素直になれない


「……俺、部署移動しようかな」
 何となくそう言ったら、井本に「そのほうがいいんじゃない?」と肯定された。
「だってさ、なんか三枝先輩見てたら可哀相だもん。素直になれないのは性格だし仕方ないかもしれないけどさ、言い方ってもんがあるだろ? いくら好きな相手だからって、あんなの今時の小学生でもやらないよ」
「俺の小学時代は二十年前だ! 二十年前を基準にしろ!」
「とにかく、ガキでもやんねーようなことをいい年こいた大人がやるなって話」
 ぐさりと言葉が胸に刺さる。
「白鳥さ、三枝先輩に嫌われたいの?」
「……俺は三枝先輩に嫌われることで、自分が正常だと思いたいのかもしれない」
「はぁ?」
「だって男が男を好きになるって異常だろ? それに例えば今、俺が三枝先輩に好きだといったところで、その言葉すら嫌がらせだと思われそうじゃん……」
「今更?」
 そう、今更の話だ。何で素直になれないのか、じっくり考えた答えがこれだが、俺は無意識にもプライドが出ていたのだ。三枝先輩に嫌味を言ったり、思ってもいないことを口走るのは、天邪鬼もあるが嫌われてこの気持ちを吹っ切りたいだけだ。そんなためだけに、三枝先輩はストレスを抱えている。
「記憶喪失になりたい」
「部署異動はどうなった」
「俺、三枝先輩を好きにならなきゃ、いい後輩だっただろ?」
「そりゃ……、仕事も出来て、表面上は慕ってくれるんだから、いい後輩だよな。あと気遣いもできる。むしろ傍にいてほしいって思うわな」
「なぁ、井本」
「なに?」
「俺を殴って記憶喪失にしてくれ」
「それこそそういうのは三枝先輩に頼めよ。喜んでやってくれるんじゃね?」
 三枝先輩ならニコニコ笑いながらバールのようなもので殴ってくれそうだ。
「俺は一度ぐらい死んだほうがいいのかも」
「あぁ、バカになっちゃったよ。誰かこいつを止めてほしいな」
 どんどんと熱を失っていくコーヒーカップを両手で挟みながらうな垂れる。井本が「あ」と言った気がしたけれど、俺の耳にはほとんど入っていなかった。
「おい」
 パコンと何か柔らかいもので頭を叩かれる。振り返ると三枝先輩が不機嫌そうに俺を見下ろしていた。手元には丸めた書類がある。
「そんなので叩かれて、俺の能力が落ちたらどうするんですか」
「お前、記憶喪失になりたいんじゃないのか」
「えっ……、いつから聞いてたんですか」
「いい後輩だっただろ? から」
 際どい部分から聞かれていたのでどきりとしたけれど、三枝先輩は平然とした顔で俺を見ているから好きだとかそういうのは聞かれていないみたいだ。やっぱり三枝先輩はいい後輩がほしいんだろうな。まあ、そうだろう。俺もいい後輩でいたい。
「俺、明日から一週間出張なんだけど、その間、これ頼むわ。……ちなみに課長命令」
 頭を叩いた書類を渡されて、何も言わずに受け取る。明日から三枝先輩出張なのか。なんだか寂しくなるな、と思ったけど、そんなことを言ったら迷惑だしきっと口には出せない。
「はあ、課長命令なら仕方ないですね」
「先方には俺がいない間、お前がやるって伝えてあるから。まあ、そこまで忙しくないから大丈夫だと思うけど」
「そうですね。これ以上、先輩から仕事取らないよう適当にやっておきますよ」
「お前本当に記憶喪失になればいいのにな」
 憎々しげな表情を浮かべた三枝先輩はそう吐き捨てると俺の前からいなくなった。ああ、明日から一週間会えないって言うのに、俺はどうしてこんなことを言ってしまうんだろう。がっくりと項垂れながら渡された書類に目を通す。几帳面な性格をしている先輩は、いくつか付箋を付けて注意事項を書いてくれている。俺じゃなくても、ここまで書いてくれていたらできただろう。
「ある意味すげーよ。あそこまで嫌味言えるって」
「……言いたくて言ってるわけじゃ、ない」
「嫌味だよ、バーカ」
 井本は冷めた目で俺を見下ろすと空になった紙コップで俺の頭を叩いた。言い返す気にもならなかった。
 三枝先輩は現場の下見も兼ねて、関西方面に一週間の出張だ。その間の仕事は上手く割り振られていたけれど、やっぱり一番仕事が出来る俺が少し多めだった。もちろん、先輩の仕事を引き受けるのは喜んでやる。けれど先輩はどうだろうか。課長命令だから仕方ないもの、俺に借りを作るのは嫌なはずだ。俺も分かっているのに嫌味を言ってしまった。
 最初にやたら評価が良かっただけに、俺の行動はどん底まで落とすのは簡単だった。そこから這い上がるのはかなり難しいし、何より俺の行動が反省しているように見えないから現在も低迷を続けている。俺に出来ることと言えば、任された仕事を真面目にやるぐらいだ。
 先輩が出張に出て三日ぐらいは何事もなかった。先輩の仕事はしっかりこなしていたし、そう面倒な話もなかった。四日目に事件が起こる。その日は自分の仕事が早く片付いたから、何となく先輩の仕事を見直していた時のことだ。注文書の数字がおかしい。ゼロが一つ多い。入力したデータも注文書に沿って入力されているが、この顧客はこんなに注文しない。納期はまだ先だし、俺が下手に手を加えるより……、いや、ある考えが浮かんで俺はデータの改ざんを行った。注文書とデータの数字が違えば、最終チェックで先輩のところへ連絡が来るだろう。正しいデータを入れておけば先輩も無意識にやったと思い込んでくれるだろう。単純だから。
 先輩がいない間の問題はそんなもので、戻ってきて「ありがとな」と言われ、お土産を受け取った。注文書の件を伝えようか迷ったけれど、どうせ後になれば分かる。実際、それが表面に出てきたのは、先輩が戻ってきて二日後だ。注文書と入力されたデータに相違があると、製造部から連絡が来た。
「え!? ……あ、あぁ、これ多分、注文書が間違ってる。先方に確認するよ」
 少し慌てた様子でそう答えた三枝先輩は注文書を見つめている。何度か首を傾げていたが、今は原因を探るよりも客先への確認が優先だ。先輩は落ち着きを取り戻して受話器を取った。
 やはり客先の発注ミスだった。先輩も出張前で仕事を終わらせなければいけなかったから慌てて気付かなかったのだろう。いつもだったらこんなミスしない。単純な先輩のことだから無意識にいつも通りのデータを入力したと思ってくれるだろう。俺はそう信じていたのだが、どうも今回の件、先輩の中では納得できなかったようで何度も何度も注文書を見直していた。
「なあ、白鳥」
「……何ですか。今、見ての通り、俺は物凄く忙しいんです」
 先輩に構っている暇はないと態度で表す。手元に発注書がある。
「作業しながらでいいから聞いてほしんだけど。お前なら出来るだろ」
「えぇ、出来ますよ。ま、電話かかってきたら無理ですけど」
 誰か俺に電話を掛けてくれ! と念じながら俺はキーボードを打つことに集中する。先輩を意識すれば思ってもないことを口にする。口を滑らせた挙句、データ間違ってたんで直しておきましたよ、なんて上から目線で嫌味のように言ってしまうのだ。俺は別に先輩のミスを論うつもりなんてない。
「出張前にきた注文なんだけどさ、俺、確実に注文書通りにデータ入力したんだよね。チェック入ってるし。なのに帰ってきたら、注文書と入力データが違うって言われたんだ。注文書が間違ってたから、最終チェックで気づいて良かったんだけどさ、どう考えてもおかしいんだよ。ここ、スルーされるはずだったんだ。だから俺さ、このデータ誰か弄ってないか、調べてみたんだよね」
 ぎくりと俺の顔が強張る。発注から出荷まで一貫されたシステムはどこの誰がどう入力したのか、責任者クラスになると確認できる。俺はまだ平だから確認などできないが、主任の三枝先輩は別だ。
「白鳥。お前、データ変更したな?」
「………………はい」
「ちょっと来い」
 わざわざ呼び出されたんだから、最悪は想像していた。どうやって言い訳しようかと思ったが、ここまで嫌われてるんだからいっそ消えたくなるレベルまで嫌われてしまえば俺も諦めがつくんじゃないだろうか。
 部屋から出て隣の会議室に三枝先輩が入る。逃げ出したいけどデータの改ざんがバレている以上、俺は弁明する必要がある。そこで余計なことを口走らない。
「そこ座れよ」
「……はい」
 事故を未然に防いだ、と言う点において、俺は褒められてもいいと思うが、元々嫌われている俺が勝手にデータを変えたなんてことをすれば怒るのは当然だ。対面に座った三枝先輩はわざわざ印刷したデータの記録と注文書を俺の前に置く。
「元はと言えば俺がしっかり確認しなきゃいけなかったから白鳥には凄く助けられた」
「そうでしょう」
「けどな、俺が間違ってるって気付いていたならどうして帰ってきてから報告しなかった? 俺はちゃんと最初に教えたよな。報告連絡相談って」
「…………すみません」
 黙っていたのは俺のせいだ。そこは素直に謝ろうと思ったらすんなりと謝罪の言葉が出てきた。その前に少し調子に乗ったから余計だ。
「これもお前の嫌がらせなのかなって思ったけど、さすがに足を引っ張るほど白鳥はバカじゃないし、なんせ改竄した記録は残るんだから出世することしか考えないお前のことなら、むしろ間違えたまんまにしてただろ」
 きっと昔の俺だったら気づかずにそうしていただろう。間違いなくそう言い切れる。
「なあ、白鳥。お前は何がしたかったんだ?」
 三枝先輩は素直に疑問をぶつけてきた。もういい加減、はぐらかして答えるのはやめようかと思った。
 俺も辛い。けど、一番辛いのは三枝先輩だ。
「……先輩がこうやって気付くって分かってたから、わざと黙ってたんですよ。そのまま過ぎれば万々歳ですしね。ていうか、俺は先輩を助けてあげたんですよ? どうして怒られなきゃいけないんです」
「はぁ? 意味が分からない」
「俺も、よく分かりません」
 三枝先輩はもう一度、「はぁ?」と言った。今度は感情が篭っている。俺はどうして、最後の最後まで素直になれないんだ。なんではっきりと言えないんだ。言葉にならなくて、ぐっと拳を握り締める。その姿を見ていた三枝先輩が、呆れたようにため息を吐いた。
「あぁ、もう、ほんっとーにめんどくせぇ奴だな。本当のことは言わなくていい。ずっと嘘吐いてろ。お前の本心は、その反対だと思うから」
「……え」
「課長とか、係長とか、その他お前の同期とか、みんなから言われた。お前の言ってることは全部本心じゃなくて、反対だってな」
「ち、ちが……」
「お前、本当は俺を助けるつもりでデータ改ざんしたんだろ?」
「……ちが」
 う、と言いかけて飲み込む。俺の気持ちはほとんど三枝先輩にバレているのかもしれない。それなのに嘘を吐き続けるのはただのバカじゃないのか。いや俺は元々バカだ。好きな人に素直になれない大馬鹿者だ。
「そういや、お前、俺のことは嫌いじゃないって大声で叫んでたな。嫌味を言われるとついつい忘れちゃうんだけど、あれは珍しく必死だったもんな。良かった。俺、お前に嫌われてなくて少しホッとした」
 三枝先輩は嬉しそうに笑って俺の肩を叩いた。ニコニコと楽しそうに笑う顔。それから気を許しているその態度を見て俺の中で何かが弾けた。ブチンと。
「……は、あ、……え、ちょ、おい、白鳥ィィィイイイ!!!」
 衝撃と一緒に目の前に星が飛んだ。
「はい」
「何やってんだよ……、気持ち悪いな!!」
 そう怒鳴ると三枝先輩は俺を置いて会議室から出て行った。
 ブチンと弾けたのは俺の理性だ。そしてキスしたら殴られた。

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