コンフリクト 前編



 俺はいつも、誰かに救ってほしいと思っていた。

 毎日毎日、混み合った電車に乗り、慣れた仕事をこなして、時には友人と、職場の人と飲んでから、誰も居ない家に帰る。それが日課と言うものだった。月曜から水曜ぐらいまではあまり無理をせず、木曜は気が向いたら飲みに行く。金曜日は飲みたいから誰かを誘ってまで飲みに行ったりする。型にはまったような生活を送っているけど、たまには型からはみ出してみたいときもある。今日は、そんな型からはみ出したみたい日。……いや、飲んでなきゃやってらんねーって感じだった。
「ちょっ、田中さん。飲みすぎですよー」
「いーじゃん、ヨウ君。今日はねー、お祝いなんだよー」
 言われた通り、俺は飲みすぎていたのかもしれない。早く忘れたいという気持ちが強くて、酒に依存してしまう。いつから、俺はこんなに弱くなったんだろうか。グラスを傾けながら、俺はそんなに自分が強くないことを知る。
「……え? お祝い? なんか良いことあったんですか?」
「逆だよ、逆。好きだった人がねー、ついに結婚したんですよー」
「ええとぉ、それは……?」
 行きつけのNOT FOUNDのバーテンダー、ヨウ君は気まずそうな顔をして、俺を見ていた。気まずそうな目の中には哀れみも入っていて、「……またですか?」と尋ねてくる。返事する気力も無くなって、頷くだけ頷くと、ヨウ君はどこかへ行ってしまった。結婚したのは、俺の同僚で同性。いつからか忘れてしまったけど、気づいたら好きになってた。そいつに彼女がいたことも知っていたし、彼女と結婚すると自慢されたこともあった。それなのに俺は、1年半以上、そいつのことを好きでいたんだ。
 不毛だってことは、分かっていた。
 報われないことも、知っていた。
 そんなことで片付けられるほど、俺の気持ちは軽くなかった。諦められるなら、簡単に諦めていたよ。俺だって報われないのが好きなわけでもないし、いちゃいちゃラブラブだってしたかった。ずっと、胸の奥に気持ちをしまっておくのは、とても辛いことだった。
 毎回、俺はバカみたいに不毛な恋ばかりしていた。いつも好きになるのは彼女持ちのノンケばっかり。ノンケしか好きになれない自分が、バカバカしくて凄いとまで思った。数人、俺のことを好きだと言ってくれたやつがいた。そいつらはこぞって俺に「好きになるから」と言っていたけど、押し付けられた愛情を受け止めきれずに短期間でダメになった。男を好きになるのをやめようか、それとも、ノンケを好きになるのをやめようか。色々考えたけれど、欲張りな俺は両方選んだ。だから、後悔だけはしていなかった。
「……田中さん、俺からです。飲んでください」
「え……?」
 いつの間にか、ヨウ君が俺の前に戻ってきていた。目の前に置かれた湯飲みを見て顔を上げると「……飲んでくださいね」と言い、苦笑いされた。嫌なことがあると、一人でここに来るけどヨウ君はいつも優しい。優しさが胸に沁みた。
「ありがとう」
「……いえ。気になさらないでください。常連さんですし」
 うっすらと笑みを浮かべたヨウ君に笑い返すと、目線だけ逸らされた。ヨウと書かれたネームプレートが歪んでいるから、それを直してあげようと手を伸ばしたら、ヨウ君は一歩引いて「……どうしたんですか?」と慌てた様子で話し掛けてくる。
「いや、ネームプレート曲がってるからさ……。どうかしたの、ヨウ君?」
「……いえ。なんでもないです。あ、俺、そろそろ上がる時間なんで……。田中さん、まだ飲んでます?」
「ん、どうしようかな……。一応、明日も仕事だしなぁ」
 ぼんやりと腕時計を見ると、12時を回ろうとしていた。まだ眠たいって訳でもなく、帰りたい気持ちも無かった。一人で居るには辛すぎるこの時間、誰でもいいから一緒に居てほしかった。
「俺、そっち行っていいですか?」
 まさか、ヨウ君からそんな声がかかるとは思わず、俺はつい「いいよ」と返事をしてしまった。ヨウ君は俺に、同情しているのだろうか。ヨウ君は優しいから、俺の好きな人が結婚したと聞いて放っておけなくなったんだろう。俺より年は若いはずなのに、良い子だ。最近の若い子はゆとり教育とか言われて批判されてるけど、良い子は良い子なんだなぁと思った。
 ヨウ君が目の前からいなくなって10分ぐらいしたあと、ヨウ君は俺の隣に座った。「お待たせしました」と息を切らしてやってきたヨウ君は、目の前で見るヨウ君と雰囲気が全然違っていた。俺の前に立っているときは、黒いシャツに黒いズボンを履いているからちょっと大人びて見えるけど、私服はラインの入ってる白いポロシャツに、ジーンズだった。見るからにして、大学生と言った雰囲気だ。
「あっれぇ、ヨウ。急いで出て行ったと思ったら、店の中にいるじゃん」
 店の奥から出てきたマスターが俺たちの前に立ち、ヨウ君を見てからかうように笑っている。
「俺がさ、可哀想だから、ヨウ君が心配してくれてるんだよ、マスター」
 気まずそうにしているヨウ君に助け舟を出すと、ヨウ君は驚いた顔で俺を見てから、ちょっとだけ悲しそうな顔をした。まだ、俺の前にはヨウ君が淹れてくれたお茶が置いてある。湯飲みを手に取って、一口飲む。
「田中さんが可哀想? どういうこと?」
「いやー、またさぁ、ノンケ好きになっちゃってさぁ……。そいつが結婚したんだよ。来週の日曜、結婚式なんだけどねー」
「またですか、田中さん。実は田中さんってマゾ?」
「かもねー」
 ケラケラと笑いながら話している間、ヨウ君は何も言ってこなかった。ただ、俺とマスターの話を聞きながら、楽しそうでも悲しそうでもなく、うんうんと頷きながら聞いていてくれた。全然、楽しいことじゃないのに、笑いながら話すことが出来るのは、現実逃避をしているからだ。いや、笑ってないとやっていられなかったんだろう。俺が笑うたびに、ヨウ君は憐れんでいるような目を向けていた。
「……田中さん、歩けます? っていうか、明日、仕事なんですよね?」
「んー……、休むから良い。失恋休暇ってことで、休む」
「社会人がそんなんで良いんですか」
 ヨウ君は俺を背負いながら店を出る。マスターに勧められたのを、ガンガンに飲んでしまったせいで物凄く酔っ払った。千鳥足になっていて、まっすぐに歩けない。椅子から落ちそうになったのを、ヨウ君が助けてくれた。それから「俺に凭れてください」と言って、店から引きずり出した。
「タクシー呼びますから」
「……うーん、ごめんねー」
 こんなにも酔っ払ってしまったと言うのに、ヨウ君はイヤな顔、一つもせずにタクシーを呼びとめて俺の家にまで付いてきてくれた。あのバーに通い始めて、そろそろ3年か4年ぐらい経つけど、その頃からヨウ君は居た気がする。……ってことは、大学生じゃない? よくよく考えたら、俺、ヨウ君の年、知らない。
「水、持ってきますから。座っててください」
 俺をソファーに座らせて、立ち上がったヨウ君の腕を掴む。気になったことは聞かないと気が済まないタイプで、「どうしたんですか?」と首を傾げたヨウ君に「ヨウ君って何歳?」と聞いてみた。
「……どうしたんですか、いきなり」
「いや、俺さぁ、ヨウ君は大学生だと思ってたんだよね。でも、俺があそこ行き始めた時から、ヨウ君、居た気がして……」
「えぇ、田中さんが初めて来た時のこと、良く覚えてますよ。斎藤さんに連れられてやってきたんですよね。凄く不機嫌そうな顔をしてやってくるお客さん、初めて見たから」
 笑って誤魔化された気がした。ヨウ君はそっと俺の腕を振りほどくと、キッチンへ向かった。確かにヨウ君が居るバーへ行ったのは、斎藤と言う昔の恋人に連れて行かれたからだ。いつしか、ゲイが集まる店になってしまっていたようだけど、俺はそう言う店があんまり好きじゃなかった。みんな、ガツガツしてて、声をかけられるのも鬱陶しい。けど、ヨウ君が居るところだけはなんだか落ち着くから、斎藤と別れてからも俺は通い続けていつしか常連になっていた。そして、ヨウ君と喋ってると、誰も近寄ってこない。
 そういや、ヨウ君がゲイなのかノンケなのかも知らない。そう言う話、一切しないし。戻ってきたヨウ君を見つめていると、ヨウ君はちょっと首を傾げながら俺に水が入ったコップを手渡した。
「そう言えば、田中さんって何歳なんですか?」
「……え。今年で29だけど」
「じゃぁ、俺、田中さんの2つ年下です。大学生じゃなくて、すみません」
 苦笑いをして後頭部を掻くヨウ君を見て、何だか申し訳ない気持ちになった。ヨウ君が大学生だなんて、俺が勝手に思い込んだことで、ヨウ君が謝るようなことじゃない。
「い、いやっ、俺が勝手にね? そう思ってただけだから……」
「童顔なんで、よく大学生とか言われるんですよ。格好も、幼い格好してますんで」
 茶色い髪の毛が揺れて、ヨウ君の表情を隠した。童顔なのはコンプレックスだったんだろうか。そんな人の弱いところを突いた自分に嫌気が差した。昔から、少し空気が読めないとか言われてたけど、今日ほど、それを実感した日は無い。
「……あ、ごめんね」
「何がです?」
「いや、気にしてること、聞いちゃったのかなって思って」
 そう言うと、ヨウ君は何も言わずに俯いた。もう、すっかり酔いは覚めていて、いきなりやってきた気まずい雰囲気に、俺はどうして良いのか分からない。二人揃って黙っていると、ポケットの中で携帯が鳴った。
 胸ポケットから携帯を取り出すと結婚式の幹事からのメールだった。真ん中ボタンを連打しすぎたせいで、メールが勝手に開いてしまい、結婚式の二次会の予定とかそんなメールが目に入って苦しくなった。
「……田中さん?」
 俯いた俺の顔を、ヨウ君が覗いてくる。今、俺は物凄く傷ついた顔をしてるんだろうな。表情を隠したくても、隠すことが出来なかった。
「……っ」
 ヨウ君の手が、俺の視界を隠す。唇に何かが触れて、驚いた。押し付けられたそれが、唇だと気付くのにかなりの時間を要し、やっぱり俺は酔っ払ってんだと全然関係ないことを考えてしまっていた。
「田中さん」
「……な、何……?」
 ヨウ君の吐息が唇に触れる。まだ全然近い位置に顔があるんだろうけど、それを拒むことも出来ず、俺は目を隠しているヨウ君の腕を取る。
「油断、しすぎですよ」
 肩を押されて、ソファーに押し倒された。押し倒された衝動で俺の目を隠していた手が外れて、困ったように笑っているヨウ君の顔が見えた。何をしようとしてるんだろうか。考えなくても分かるって言うのに、ヨウ君がそんなことをすると思えずに「どうしたの?」と聞いてしまった。
「気休めにしかならないと思いますけど、今、このときだけは忘れませんか?」
「何を?」
「田中さんが好きだった人のことです」
 そう言ってヨウ君は俺のネクタイに指をかけた。引き抜くように外すと、俺の目元にネクタイを巻き付けて視界が真っ暗になった。こんなことしたって、忘れられるのは本当に一時だけだ。ヨウ君の言う通り、気休めにしかならない。けど、今日は型から外れてみようと思った日だから、受け入れてみることにした。ヨウ君が俺のことをどう思ってるのかは知らないけど、ちょっとでも忘れさせてくれるならそれで良いやと思った。
「……っ、あっ……」
 何も見えない真っ暗な空間でヨウ君の手だけが、俺がここに存在していることを証明してくれている。もがくように手を伸ばすと、手が絡んでくる。もうどれぐらい脱がされて、何をされているのかも分からない。低迷した脳内では、バカの一つ覚えにヨウ君のことしか考えられなかった。
「……田中さん」
 耳元で声がして、耳たぶを噛まれる。それに驚いて声を漏らすと、今度は唇を塞がれて、舌が割り込んでくる。絶え間なく快感を与えられてるせいか、頭の中は痺れ切っていた。
「入れても、良いですか……?」
 切羽詰まったような声がして、俺は頷く。それからすぐに臀部に固いものが押し付けられて、中へと入ってきた。強すぎる快感に声が出なくなり、下唇を噛みしめた。ヨウ君はどんな顔をしてるのだろうか。頭に括りつけられているネクタイを外そうとしたら、手を掴まれた。
「……何、してるんですか」
「はず、したくてっ……!」
 奥まで突っ込まれて、それ以上、答えることが出来なかった。目隠しは外してもらえず、俺は最後までヨウ君がどんな顔で俺を抱いているのか、分からなかった。
「……ヨウ君って、ゲイだったの?」
 ソファーにぐったりと寝転びながら、フローリングに座っているヨウ君に話しかける。ヨウ君は顔を上げて俺を見ると、ちょっとだけ笑って「んー、両刀です」と答えた。
「へぇ、そうだったんだ。なんか、納得」
「どうしてですか?」
「ヨウ君ってゲイでもノンケでも無さそうだったから」
 はっきり言うと、ヨウ君は「見抜かれてますね」と言って立ち上がった。時間はもう3時を過ぎていて、うとうとと眠たくなってきていた。久しぶりにセックスをしたせいか、体も凄くダルい。風呂に入らなきゃとか思ったけど、もう面倒くさいから明日は会社を休んで全て明日にしようと思った。失恋休暇とか女子かよって言われそうだけど、1年半以上好きだっただけに、傷つき方も半端無かった。
「寝てください。俺、適当に帰りますから。家の鍵だけ、テーブルに置いといてくれたらポストに入れときます」
「ん、ごめんね……」
 ポケットの中から家の鍵を取り出して、テーブルの上に置く。服を着るのも面倒だから、パンツ一丁で俺はベッドへと向かう。気になったことがあったから振り向いて、水を飲んでいるヨウ君を見た。
「……ねぇ、ヨウ君」
「何です?」
「なんで、俺を抱いたの?」
 どうしても、それだけは分からなかった。ヨウ君は水の入ったコップをテーブルに置いて、俺の目をジッと見つめる。
「田中さんが、辛そうだったからですよ」
 いつも通りの口調で、そう言われた。
「……そっか」
 でも、その答えがどうもしっくりこなくて、頭の中でもやもやしていた。ベッドに入って、目を瞑る。それから数分後にバタンと扉が閉まる音がして、そこで俺はようやく眠りに就くことが出来た。

 ジューンブライドってのはヨーロッパから流れてきた伝承らしい。まぁ、日本では梅雨時期でジメジメとしていて、天候もあやふやなわけだが。見事なぐらい晴れた空は、真夏日を記録していた。教会から出てきた新郎新婦は幸せそうな顔で微笑みながら、ブーケを投げた。さっき、キスシーンを目の当たりにしてから、胸の鼓動は収まらない。何だか、未練たらたらな自分が情けなくなった。
「いやー、アイツもついに結婚かぁ。次は田中か?」
 隣に居た上司が楽しそうに話しかけてくる。確かに同期で結婚していないのは俺ぐらいで、去年辺りからバタバタと結婚し始めたせいか、結婚ブームとも呼ばれている。
「相手がいればねぇ、結婚したいですけど」
「何だ、お前。相手がいねぇのか!」
 何だか、楽しそうな顔でそう言われて、ちょっとだけ腹立った。結婚できるものならしたいけど、同性愛が認められていない日本では、まず結婚なんて出来ないだろう。女を好きになるなんて考えられないことで、真っ白いドレスを着て笑顔を振りまいている新婦を見ても、どうとも思わなかった。
「……いたら、今頃、結婚してますよ」
「まぁなぁ、結婚はゴールじゃなくてスタートだからなぁ。安易に結婚しないほうがいいぞー」
 ニヤニヤと笑っている上司に愛想笑いをして、その話はすぐに流した。
 披露宴を終えて、無駄に騒いだ二次会もようやく終わって、俺は二次会で抜けだした。これから、三次会、四次会と続いて行くのは分かっていたけど、これ以上見ていられなかった。キスコールに答えてキスする二人を何回か見たけど、俺はきっと晴れない顔で見ていたような気がする。具合が悪いのか? と話しかけられたから、「悪酔いしたかも」と言って会場を何回か抜けだした。
 結婚式なんて行ったら辛くなるのは分かっていたけど、同僚で仲が良かったから行かないわけにもいかず、俺は出席に丸をしてしまった。だから仕方のないことだけど、辛いものは辛く、大人な対応をしているふりをして一人で悲しんでいた。
 フラフラとした足取りで、思うがままに歩く。一人になると思考が明瞭になって、余計に考え込んでしまった。これなら、逆に参加していた方が感情的に楽だったような気がする。目の前に現れた見慣れた看板に、俺は驚いた。
 NOT FOUNDと書かれたプレートを見つめて、入ろうかと迷う。避けていたわけではないが、あれからヨウ君の所へは行っていない。仕事が忙しかったのと、ちょっとだけ気まずいのもあった。
 変に意識しすぎなんだろうか。
 凹んでいる俺を見て、ヨウ君は慰めてくれただけだ。意識しすぎたら、ヨウ君が可哀想な気がして俺はドアノブに手をかけた。
「いらっしゃー……って、田中さんじゃん。久しぶりだねー」
 カウンターから陽気な声が聞こえて顔を上げると、カウンターにはマスターが立っていた。ヨウ君が立っている場所にマスターがいるのはちょっと不思議で、俺はマスターの前に座り「あれ? ヨウ君は?」と聞いてみた。
「あぁ、ヨウはね。今日、休み。俺じゃ、不満だったかな? 田中さんは」
「……いや、そんなことないよ。この前、家まで送ってくれたのに、お礼とかちゃんと言って無かったからさ」
「あー、田中さん、かなり酔ってたもんね。でも、ダイジョーブ。アイツさ、困ってる人放っておけないタイプだから。何とも思って無いよ」
 何とも思って無いって言われて、ちょっとだけ気になる俺がいた。何も言わない俺に、マスターは「田中さん、何飲む?」とメニューを突きだしてきた。今日はかなり酒を飲んでいるから、度が低いカクテルが良いなと思いスプモーニを頼んだ。
「珍しいね。田中さんがスプモーニとか」
「結構、飲んできてるからね。酔い覚まし程度に」
「へぇ、そうなんだ」
 マスターは棚からコップを取り出して、氷をコップの中に入れる。カンパリをコップに注いでから、グレープフルーツジュースを中に入れてそれをビルドする。すぐに出てきたスプモーニを一口飲んで、つい、ため息を吐いてしまった。
「ねぇ、マスター」
「んー、何ー?」
「ヨウ君って、いつからこの店にいるの?」
 俺がそう尋ねると、マスターは拭いていたコップを台の上に置いて俺の顔を見る。
「どうしたの? ヨウのこと、気になる?」
「気になるって言うか……」
 あんなことをされて気にならないほうが可笑しいと思った。どう言う気持ちで、俺を抱いたのか、まだ気になっている。俺が辛そうだったからと言う理由で抱いちゃうぐらい、俺は安い男だったんだろうか。それとも、無意識に誘ってたとか? 考え始めたらキリが無い。
「ヨウはね、やめた方が良いよ」
「……え」
「田中さんがヨウのことを気にしてるようなら、先に言っておいた方が良いかな。アイツね、誰にも本気になれないから。傷つくの、田中さんだと思うよ」
 スプモーニが入っているコップを落としそうになった。それぐらい、今の言葉に動揺していた。
「ヨウが優しいのは、誰に対してもだよ」
 マスターがちょっと悲しそうに笑うから、俺も一緒に悲しそうな顔をしてしまった。ヨウ君が、誰に対してもあんなことをするなんて、想像すらしていなかった。ただの優しさから、男でも女でも抱けるんだろうか。俺はヨウ君に同情された一人なんだろうか。優しくされたから気になってるわけでもないのに、その言葉が物凄く俺の胸に突き刺さった。
 ヨウ君は俺が可哀想だから、抱いたんだろうか。
 ぼんやりとした頭の中で、そればかりが俺の頭の中で目まぐるしく回っていた。同僚の結婚でかなり傷ついているのに、また傷つくとは、俺も器用な奴だな。
 まだ同僚のことが好きなのか、それとも、優しさから抱いてくれたヨウ君のことを好きになってしまったのか、俺はまだ分からない。

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