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 走ってる時の風と、走りきった後の爽快感が大好きだ。晴れ渡った空を見上げて、俺は一つ息を吐く。流れる汗も気持ち悪くなんか無くて、風が体を冷やしてとても気持ち良かった。
「安藤! ベストタイム出たぞ!」
 ストップウォッチを持った同い年の松木が駆け寄ってくる。ちらっとその表示を見ると、11秒45と出ている。確かにベストタイムだ。顔を上げて松木を見ると、松木も俺を見て笑っている。
「やったな!!」
「おう!」
 これが大会で出たらもっと嬉しかったんだろうけど、とにかく、自分のタイムから少しでも早くなったことが嬉しい。山本と話したあの日から、俺は調子を取り戻していた。なんて単純な奴なんだろうって思う。けど、絶好調だから良いんだと自分に言い聞かせて否定しないことにした。否定すればするほど、どんどん底へと落ちて行く姿が目に浮かぶ。山本のことをどうこう考えてたって仕方ない。俺はきっと、山本と友達になりたいんだ。
 勝手にそう決めて、俺はもう一度、松木を見て笑った。
「次の大会、楽しみだな!」
「そうだな。このタイムが出せれば、全国だって行けそうだし」
 目標が目の前までやってきたようで嬉しくなる。こんなに嬉しい日は久しぶりで、俺も松木も目を合わせては笑っていた。先輩たちも引退して、もう俺たちの時代だ。俺たちがもっとしっかりしなきゃいけないんだと思うと、気持ちが締まる。
 もう山本のことでうだうだ悩んでなんかいられなかった。
「今日、帰りにどっか寄って行こうよ」
 ダウンをしながら松木が俺にそう言う。今日は、山本の家にジャージを返しに行こうと思っていたから、「ごめん、用事があるんだ」と申し訳なさそうな顔をすると、松木は俺の肩を叩いて、いいよ、と笑った。
「じゃぁ、俺、先に帰るから、鍵だけよろしくな」
「おー」
 急いで服を着替えて、俺はリュックを背負って学校から飛びだす。さっきまで部活をしていて、沢山走ったって言うのに、まだまだ俺は走ることが出来る。これから山本と会うって考えると、ちょっとだけ楽しくなって、顔がほころんだ。
 ちゃんと、前もって連絡を取った。俺は携帯持ってないから、山本の番号を教えてもらっただけで、俺が山本に家の番号なり教えることは無かった。だから、電話をかけるとしたら俺からで、かけるときはかなり緊張した。
 手書きの番号を何十回も見つめて、ボタンをゆっくり間違えないように押す。電話のコール音が鳴った時は、早く出ろ、と焦る気持ちと、出ないでほしいと拒絶の気持ちが重なって、一人ジレンマに苛まれた。山本は5コール目で電話に出て、不安げな『……もしもし?』と言う山本の声を聞いた時は、物凄くほっとした。
 明日の夕方、ジャージを返しに行くから。と言うだけだったのに、どもってしまって、山本がケラケラ笑ったから緊張の糸が切れた。笑うから、俺まで笑いだしてしまい、数秒間ほど二人で笑いあっていた。それから、俺はちゃんと用件を伝えて、電話を切った。
 家に居るねと言っていたから、山本は家にいるはず。妙に心が躍ってしまい、足取りも早くなっていく。走って山本の家に行くことが、急に恥ずかしくなって、俺は脚を止めた。息を整えて、空を見上げる。今日は、雨は降らないように思う。雲だって無いし、いつも会う度、雨だなんて縁起が良くない。
 雨は陸上が出来なくなるから、あまり好きじゃない。
 山本の家の前に到着した。ピンポンを押そうと指を伸ばしたところで「安藤」と上から声が降ってきて、そのまま、押さずに顔を上げると、窓から山本が顔を出している。
「早かったね。もうちょい遅くなると思ってた」
 その一言で、俺がどれだけ急いできたのか分かってしまい、恥ずかしくなって俯いた。山本と会うことが楽しみで仕方ないと言っているようで、胸が苦しくなる。そんなことない。ジャージを返したら、すぐに帰るぞと自分に言い聞かせて、山本が顔を出していた窓に目を向けると、そこに山本の姿は無かった。
 ドダダダダと階段を降りる音がする。別に走って降りてこなくていいのに、急いでる姿を想像すると、ちょっとだけ微笑んでしまう。山本が来る前に顔を元通りにしようと、俺は一度両手で顔を覆ってから玄関を見つめた。
 勢いよく扉が開いて、山本が姿を見せる。夕立の時、この前、そして今日と山本の私服を見たけど、相変わらずセンスが良いと言うか、Tシャツが良く似合う体格をしている。Tシャツにジーパンと言うラフな姿なのに、中学生にしては大人びて見えた。
「中、入れよ。折角だし」
「……お、おう」
 確かにジャージを返してそれで終わりって言うのは、何だかちょっと寂しい気がしていたからよかった。よかったと思ってから、どれだけ山本と一緒に居たかったのか分かってしまい、苦しくなって呼吸が出来なくなりそうだった。
 やっぱり、俺はどうかしている。
 山本のあとを追って階段を上がっていく。山本の家に来るのは2回目で、1回目は俺がびしょぬれになったとき。あの時は気まずくなって逃げ出すように飛びだしてしまったけど、今日は大丈夫だろうと勝手に決めつけて、俺は山本の部屋に入った。
 相変わらず、俺の部屋より片づいている部屋だ。この前、机の上にはいろんなものが山積みされていたけれど、今日は綺麗に片付いていた。邦楽のCDが2、3枚置いてあって、それに目が止まった。
「……興味ある? それ。結構良いよ」
「はい?」
「CD見つめてから。興味あるのかなーって思って。聞きたいなら貸すよ」
 その言葉に心が揺れて、俺はCDを手に取る。テレビとか誰かが喋ってて、バンド名は聞いたことがある。それでも、全然曲とかは知らなくて、これを聞けば少しは話題が増えるだろうかとか、そんなことを考えて「……わかんないからいいや」と言って断った。
 必死な俺が怖い。
「マジいいからさ。とりあえず、聞いてみろよ」
 それでもなお、山本は退かずに、俺の手からCDを奪い取るとデッキにCDをセットして曲を流し始めた。ギターのソロから始まる、柔らかい音。山本が、俺の腕を引っ張って、ベッドの上に座らせた。
 俺が要らないと言っても聞かすぐらいなんだから、山本はかなり気に入っているんだろう。俺は仕方なく聞いてやろうと思って黙っていた。
 静かに曲が終わって、山本が期待をこめた目で俺を見る。
「どうだった?」
「……これ、タイトルなんていうの?」
「a shower にわか雨って言う意味」
 ア・シャワー。なんか、これから風呂に行くみたいな感じだけど、にわか雨と言うわりにはしっとりとしていて、むしろ時雨のようなイメージが強かった。ポロポロとつむがれる音が、今でも耳に残っている。
 純粋に良い曲だと、思った。
「なぁ、興味持った? PCに落としてCDに焼くからさ、全部聞いてほしい」
 そこまで説得させられるとは思わず、俺は仕方なく「分かったよ」と返事をした。ここまで山本が勧めるんだから、良い曲が揃っているんだろう。それに、ア・シャワーって言う曲は、俺も気に入った。
「やった。中々、良いって思ってくれる奴居なくてさ。こいつらの中では、この曲が一番だと思ってるのに、みんな批判しやがる。ひでぇと思わない?」
「悪くはないと思う。全部聞いてないから、分からないけど」
「……安藤なら、この曲を気に入ってくれると思った」
 さっきまで興奮してたくせに、いきなり静かになるからびっくりした。山本がジッと俺の目を見つめて、「安藤なら、これ、気に入るよ」と根拠も無いことを言う。どうして、そんなことを言うのか分からないから、俺は少し俯いて、山本から目を逸らした。
「バっ、バカいうな。俺、まだ全部聞いてないって言っただろ」
「うん。けど、分かる気がするんだ」
 山本の目があまりにも真剣だから、それ以上何も言えなくなった。どうして、分かるんだろう。俺には山本のことが全然分からないのに、山本は俺のことを分かると言う。それは凄く不思議なことで、それでいて、俺を惑わせるには十分な要素だった。
 ポツンと何かが当たる音が、空からした。
「あれ……?」
 二人揃って、天井を見上げてから、窓の外を見る。いつの間にか、鈍色に染まった空からは、雨粒が降り注いでいる。どうしてこうも、俺と山本が会うときは雨が降るんだ。

 それはある意味、運命のようだった。

 窓に雨が当たって、外の景色を歪ましていく。夕立ほど雨が強いわけでもなく、糸のように細い雨が空から降り注いでいた。
「あっちゃー、雨降っちゃった……」
「傘、持ってきてないの?」
 外を見つめてそう言うと、山本が苦笑いで俺に尋ねた。傘なんて基本的に持って歩いていないから「持ってないよ」と言うと、山本は呆れたように笑った。
「今日、天気予報で雨降るって言ってたぞ」
「ウッソ」
「……まぁ、止むまでうちにいればいーじゃん」
 山本が笑ってそう言う。夕立のようにすぐ止むような雨には見えない。止むまで家に居ればいいと言うけど、遅くならないうちには帰らないといけないだろう。
「まぁ、ちょっと様子見る」
「ん、ま、うちは何時まで居ても良いけどね」
 笑っている山本を見ていると、また胸が苦しくなった。これじゃぁスランプの時と一緒だと思って、俺は目を逸らした。家に居て良いと言われれば言われるほど居ちゃいけない気がして、早く止めと祈った。この前の夕立は止まなければいいのにと少し思ったのに、今日みたいに止まなそうな雨の時に限って俺はバカみたいに止めと祈る。
「安藤の家には、門限とかあるの?」
「……いや、早く帰って来いって言われるけど。特には無いかも」
 素直に答えてからしまったと思った。門限があると言えば、早く帰れたかもしれないのに、門限なんて無いって言っちゃったら本当に止むまで家にいないといけない。
「まぁ、止まなかったら傘貸すから」
 先回りした答えにがっかりした。
 まぁ、さすがにずっと家に居るなんて出来っこないこと、誰にだって分かることだ。大人しく傘を貸してって言えば良かったな。
「……ほんと、止まないかな」
「安藤は雨嫌いなの?」
 嫌いなのと言われて答えることが出来ずに、俺は首を傾げた。
「……練習できないのはイヤだ」
「ああ、陸上部はグラウンド使うもんね。そりゃ、イヤかもな」
 山本は笑って俺の頭に触れた。ぐしゃぐしゃと髪の毛を乱すように撫でて、笑う姿を見たら、時間が止まったみたいになった。山本の腕を取ってみると、山本が俺を見て真面目な顔をした。
 屋根を打つ、雨音が部屋に響いている。
 俺が山本の手を取ると、ゆっくりとそのまま手を下に降ろす。腕を握っている場所をずらして、山本は俺の手を握った。
 時間が止まった。
 雨音が聞えなくなった。
「……ねぇ」
「何だよ」
「いけないこと、してもいい?」
 いけないことってなんだろうって思った。思っている間に、それが何なのか、目の前に突き付けられた。
 山本に腕を引かれて、俺はそのまま、山本の胸に飛びこんでしまう。
「うぶっ……!」
 情けない声を出した後に、背中に手が回った。抱きしめられるんだと思って、俺は抵抗しなかった。抱きしめてほしかったわけじゃないけど、山本の体は暖かくて心地いい。抱きしめてくれることが、ほんの少しだけ嬉しかった。
「返事しないなら、しちゃうよ」
「……なんだよ、それっ!」
「嫌なら、ちゃんと言って」
 返事をする間も無かった。唇が触れて、俺は自然と目を閉じてしまった。ただ、唇を合わせているだけだと言うのに、こんなにも胸が苦しくなるようなことなんてあるんだろうか。誰がキスなんて考えたんだろう。体に栄養を入れる箇所、消化器の最先端を合わせるなんて誰が考えたんだろうか。そこが触れ合っているだけなのに、体の芯が熱くなったのを感じた。
 友達同士でキスするなんて聞いたことが無い。でも、これが初めてのキスじゃないことは確か。これで、3回目だ。
 最初も、2回目も、唇を合わせるだけだった。今日はちょっとだけ、強く感じる。押し付けられているような、そんなキス。その後、唇に舌が触れた。
「……ん」
 自然と声が漏れてしまい、恥ずかしくなる。唇とは別に触れ合っている手を、ちょっとだけ強く握った。
「嫌じゃ、無いの?」
 唇が少し離れて、山本は俺にそう尋ねる。
「……分かんない」
 思ったままに返事をすると、山本は困ったように笑った。
「俺、自惚れちゃうよ……」
「……自惚れとけよ」
「良いんだ?」
 自惚れるってことがどんなことなのか、俺はまだよく分かって無いのにそんなことを言ってしまった。
「良いのかどうかも、分からない」
「……そっか。まぁいいや。嫌だったら、ちゃんと言ってね」
 少し顔を動かしたら、唇が触れてしまうような位置で山本はそう言った。喋るたびに、吐息が口に当たって恥ずかしくなる。山本も同じ状態なんだと考えるだけで、もっと恥ずかしくなった。
「分かった」
「……ほんとに分かってるのかな。たまに安藤と喋ってると不安になる」
 山本はまだ笑いながらそう言う。不安になると言いながら、笑っている。
「何だよ、それ」
「俺さ、この夏休みからずっと安藤のこと考えてる。何をしていても、安藤のことばっかり考えてて、キモイんだ。俺の頭の中、安藤しかいねぇの。それってキモくない?」
 同意を求めるように山本が聞いてきた。そんなこと、俺も一緒で、ずっとずっと山本のことばっかり考えていた。それなら、俺もキモいってことなんだろうか。キモかったら、山本は俺のこと、嫌いになるかな。
「キモくないと、思う」
 そう答えてから、本当にそうなのかと真面目に考え始めた。俺だって夏休みや部活やりながらずっと山本のことを考えてて、キモいと思ったことは何度かある。山本もそんな状態だったのかと思うだけで、ちょっと嬉しくて、キモさなんか忘れてしまっていた。
 俺もキモい? なんて、怖くて聞けない。
「そっか……。でも、嫌だったら絶対に言って。俺、安藤がしたくないこと、絶対にしないから。俺、そんなこと、ずっと考えちゃうぐらい、安藤中心に回ってるんだ。世界が」
 山本は照れくさそうに笑うと、もう一度、俺に唇を合わせた。これがどういうことなのか、ちゃんと考えれば分かることなのに、俺は考えようとしなかった。

 俺だって、頭の中は山本のことばかりだ。

 雨はまだ、止まない。



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