カタルシス


「まぁたね、フラれちゃったわけですよ」
「……そうなんだ」
 御猪口を口に付けて、自棄になって飲む姿は、確実に何かあったと匂わせていた。3歳年下の、後輩である白井健吾を見つめて、ビールジョッキを持っていた城島久志は項垂れている健吾を見つめた。テーブルに突っ伏しているせいか、スーツは皺くちゃになって、胸元には先ほど零した焼酎ロックのシミがついていて、口元には食べたカキフライのタルタルソースがくっついている。見ているだけでだらしのない奴だが、仕事も出来るし、この見た目から想像できないほどの男前である。そんな彼がフラれてしまったと言う話を聞いて、久志は相談に乗ってやっていた。
 うだうだと続く愚痴を聞き続けて、もうそろそろ5時間になる。本当だったら、鬱陶しいの一言で一蹴して、無視してやることも出来るのだが、久志には出来なかった。
 お人よしと言う性分もあるし、それよりも、覇気のない健吾を見ていたくなかった。愚痴ったことで少しでも元気を取り戻せるなら、久志は何時間でも愚痴に付き合うつもりで居た。健吾は常に活気があり、会社でも元気溌剌で、先輩である久志が言うのもなんだが、頼りになる存在でもあったのだ。そんな彼をふった奴が、仄かに恨めしく、そして、悔しくもあった。
「俺のね、どこが嫌いなんだーって聞いたらね、まず最初にコレですよ。セックスが下手くそ。どう思います? 先輩」
「……どう思うって聞かれてもなぁ。下手くそかどうかなんて、分かんないし」
 久志はきわどい質問をさらりと流して、ビールを口に含んだ。セックスが下手くそなんて良く本人を目の前にして言えるなと思いながら、目の前にあったきゅうりの漬物を摘んだ。そろそろグダグダとし始めて、解散となると思われたが、健吾は熱燗をもう一本注文して、居座る気が満々だった。明日は休みだし、飲みたいだけ飲ましてやろうと思った久志であるが、健吾がかなり酔っているのは見てとれる。その状態でまだ飲ますのは先輩としてどうかと思い、「その辺にしておけよ」と健吾を窘めた。
「無理ですよ。今日だけは飲んでないとやってらんない……」
「お前、彼女にフラれるたび、そうじゃないか……」
 彼これ、そろそろ4年ぐらいの付き合いになる久志と健吾だが、こう言った愚痴は何度も耳にしてきた。彼女にフラれると、健吾は必ず久志に愚痴り、ベロベロに酔っ払って、一人では帰れないぐらい潰れてしまう。それを家に連れて帰るのが久志の役目で、暗い顔をしている健吾を見るたびに、久志は酔えないのであった。
「ほんっとーにね、本当に。先輩にはお世話になってます!! アザーッス!!」
 大声で叫び、立ちあがって敬礼をした健吾に、久志は急いで立ちあがって「も、帰ろう。そろそろ店が閉まる」と言って、健吾のコートとカバンを持って店を出た。会計を全て済ませて、路上で座っている健吾を引きずり、久志はこの近くにある自分の家へと連れて行く。行きつけの居酒屋で飲むたびに、久志は自分の家に健吾を連れて帰るのだった。
 それが酔って帰る時のパターンのようになってしまっている。
 背が高く、そして久志よりも体格が良い健吾を、引きずって帰るのは非常に疲れ、家に着いた頃にはヘトヘトになってしまう。ベッドに健吾を寝かせて、久志は苦しくないようにとワイシャツのボタンを二つほど外した。
 シャツから見える胸板に、久志は欲を感じてしまった。ずっと昔から隠し続けていた感情が、酒のせいで露わになりそうで、急いで健吾から目を逸らした。
 健吾が好きだと気付いたのは、2年ほど前。4人目の彼女にフラれた健吾を慰めているときに気付いた。どうして、こんなに格好良く、男前である健吾をふってしまうのか、久志には理解できなかった。そこから渦巻くドロドロとした感情が嫉妬だと気付いた時、自然と健吾のことが好きなのだと思い知らされた。
 その感情を隠すように、久志は何度か女の子と付き合ってみたりして、全くその気になれないことを知ると、次はホモの集まる店に行ってみて、一晩の付き合いなどをして気を紛らわせていた。
 けれど、健吾を好きな気持ちは、一向に消えようとしなかった。
 ベッドに寝転がり、すやすやと眠り始めてしまった健吾を見つめて、久志はそっとベッドの隣に座り込んだ。固く強い髪の毛に触れて、酒のせいで熱くなった頬に指を落とす。酔った勢いと言うのもあって、その唇に唇を合わせてみた。
 深酒をしてしまっているせいか、健吾に反応は無い。唇が触れたことにより反応したペニスに右手を這わせて、扱き始める。こんなこと、可笑しい。頭が狂っていると分かりながらも、その手は止まらなかった。
「……んっ……」
 漏れてしまう声を抑えて、久志は口づけを続ける。上唇を舌で舐めて、隙間から舌を這わせる。熱を持ったペニスはすぐに立ち上がり、血が巡って固さが増した。ズボンのボタンを外して、パンツの中に手を突っ込んで、先走って濡れているペニスをそのまま触って、必死に扱いていた。
 こんなことを始めてしまったのは、つい最近のことだった。この前、7人目の彼女にフラれた健吾の愚痴を聞いて、今日と同じように酔いつぶれた健吾を家に連れて帰って来た時のことだった。
 ネクタイを外して、ワイシャツのボタンを二つほど外してやる。そして、そこから見えたキスマークに、激しい嫉妬を覚えた。色濃く残るその痣は、久志の自我を刺激してブチ壊してくれた。目まぐるしく回る感情に耐えきれなくなり、久志は健吾にキスをしてしまった。それから、こうして、自分を慰めるようにオナニーをしてしまったのだ。
 非常にはしたないことをしている自覚は十分にあった。
 けれど、寝ている相手にこんな恥ずかしいことをしていると言う倒錯した感情が込み上がってきて、病みつきになってしまった。
 バレたらタダでは済まない。そう、分かっていても、やめれるものではなかった。
「……け、んごっ……」
 唇を離して、久志はラストスパートをかけた。張り詰めたペニスは、ダラダラと汁を流してグチュグチュと音を立てている。熟睡してしまっている状態では、健吾は目を覚まさない。だから、久志は完全に安心しきっていた。
「……ん、ぁあっ……」
 ティッシュに出した精液を、茫然と見つめて、久志は「……何してんだか……」と独り言を呟いた。果てた後の虚無感は半端無く、どうしてこんなことをしてしまったのだろうかと、後悔の念に駆られた。こんなこと、健吾にバレたら、今まで親切で優しい先輩が音を立てて崩れて行くだろう。積み立ててきた信頼や全てを失うことに恐怖を覚えて、久志は急いで身なりを整えようとした。
 その時だった。
「……先輩?」
 背後から声がして、大きく久志の身が揺れた。何が起こったか瞬時には理解できず、もう一度「先輩?」と声をかけられて、「ふああ!?」と妙な声を出してしまう。まだズボンから飛びだしたペニスが仕舞い切れておらず、手には先ほど吐き出した精液のついたティッシュが乗っている。この状態を上手く説明することなんて、誰にも出来ないだろう。
「今、何やってたんですか……」
 健吾の声ははっきりとしていて、先ほどまで酔っ払っていた奴とは思えない。キスされたことにびっくりしたのか、それとも、キスをしながらオナニーされていたことにびっくりしたのかどうかは分からないが、酔いがさめていることは確かだった。
「な、何って……」
「さっき、俺に、キスしてましたよね」
 健吾の問いに、久志は答えられなかった。けれど、健吾の問いには確信があって、質問していると言うより、確認しているような状態だった。
「そんでもってオナニーまでしてましたよね。……何で、俺にキスなんか……」
 漠然とした疑問を口に出されて、久志の中で羞恥が込み上がってきた。こんなことをして、バレないわけがないと言うのに、どうしてこんなことをしてしまったのだろうかと、数十分前の自分に疑問を抱いた。酔った勢いと言えばそれまでなのだろうが、それにしても、軽率な行動だった。
「……先輩、俺に抱かれたいんですか」
「は……?」
「お望みなら、抱いてあげますよ」
 健吾が何を口走ったのか、意味を理解する前に、ティッシュを持っていた手を引っ張られた。顎を掴まれて、迫ってきた唇を拒むことが出来ずに、手に乗っていたティッシュが床に落ちた。
 ベッドの上に持ち上げられて、健吾が久志の上に乗る。夢にまで見るぐらい、この状況を望んで居たと言うのに、久志の胸は苦しくて、息すら出来ない状態だった。健吾がこんなことをしている理由が、久志には分からない。好きでもない、それに、男である久志を健吾が抱こうとするなんて、あり得ない。
「け、んごっ……! やめろ…………」
「先輩、こっち、もう反応してるじゃないっすか。俺に、こうしてほしかったんでしょ」
 不覚にも勃起してしまったペニスを握られて、久志は声を上げた。健吾の手が久志の服を乱暴に脱がして、上半身に舌を這わす。何が起こっているのか分からなくなってしまった久志は、頭の中に残った酒の勢いで欲に溺れることにした。
 明日になれば、健吾は忘れているかもしれない。そんな希望にも似たことを考えながら。
 翌朝、激しい頭痛で目を覚ました久志は、素っ裸で寝ていたことに気付き、一瞬にして顔が赤くなるのを感じた。昨日の夜は途中から記憶が抜けてしまい、最後、どうなったのかは分からない。体についた精液を見つめて、健吾を体を重ねてしまったことだけはよく分かった。
 日が昇りきって、眩しい日差しが丁度枕元を照らしている。部屋を見渡すと、健吾の姿は無く、テーブルの上に置いたカバンとコートが無いのを見て、健吾が家に帰ったことを知った。
 顔を合わさなかったことに安心してしまい、その途端、後悔の念に襲われた。今までの関係を保って居たいのなら、キスなんかするのではなかった。そして、抱かれそうになったとき、拒めば良かったと、久志は両手で自分の頭を押さえて俯いた。
 目が熱くなって、涙が込み上がってくる。
 好きだったからこそ、こんな風に体を重ねたくなかった。
 酔った勢いなんて、情けない。
 布団の上に落ちた涙を見つめて、視界が揺らぐ。どんどんと流れてくる涙を拭うことも出来ず、久志はただ、一人、明るい部屋の中で涙を流していた。

 それからと言うもの、仕事に行く気が起きず、久志は初めて仮病を使って仕事を休んだ。あれから、健吾から連絡もなく、久志も健吾には連絡を取らなかった。顔を合わせてなんて言えばいいのか分からない。最初に誘ったのは紛れもなく久志なのだから、落ち度は久志にある。そう自分を責めて、土曜、日曜と過ごしてしまった。
 そのせいで眠りに就くこともままならず、休みだと言うのに、寝不足だった。
 昼の12時からベッドの上で寝転がっている姿を傍から見て、情けないなと嘲笑った。休んでいる久志を見て、健吾はどう思うだろうか。顔を合わせなくてよかった。それとも、逃げやがったと怒るだろうか。考えているだけでは煮詰まるだけなので、健吾のことはとりあえず考えないようにした。
 起き上って水を飲もうと、久志は冷蔵庫に向かう。食欲も、睡眠も、欲望の全てを失ってしまった状態で、ここ二日間水以外何も口にしていない。それなのに、腹が減ることは無く、水だけで胸がいっぱいになってしまっていた。
 このままではいつか倒れてしまう。そう分かっていても、久志は何もする気が起きず、水だけ飲むとそのままベッドに寝転がった。
 何もする気が起きないのに、健吾のことを考えてしまって、脳が疲れていたのか。淡い眠りに誘われて、久志はゆっくりと目を閉じた。寝ている間なら、何も考えずに済む。そして、今まであまり寝ていなかったから、ちょっとぐらい脳を休ませたほうが良いと思った。
 夢の中で、健吾に糾弾された。どうして、あんなことをしたのか、気持ち悪い、近づくな。罵倒されて、久志はただ悲しそうな顔をして、俯いているだけだった。それを客観的に見つめている自分がいて、不思議な夢だった。
 カタンと小さい物音が聞こえて、久志は目を覚ました。明るかった外はすでに暗くなっているが、部屋の中は電気がついていて、電気を付けた記憶が無い久志は首を傾げた。
 その時、視界に健吾が入る。
「…………あ、起きました? 風邪、ひいた人が、布団も掛けずに寝るなんて……」
 健吾は無表情で久志を見下ろしていた。その右手には、スポーツドリンクがあって、そう言えば風邪をひいて休むと会社に連絡したことを思い出す。布団もかけずに、昼寝をするように寝ていた姿を見られれば、仮病を使ったことはバレバレだ。久志は気まずそうに、健吾から目を逸らした。
「あのまま帰っちゃったんで……。風邪、ひいたのかと思って心配してみれば……。仮病ですか」
 健吾の声には怒りが含まれていて、久志の顔が一気に強張る。どう話しかければいいのか分からずに、ずっと黙っていた。
「まぁ、何ともなくて良かったですけど」
 安堵して漏らした息が聞こえて、久志は健吾に目を向けた。健吾はベッドの隣に座って、久志の顔を見つめている。夢の映像が脳裏に過ぎって、久志はすぐに健吾から目を逸らした。責められるのでは、罵られるのではと考えるだけで、血の気が引いて行く。
「……この前は、あんなことしてしまって、本当にすみませんでした」
「え……」
「なんか、俺、マジで酔っ払ってて……。ほんとに、すみません」
 深々と頭を下げた健吾を見て、久志はすぐに起き上った。
「ち、ちがっ……。健吾が謝る必要は全然ない。……むしろ、俺の方が」
 寝ている間にキスをしてしまい、そんでもってオナニーまでしてしまっていたのだ。どう考えても悪いのは久志であって、健吾ではない。だから、健吾は謝る必要が無いのだと、久志はベッドから降りると健吾の隣に座って「顔を上げろ」と肩を掴んで上半身を持ち上げた。
「俺が……、あんなことしたから……。健吾は全く、悪くないんだ」
「でも、俺、無理やり先輩を……」
 どうやら、健吾は久志を無理やり抱いたことに罪悪感を感じていたようだ。それに加えて、見捨てるように帰ってしまったことも悪く思っていたようで、酷く傷ついた顔をしていた。
「先輩が今日休みだって聞いて、すげーびっくりしたんです。なんか、抱いてしまったことを後悔して、逃げるように帰っちゃったし……。その後も、なんて言っていいのか分からなくて、連絡も取れなくて……。今日、会ったら謝ろうと思ってたんです」
 ぽつぽつと話し始めた健吾を、久志は見つめる。
「前の彼女にフラれたとき、先輩が俺にキスしたこと、実は気付いてたんです」
「え……」
「結構、それが心地よくて。先輩のキス、忘れらんなくて……。どうして先輩がキスしてきたのか俺には分からなかったけど、まぁ、気の迷いだろうと思って忘れようとしたんです。けど、ずっと、忘れらんなくて……。新しい彼女と付き合っても、先輩のことずっと考えてて……。彼女を抱きながら、先輩のこと考えてたら、そりゃー下手くそって言われますよね。……俺、すげぇキモイぐらい、先輩のこと考えちゃってて……」
 懺悔をするように話し始めた健吾を見ていて、久志は少しだけ気が楽になるのを感じた。気付いていたと言われた時はかなり驚いたけれど、それから健吾がずっと自分のことを考えていてくれたことが、非常に嬉しかった。
「でまぁ、先輩がまたキスするから、酒の勢いもあって、先輩のこと抱いちゃったんですけど……。ほんっとーに、すみません。先輩、めちゃくちゃ拒んでたのに……」
「え、あ……」
 健吾が言うほど拒んでいた記憶もなく、久志はどう弁解しようかと迷った。途中から気持ちが良過ぎて、流されるままに抱かれていた記憶しかない。
「気持ち悪いっすよね。ほんと。本当にすみませんでした。先輩が、俺の顔見たくないって言うなら、俺、仕事辞めますから。嫌だったら嫌って言ってください」
 顔を上げて久志を見た健吾の表情は辛そうで、見ている久志まで辛くなってしまった。キスをしたことなど忘れてしまっているかのように、健吾は抱いてしまったことの罪悪感しか感じていない。元はと言えば、久志が健吾にキスなどするから、健吾は変な気をもってしまったのだ。全ての原因は久志にあると言っても、過言ではない。
「嫌なわけ、あるか」
「……え」
「俺は、かなり嬉しかったんだ。お前が、俺を拒まないでいてくれて、凄く嬉しかったんだ。始め、キスしたことがバレたとき、俺はお前に気持ち悪いって言われるんじゃないかと、凄く不安だったんだ。それなのに、お前はそれを物ともせず、受け入れてくれたように思えた。目が覚めた時は、こんな風に体を重ねてしまったことに悲しくなったけど……。けど、お前がそうやってショック受けているのを見て違うと思った」
 久志は健吾の顔をちゃんと見て、はっきりと言う。
「俺はお前のことが昔から好きだったんだ。……好きな奴に抱かれて、嫌な奴が、いるか……」
 急に唇が震えて、涙が込み上がってきた。気持ちが通じ合わないことが、これほどまでに苦しいとは思わなかった。頬を伝った涙を見て、健吾が悲しそうに笑った。
「……そうだったんですか……」
「好きじゃなかったら、キスなんて、するわけ、ないだろ……」
 全ては、キスをしたことから始まってしまったのだろう。通じ合えないと決めこんで、閉まっていた感情が爆発してしまい、関係が一気に歪んでしまった。
 言葉には出せなかったにしろ、もっと別の方法があったのではないかと、久志はキスしてしまったことを、また後悔した。
「先輩」
「……何だよ」
「苦しめて、すみませんでした。これからは、言いたいこと、ちゃんと言ってくださいね」
 無理やり抑え込んでいた感情が久志を苦しめてしまっていたことに、健吾は悲しさを感じていた。けれど、これから少しずつ、その苦しい感情を浄化させていこうと、決めた。
 言葉に出せば、少しは苦しさだって浄化されていくだろう。

 両手で顔を覆って泣いている久志を、健吾は力強く、抱きしめた。

 少しでもその痛みを、分かってあげれるように。



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