情けと勝敗
「こーいしちゃったんだ、たぶん、気付いてないでしょおおー」
「歌うな、音痴」
「だって、拓海君、俺の気持ちに気付いてないでしょ?」
「一生、気付かねぇよ」
壊滅的な音程に拓海は食べていたパンを吐き出しそうになった。昔から、歌は上手くないほうだったけれど、年を取るにつれて下手さが増している。声も低く高音など出せないくせに、女性歌手の歌を歌ったりするから余計醜さが増していた。有名な曲だったから歌詞で分かったけれど、これがマイナーな曲だったら何を歌っているかすら分からなかっただろう。
「つーかさ、コンビニのパンとか弁当とか、体にいくねーって」
「……は?」
「ほら、俺、歌はヘタクソだけど料理は天才的にうめーからさ、ご飯作ってあげるね」
「いりません」
媚を売っているのか、それとも下手に出ているのか分からないが、見返りを求められそうなことは全て拒否する。外食ばかりで体に良くないと心配してくれているのだろうが、そんなことも気持ち悪く、背筋がゾッとした。
パンを食べながらパソコンに何かを入力している拓海を見つめる。
「そういや、拓海んとこはスケジュールの管理も全部自分でやってんの? 秘書とかいねーの?」
「そんなの雇う余裕が無い」
書き込まれている手帳を見つめて、拓海は吐き捨てた。こうして、家で仕事をしているのを見て、人員が足りていないことぐらい分かるだろう。それなのに、後ろをちょこまか移動されて鬱陶しかった。
「俺がやってあげよーか」
「いらねぇよ。お前はお前で自分の仕事をしろ」
この前、襲われたところを助けられてから、一輝は拓海の家に居座っていた。拓海が仕事に行けばその後ろをついてきて、家で仕事をしていても邪魔ばかりする。一輝だって副社長と言う肩書きを持っているのに、こうも暇そうにしているとただの無職にも見えた。
ぴたりと一輝の動きがとまり、拓海は振り返る。眼鏡越しに見えた表情に、少しだけ驚いた。
「俺みたいなんが仕事したら、会社潰れちまうぜ? 俺がバカだったの、知ってんだろ?」
そう言われてから、成績も大したことなかったことを思い出した。では、どうして副社長なんて地位にいるのかと考えて、それ以上追求するのは良くないと思った。中学三年のとき、一輝が引っ越したのは急だった。嫌われていたからと言う理由もあるのだろうが、引っ越す理由を拓海は聞いていない。もしかしたら、それに関係するのかもしれないと思って、口を噤んだ。
「俺が良かったのは、顔と運動神経のみ。勉強もできねーし、歌も絵も下手。あぁ、あとはセックスぐらいだなー」
「はっ、自己満だな」
自分のテクニックを上手いと思っている一輝をバカにするように鼻で笑い、拓海は手帳からパソコンの画面に目を移す。
「自己満? 心外だな。ヒーヒー言ってたの、どこの誰だよ」
「はぁ? 言ってねぇし」
「また、言わせてやろうか?」
ジリジリと近寄ってきた一輝を睨みつけ、拓海は戦闘態勢に入る。掛けていた眼鏡を外そうとしたところで、ぴたりと一輝の動きが止まる。拓海もそれにつられ、気を緩めてしまった。
「眼鏡ってなんか、エロいよな」
「……はぁ?」
「俺さ、男子校に通ってたんだけど。化学の教師が眼鏡掛けてて、超エロかったんだよ。学校のマドンナ? ってやつ?」
その教師を思い出しているのか、一輝の顔は少しだけニヤついている。男子校に通っていた、と言うのは初耳だ。むしろ、一輝が突然引っ越してからの十年間、何をしていたのか拓海はほとんど知らない。自分のことは昔から好きだった、と言うが、それも本当かどうか、拓海は疑っていた。
「その人、化学の教師なのに、空手とか習ってたらしくて、すっげぇ強かったんだけどね。襲ってくる奴をどったんばったん倒してたわ」
「……へぇ」
「ま、でも、俺はヤらせてもらったけど。やっぱり顔だな。男は」
ほんの一瞬だけだが、拓海の思考が止まる。慌てて無理やり頭を動かし、拓海は眼鏡を外してパソコンの隣に置いた。過去に一輝がどんな男と寝ていようが、拓海には全く関係ない。それに、拓海だっていろんな奴と寝てきたのだ。付き合ってもいないのに、過去を聞いて動揺するのはお門違いだ。それに、動揺しているなんて、気付かれたくなかった。椅子を回転させ、一輝に背を向ける。
「お前の自慢話なんか、興味ない」
はっきりと言い、自室から出た。そのままリビングに向かうと、拓海の後を追うように扉の閉まる音が聞こえる。「おい、なんか機嫌悪くねぇ?」と機嫌を伺うような声が聞こえ、拓海はソファーに座りながら「いつも悪い」と答える。一輝がこの家にいるときは、いつも不機嫌だ。テーブルの上においてあったタバコに手を伸ばし、口につける。空気を吸い込みながら火をつけると、ジッと音を立て、火が移った。
「確かにそうだな。拓海はいつも機嫌が悪い」
「分かってんなら聞くなよ。ウゼェな」
目も合わさずにまっすぐを見つめていると、突然、視界に手が入ってきて、吸っていたタバコを奪われた。そのまま、肩を押され押し倒される。上には一輝が乗っていた。
「なんかいつも以上に機嫌悪くねぇ? どうしたの?」
「退けよ。重いんだよ、デブ」
乗っかっている一輝を退かそうと、手を動かそうとしたところで、逆に掴まれソファーに押し付けられる。いつもだったら、ここで拓海が一輝を殴り、ケンカに発展し、拓海が一輝を負かして終わる。けれど、いつも以上に強い力で押さえつけられてしまい、身動きが取れなくなった。
もしかしたら、今まで手を抜いていたのではないかと、拓海は思う。
「……退けっつってんだろ」
「やだよ。だって、こんなチャンス、滅多にない」
唇が塞がれ、入ってきた舌を噛もうとしたとき、上あごを舐められ力が抜けた。思考は抵抗しなければ、と拓海の体に訴えかけるも、体はその思考に従順ではなかった。力が抜け、抵抗できなくなる。思わず、目を瞑ってしまった。
「……お前も、溜まってんだろ」
「てめぇと一緒にすんな」
苦し紛れに反論すると、一輝の手が拓海の股間を掴む。ジーンズ越しだったが、久々に触れたこともあり、ビクと体が跳ねる。キスをしただけで立つなんて、前では考えられなかった。やはり、欲求と言うものはある程度の期間で発散しなければいけないのだろう。
「立ってんじゃん」
「やめろって!」
「やめろって言いながら、お前、全然抵抗して無い。ちゃんと抵抗してくんなきゃ、つまんねーよ」
にこっと笑った一輝の顔を、拓海は思いっきり殴りつけた。いつの間にか、押し付けていた手はなくなっていたし、殴らなくても蹴ることはできた。抵抗をする術なんて、一対一では沢山あると言うのに、なぜか抵抗する術が思いつかなかったのだ。煽られなければ、あのまま、ヤってしまっていたのだろうか。考えただけでゾッとする。
「って! てめ、本気で殴っただろ」
「……いつも本気だよ」
ようやく上から退いた一輝を見下ろし、拓海は服を直す。笑っているのを見ると、殴られて喜んでいるド変態のようだ。灰皿の上に置かれたタバコをもみ消し、テレビを付けた。グーと腹が鳴る。
「あ、腹減った?」
「どっかの誰かが騒音レベルの歌を聞かせてくれたからな」
「じゃ、なんか作ってやるよ」
うきうきとしながら一輝は立ち上がり、キッチンへと向かう。この家に来てからもうそろそろ一ヶ月ぐらいが経つが、一輝が料理しているのを拓海は目にしたことが無い。上手だの、天才だの、俺はシェフになるのが一番だ、だの言うが、その腕前はどの程度なのか知らない。存分にけなしてやろうと思い、拓海はまたタバコに火をつける。
十分ほど経つと、キッチンからいい匂いが立ち込め始める。けれど、上手いと認めたくないので、拓海は必死にその匂いを無視し、テレビをジッと見つめる。これと言って面白い番組はやっていない。リモコンで何度かチャンネルを変え、一息ついたところで、料理が目の前に並んだ。一輝が作ったとは思えない家庭的な料理の数々に、拓海は黙り込んだ。見るからにして美味そうだ。思考よりも体は素直で、グーと腹が鳴る。
「ほら、食えよ。俺様に感謝して食えよ」
「……うっぜぇ」
感謝するつもりなど更々ないが、腹は減っているので箸に手を伸ばす。まずは味噌汁を飲む。認めたくはないけれど、自分で作るよりかは美味かった。拓海はあまり、料理が得意ではない。
「お前さ、茄子、好きだろ」
「は? 何で?」
良く見ると、ミートソーススパゲティの中には茄子が入っていた。確かに好きだけれど、好きな食べ物を一輝に教えたことはないし、誰かに言ったこともない。なぜ、気付かれたのだろうか。一輝はにっと笑う。
「だって、俺とお前。好み一緒じゃん」
「は?」
「昔から駄菓子屋で買うお菓子一緒でケンカしたじゃねぇか。俺が好きな物は大体、拓海も好きだからな。当たりだろ?」
自慢げにそう言われ、拓海は箸からフォークに変える。確かに好きな物は当たっている。思い返してみれば、好きなお菓子の取り合いでケンカしたこともしばしばあった。小学校の遠足の日、一輝が拓海のお菓子を奪い取った時は、その場で取っ組み合いのケンカにまで発展し、二人揃って先生に怒られた。どう考えても一輝が悪いのに、どうして自分まで怒られたのか理解できず、不機嫌になって帰った。今思えば、お菓子を取られ、先に手を出したのは拓海だった。取った一輝が一番悪いけれど、殴った拓海も悪かった、と言うことだ。
「……たまたまだろ」
「そおーかなぁ」
「つーか、お前さ。何で料理とか出来るようになってんの? 中学ん時は俺より出来なかっただろ」
何気なく尋ねたつもりだったが、黙り込んだ一輝を見て拓海は首を傾げる。何か、悪いことでも言ってしまったのだろうか。しかし、普段から何を言っても黙り込まなかった奴が、いきなり黙るのは奇妙だ。料理に関しては、自分から話を振っていたと言うのに。
「……一人でも生きれるように、かな」
「はぁ?」
神妙な顔をしてそう言う一輝に、拓海は怪訝な顔をする。
「ほら、俺んちって、母子家庭だっただろ?」
「んー、あぁ」
「母さん、再婚したんだ。どこぞの社長と。俺、実は跡継ぎなんだぜ? 二番目だけど」
ガチャンと甲高い音が部屋に響いてから、拓海はフォークを落としたことに気付いた。今のでようやく、一輝がいきなり引っ越した理由を知る。再婚したなんて、聞かされていなかった。それもそうだ。幼い頃からの知り合いだからと言って、仲が良かったわけでもない。中学三年のときは、互いに近づくなと言って会話もろくにしていなかったのだ。知らなくてもおかしくない。
「へぇ、そうなんだ。おばさん、元気?」
「死んだ」
あっさりとそう言った一輝を見つめ、拓海は少しだけ動揺する。なんと声を掛けて良いのか分からない。それからだんだん、一人でも生きられるように、かな、と言った言葉が現実味を帯びてくる。
「……病気とか、しなさそうだったのにな」
「死ぬ直前までは元気だったよ」
「事故か?」
「いや、自殺。まぁ、気にすんなよ。最初から母さんの話は、お前にするつもりなかったしな。庶民に金持ちの生活は合わなかったってこった。ま、俺がこうやって自由気まま遊びたい放題やってられんのは、父さんが気に掛けてくれてるから。実父でもねぇのに、良くしてくれてるよ。だから、俺は、いつ捨てられても大丈夫なように家事全般は、こなせるようになったの。思った以上にハードだろ? 拓海んとこのおばさんは、相変わらず元気なんだろうな」
一輝は少し笑ってから、自分が作った味噌汁に手を伸ばす。ミートソーススパゲティに味噌汁なんて、和と洋の微妙な組み合わせだが、不味くは無い。思い返せば、一輝の母はどんな献立でも味噌汁は必ず食卓に並べていた。きっと、ミートソーススパゲティでも味噌汁が並んでいたのだろう。
「うるせぇぐらい、元気だよ」
「やっぱり。俺、拓海んとこのおばさんによく怒られたからなぁ」
一輝はケラケラと笑いながら、フォークを掴みスパゲティを食べ始める。よくケンカする二人を止めていたのは、毎回、拓海の母だった。一輝が怒られた分、拓海も怒られ、二人揃って謝らないから鉄拳制裁を食らっていた。そんな二人を、一輝の母はニコニコと笑いながら見つめていて、滅多に怒る人ではなかった。かと言って、弱い人でもなかった。よほどのことが、あったのだろう。居たたまれない気分になりながら、拓海は味噌汁を飲み干した。
その味噌汁からは、どこか懐かしい味がした。
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