スキーマ
昔、夢を追うと言って別れた人がいた。
僕も彼も無謀と言える夢を持っていて、それが故にケンカをして、高校を卒業したと同時に音信不通になった。
僕は途中でバカみたいな夢を見ていることに気づき、普通のサラリーマンになった。彼は何をしているんだろう。一児の父になった僕を見て、彼はなんて言うんだろうか。まだ夢を見ているとすれば、サラリーマンなんて無難な職に就きやがってとバカにしそうだ。もう諦めたとすれば、僕と同じように、草臥れたスーツを着て、電車に揺られているんだろうか。
僕には想像も出来なかった。
高校生のころ、僕達は対極の存在にして、とてつもなく惹かれあっていた。それこそ、磁石のS極とN極のようで、一度くっ付いたら、二度と離れることは無いと思っていた。
初夏の清々しい暑さの中、白い半そでのシャツを肩まで捲っていた彼は、僕に「好きだ」と言った。まだ蝉が鳴いていなくて、梅雨が明けたばかりの空は、青色の絵の具で丁寧に塗りつぶしたように青かった。白い太陽が屋上の水溜りに反射して、眩しかったことを良く覚えている。
このとき、僕は「僕も好きだよ」と笑顔で答えた気がする。彼は「どういう意味で言ったか、分かってんのかよ」とため息混じりに言って、うな垂れていた。僕は彼の言う好きと、僕の答えた好きの意味が違っていたことに気づいていたけれど、気づかないフリをして「分かってるよ」と残酷な笑顔を向けた。
友達でしか無かった彼を、僕はいつの間にか好きになっていた。彼は僕のそばにずっといて、見返りを求めないボランティアのような愛情を、僕に捧げ続けていた。
そして、僕は、彼に告白されたちょうど1年後、同じ時間、同じ場所で、彼に「好きだ」と伝えた。僕が告白した年は、もう蝉が鳴いていたように思う。彼が告白してきたときのことは良く覚えているのに、僕が告白したときのことは、目を見開いて、「マジで?」と呟いた彼の表情しか覚えていなかった。
彼はお世辞にも、頭が良いとは言えず、学年の中でもテストの順位は底のほうだった。茶色く染めた髪の毛と、着崩した制服、彼の名前は校外でも有名で、腕っ節だけには自信があった。その反面、僕は優等生の看板を背負って立つ、品行方正な生徒だった。
そんな二人がこんな関係になるなんて、誰が想像しただろうか。僕にも分からない。無償とも言える愛を僕に与え続けてくれたのは、彼しかいなかった。僕はきっと、そこに惹かれたんだろう。彼は僕のどこが良いのか、決して語らなかった。だから、分からない。
会いたいかと尋ねられれば、僕ははっきりと答えることが出来ない。彼のことを好きであることは確かだけれど、僕には今、妻もいるし可愛い娘もいる。会ってしまえば、元通りには戻れないのだから、正直に言うと会いたくないのだと思う。社会と言う組織にまぎれてしまった僕を、きっと彼は探し出すことが出来ないはずだ。
どうして、今更、彼のことなんて考えてしまったんだろう。別れてから、もうそろそろ10年が経とうとしていて、その10年間に彼のことを考えていたのは、別れてから3年までの間だった。大学へ行き、サークルや合コン、飲み会など、高校のときとは違う新しい環境に飲み込まれ、僕は変わってしまった。男を好きだったという事実は変わらないけれど、それを可笑しいと思えるようになった。心の成長に素直である僕は、ある一人の女性と付き合うことになった。
それが現在の妻である。
はっきり言うと、妻は少し彼に似ていた。無償の愛を僕に与え続けてくれて、常に僕の傍に付き添ってくれていた。中々、気持ちに応えない僕に対して「そのままで良いのよ」と優しく微笑んでくれたのが、印象的だった。
根っこが強くて、強さと優しさを持ち合わせた僕の妻は、彼にそっくりだった。だから、妻の気持ちに応える気になり、付き合い始め、付き合って3年後に子供が出来て、結婚した。
そう考えてしまうと、僕は彼に未練タラタラで、妻と結婚してからも妻から彼の影を思い出し、一人、オナニーに近い生活を送っているだけだった。
蒸し暑い炎天下の中、僕は家計を支えるためにキビキビと働いていた。今日はちょうど、客先に挨拶に行った帰りで、部下と一緒にオフィス街を歩いていた。カンカンカンと建設中のビルから、鉄を叩く音が一帯に響いていて、僕は隣にいる部下に「暑いのに、大変だねぇ」と他人事のような呟きをもらした。
「なーにいってんすか、石川課長。あの人たちだって、あれが仕事なんだから、しょーがないでしょー」
「まぁ、そう言えば、そうだね」
部下の瀬戸が言うのは最もで、俺は苦笑いで白いシートをかぶったビルを見上げた。建設途中だから中の様子は伺えないけれど、密封されているような空間はサウナのように暑いんだろうなと想像してしまった。
「あっ、かちょ、あぶなっ!!」
瀬戸の叫び声が聞こえて、僕はボーっとしたまま、隣を見た。迫ってくるショベルカーは僕の存在に気づいていないようで、間近まで距離を縮めていた。凍ったように動けなくなった僕は、このまま死んでしまうのだろうなと人生ごと諦めて目を瞑った。
「あぶねぇっ!!」
叫び声にはっとしている間に、僕の体は誰かに突き飛ばされゴロゴロと道路を転がった。突き飛ばされた衝撃で、腕や肘を打って痛いはずなのに、体は誰かに抱え込まれていたようで全く痛くなかった。
「……す、すみません」
間一髪で死ぬことを逃れた僕は、突き飛ばしてくれた彼に礼を言おうとして、表情が固まってしまった。
それは、僕を突き飛ばしてくれた彼も、一緒だった。
「……正孝……」
10年前と変わらない茶色い髪の毛に、太く強い眉は見覚えがある。いや、見覚えがあるどころじゃなかった。僕を助けてくれた命の恩人は、高校生のときに付き合っていた小沢正孝、本人だった。
「利通か……?」
正孝はランニングシャツに、ペンキのついたボンタンを履いていた。それに対する僕は、ピシッとはしていないが、スーツを着ている。互いに夢を諦めて、自分に合った職業をしていると言うのは、見て分かった。
まさか、正孝が夢を諦めていたなんて。目が合ってしまったが、逸らすことも出来ずに、互いの目は揺れていた。
「あれ、課長の知り合いなんですかぁ? 直帰って伝えておきますね。今後、奢ってくださいよ」
瀬戸はグイッと飲むふりをして、要らない気を遣って、その場から居なくなった。瀬戸の存在をすっかり忘れてしまっていた僕も悪いが、この場に置き去りにされて、僕はどうして良いのか分からなかった。
「……課長か……。サラリーマンなんだな」
「う、うん……。商社に勤めているんだ。大通りの……」
正孝は僕の服装に視線を向けて、また僕の目に戻した。どうして良いのか分からず、僕たちはその場に座り込んだまま、見つめ合っていた。どう、声をかけていいのか分からない。何を言って良いのか分からない。せめて、助けてくれてありがとうと言う礼を言わなければいけないのに、会ってしまった衝動からか、正孝は僕の腕を引っ張って無理やり立ちあがらせた。
ここで、拒まなければ。そう思っているのに、思考よりも体の方が素直だった。
正孝は仕事中だと言うのに、僕をビルの隙間に連れ込むと、いきなり唇を合わせてきた。
触れたかった。ずっと、触っていてほしかった。離れたくなかった。離してほしくなかった。
その感情が強くなって、僕も正孝の首に腕を回した。性急なキスは、互いの息すらも奪って、尚深く、互いを求めていく。高校生の時より大きくなった背中は、10年間と言う長い年月が積み重なっているように思った。漏れるような息で、舌を絡めていく。舌が当たるたびに、体の中から熱が込み上がってきて、僕の太ももに当たっている正孝のペニスに手を伸ばした。
誰かに見られているかもしれない。ビルの隙間だから、見ようと思えば、誰でも見れる。それなのに、そんなことも忘れて、僕たちは反り立ったペニスを慰め合いながら、離れていた10年間を取り戻すように唇を重ね合っていた。
突然、ピリリリと携帯の着信音が響き渡った。そこでやっと僕たちは唇を離して、互いの顔を見合った。正孝は「……俺だ」と呟くと、ポケットの中から携帯を取り出して、大きく息を吐いた。
「親方からだ……」
「でなよ。まだ、仕事中だったんでしょう」
そう促すと、正孝は「悪いな」と言って、携帯の通話ボタンを押した。時と言うのはやっぱり非情なもので、高校生の時のように何事にも囚われずに、目先のことを考えているだけじゃダメなのだ。そう言う考えが身に付いてしまった自分にも、僕はがっかりした。
「……え、あ、はい。あ、本当ですか。良いんですか? ………………ありがとうございます」
正孝は携帯電話だと言うのに、何度も頭を下げて、静かに通話を切った。その姿は僕たちサラリーマンと似ていて、ちょっとだけ噴出してしまう。
「何、笑ってんだよ……」
「いや……、何でもないよ」
笑っている僕の髪の毛を撫でて、正孝は「帰っていいって」と小さい声で呟いた。僕はその言葉に目を見開きほんの少しだけ笑うと、腕を引くわけでもなく、引かれるわけもなく、二人で同じ歩幅を歩き、ビジネスホテルに急いで入った。
こんなことして良いわけないのは、頭の中だけでは分かっていた。唇を重ねて、服を脱いで、高校生と同じ時のように裸で抱き合っている最中でも、頭の中に浮かんでいるのは正孝のことだけではなかった。あくまでも俺は、一児の父であり、一人の旦那だ。頭の中では分かっていても、行動には移せなかった。
倫理や背徳、そんなことに拘ってしまう以上に、僕は、正孝のことを愛していたんだ。
「はぁっ、も、ダメ……」
「どこがダメなんだよ。グイグイ締めつけてるぞ」
意地悪な声が僕の理性を失わせていった。何度も何度も正孝を求めては、もっともっとと強欲にせがんでいた。10年間の月日は長くて、何回やっても僕の心が満たされる事はなかった。声が枯れて、もう精液が出なくなって、ペニスが震えているだけだと言うのに、僕は何度も正孝を求めていた。
「……実はね、僕、結婚してるんだ」
ライターの石を擦る音が聞こえ、僕はひとり言のように呟いた。正孝は煙を吐き出しながら「そんなこったろうと思った」と平然と返事をする。
「……子供もいるんだ」
「へぇ……」
セックスの後のタバコの匂いは、高校生の時と全く変わっていなかった。僕に背中を向けている正孝は、何を考えているのか背中だけじゃ分からない。子供いると聞いて、どう思っただろうか。今、何をしているのか知りたくて、僕は自分のことから話し始めた。高校を卒業して、大学に入って出会った妻との話、大学を卒業してから始めた仕事にやりがいも何もないこと、組織と言う枠組みに入ってしまった自分の情けなさ、そして、今まで募らせていた正孝に対する思い。
僕一人だけ、変わらずのままなのかと思っていた。
「……それを聞いて、俺はどんな反応をして良いのか分からない」
「正孝の話を聞かせて」
「……俺はお前が好きなままだ。けど、彼女はいる」
「じゃぁ、別れて」
「……そう言って、お前は離婚できるのかよっ……!」
変わっていなかったのは、正孝も一緒だった。そこから新しく付いた火は、消えることなく、僕たちを燃え尽くすように火の粉を上げていく。ドロドロと溶けたマグマのような感情が、互いを包み込んで、変貌させてしまった。
一度付いた火は、身を焦がしていった。
体を重ねながら、いろんなことをしゃべった。正孝が夢をあきらめた理由や、ずっと僕のことを気にしていたこと。そして、最終的に行きついた答えは、互いの伴侶と別れて、これからずっと一緒に居ると言う、人を不幸にさせる最悪な結末だった。
「……後悔はさせない」
「それは僕も一緒だよ」
「じゃぁ、一緒にいよう。これからも、ずっと……」
僕はそうだね。と呟いてから、正孝の腕を優しく振りはらった。一度会ってしまえば、こうなってしまうことは分かっていたから、余計に会いたくなかったのだと思う。僕も正孝も、会いたかったなんてことは一言も言わなかった。僕たちが自分を持って、組織の一員になれるためには、一緒に居ないことが一番だった。
それでも再び出会ってしまった、S極とN極は強力な磁力でくっ付きあい、二度と離れることが出来なくなってしまった。他人を傷つけても、一緒に居たいと願った。
思った以上に、妻は理解力のある女性で、別れてほしいと言っただけの僕に「分かりました」と、事務的な返事をした。一方的な別れだったので、慰謝料でも何でも払うと僕は言ったが、「子供の養育費だけで結構ですよ」と微笑まれ、僕は申し訳ない気持ちになった。
手に入る給料の半額を、娘が高校を卒業するまで払い続けると言うのを取り決めて、僕たちは正式に離婚した。会いたいときに子供に会って良いと妻は言ってくれて、そんな優しさも正孝に似ているんじゃないのかと、そんなことを考えてしまった。
最後の最後まで、妻は僕に、ボランティアみたいな愛情を注ぎ続けてくれた。勝手に別れてほしいと言ったのに、理由も尋ねない妻は「あなたがいつか、私の元から離れていくのは分かってましたよ」と、満面の笑みを浮かべて、子供を抱きかかえ、出ていく僕を見送ってくれた。
行くところは一つだけで、約束した時間に、僕は正孝が来るのを待っていた。予定していた時間よりも、10分ほど遅れて、正孝は僕の前に現れた。
左の頬が、真っ赤に染まっていた。
「……ごめん、遅くなった」
「裏切られたかと思ったよ」
笑いながらそう言うと、「そんなこと、俺にできるわけねぇだろ……。俺はお前に溺愛してるんだ」と恥ずかしそうに言って、俯いていた。僕だって、真剣に正孝が裏切ると思って、この場で待っていたわけじゃない。絶対に来ると言う自信は、あったんだ。
「その頬、彼女にやられたの?」
「……あー、あぁ。思いっきり殴られた」
「凶暴な人と付き合ってたんだね」
クスクスと笑っていると、正孝は「お前の方は?」と気まずそうに尋ねてきた。僕の妻の理解力の良さを説明してやると、正孝はケラケラと笑って「すげぇな」と呟いた。こんなところで話す暇があるなら、今から住む新しい家へ行って、新しい生活を始めたいから、僕は正孝の腕を引っ張って歩き始めた。
「さ、一からやり直そう」
「……あぁ」
「僕、すでに借金抱えちゃってるよ」
「……関係ねぇよ」
正孝は自信の籠った声で僕の手を握ると、少し前を歩き始めた。
僕たちが選んだ答えが、ハッピーエンドに繋がるかどうかなんて、神様にしか分からないことだ。
それでも僕が愛する人は、正孝しか居ない。
<<<<<<<<<<<
Index
>>>>>>>>>>>