか、ずかずかと近づいてきて奪い取る。
「……わざわざ待って無くても、あとで言えば良かったじゃねぇか」
 岡谷が握り締めた拳は、俺が見ても分かるぐらい震えていた。見られたくなかったのは分かっている。分かっているけど、どう弁解して良いのか分からなかった。あの場に立ち止まっていた理由は、俺のほうが知りたい。
「だれにも、いわないから」
「言いたいなら言えば良いだろ? 別に困ったりしねーよ。そうやって辛そうな顔されんのが、一番惨めなんだよ。自分に才能が無いことぐらい、ここに入ってきたときから知ってるっつの。知ってるか? 大河内って男好きなんだって。俺みたいな小柄で女顔が好きなんだってよ。だから俺、必死にアピッてやっと相手してもらってんだよ。ちょっとでも大河内に気に入ってもらえりゃー、役だってくれるかもしれない。エキストラじゃなくて、セリフの入った役ぐらいはくれるかもしれないって」
「そんなことしたって、意味なんか無いだろ」
「うるせぇよ! 分かってんだよ、こんなことしたって意味がねぇことは! お前みたいな、お前みたいな成功者に言われたくねぇんだよ! ……良かったな。うちのプロダクション、これからお前を大々的に売ってくってよ。今度はドラマの話が出てるらしいぜ? リハの様子を監督がわざわざ見に来るってよ。ほんと、羨ましい奴だよ。背もたけーし、体格もいいし、おまけに顔もよくって演技も上手い。俺が僻まないとでも思ってたか? ふざけんなよ。お前より何倍も何百倍も芝居が好きで、役者になりたくて、自分の体売ってまで役取ろうとしてんのに、だらだらと与えられた役を演じてきたお前が、ちょっとやる気出したらいとも簡単に主演とか持っていっちまう。こんなにも惨めな気持ち、お前に分かるのかよ? わかんねぇだろうが!!」
 どんどんと涙声に変わっていくのを聞いて、言ってはいけないことを言ってしまったんだとやっと悟った。直向で芝居には熱すぎるほどの情熱を向けていたから、そんな、人を誘惑してまで役を取ろうとなんて岡谷はしないと、俺が勝手に思い込んでいた。芝居に対して真っ直ぐだからこそ、何をしてでも役が欲しいんだ。そんな情熱、俺には持ち合わせてなかった。岡谷の言っていることは間違っていない。岡谷が来たとき、俺はちょろっともらえる仕事で満足してしまっていた。そんな俺がこれから大々的に売られて、ずっと頑張り続けている岡谷が報われないなんて、神様は不公平だ。
 分かっていたのに、今頃になって実感した。
「上に掛け合う、なんて、してくれねぇのは俺だって分かってんだよ。ただ俺の顔が好きで、体を弄繰り回したいだけだって分かってんだけど、役者になる夢だって諦められねぇんだから、仕方ねぇだろ。諦めようと思っても、どんなに辞めようと考えても、一度始めてしまったことをそう簡単に辞めることはできねぇんだよ。何も分かってねぇくせに、知ることもできないくせに、何であの場に居たんだよ。くそっ、…………お前だけには見られたくなかった」
 岡谷は一度だけ俺の胸をグーで叩くと、更衣室から出て行ってしまった。誰にも話したくなかったであろう本音を、喋らせてしまったことに罪悪感を覚えた。それでも岡谷に役を与えてやれるほど、俺も白痴ではない。
 岡谷が乱暴に閉めた扉を見つめていると、一筋の涙が零れてくる。ここでようやく、俺は岡谷のことを気に入ってたのではなく、好きだったのだと分かった。けれどこの淡くて苦い気持ちを岡谷には伝えようと思わなかった。この気持ちもまた、岡谷の夢のように報われないことだからだ。
 主演の舞台が終わった後、岡谷の言う通りとなった。あれから岡谷の姿は見ていない。

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