飛べない鳥


 彼は、青い空すら憎かったと言った。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってヤツですか」
 そう尋ねると、彼は不思議そうな顔をして首をかしげた。ことわざの意味が分かっていないようで、俺が言った言葉を何度か反復させていた。
「確かに朝が来なければいいなって思う日もあるけど……、お坊さんと今朝ってどういう関係があるの? 早起きだから?」
 袈裟と、今朝。頭が悪いと知っていたが、ここまでとは思わなかった。
「……坊主が首から提げてる帯のことを、袈裟って言うんです。朝のことじゃないですよ」
「あぁ、そうなんだって……、お坊さんってそんなのつけてたっけ?」
 どんどんと話の主旨が変わっていくのを感じて、息を吐いた。昨日よりか幾分、顔色がいい。俺が来てから数ヶ月経って、肉付きもよくなったような気がする。しかし、遠くを見つめる目は何も映してないように見えた。彼がそんな目をする理由は、いろんな人から耳にしていたので分かっているが、気づかないようにしていた。それが彼のためだと、思ったからだ。
「とにかく、坊主が憎かったら、それに関わるものまで憎いって意味ですよ」
「そうなんだ。確かにそうかもね」
 そう言って彼は俺を見て僅かに微笑むと、憎いと言った空を見つめていた。彼が愛した人の名でもある、空を。
「いい天気ですね。どうです、外にでも行きませんか?」
「……え?」
 彼は驚いたように目を開き、俺を見つめている。困ったように笑ってから、首を振った。
「やめたほうがいいよ」
「どうして? 今日は戻らないから大丈夫でしょう」
 兄の予定はほとんど把握していたから、今日は戻らないのを知っている。なのに、彼は目を伏せてまた首を振った。どうやら、理由は兄だけではないようだ。
「外へ行けば、全世界の人まで憎くなるだろうから、やめておく」
 彼にここまで言わせないと、自由に対して憎しみを覚えている感情に気づけなかった。俺がここに来るまでの十一年間、一時は外へ出ていた彼であるがある日を境にぴたりと出なくなった。血管が透ける肌は病的に白く、ただでさえ色素が薄い髪や目には生気を感じられなかった。成人男性にしては細すぎる体に、痛々しい痣がくっきりと写っていた。心なしか、頬も腫れていて唇は青かった。気にせず見ようとしていたが、生きる希望すら失った茶色い目から視線が逸らせない。
「桜が、綺麗なんですよ。今年は遅咲きですから、今が満開だとか」
「……だから、行かないって。それにさく……、ら、は……」
 鬱陶しそうな声から一変して、涙声になる。顔を覆って俯いてしまい、肩が震えていた。一瞬、情緒不安定なせいで悲しい感情がいきなり襲ってきたのかと思ったが、どうして泣いているのか分かってしまった。彼には、桜、と言う娘がいる。その名前を口にした途端、家族に対する情がこみ上げてきてしまったのだろう。骨しかない白い腕を掴む。
「今の桜は、今しか見れないんですよ。行きましょう?」
 ここから逃がしてやれないのならせめて、彼に今だけの風景を見せてやりたかった。家族と同じ名の物を見るだけで満足するかどうかは分からないが、こんなところで閉じこもっているより、断然マシだろう。俺の手を振り払うことも出来たのに、彼はそうしようとしなかった。引っ張られるがまま、立ち上がる。
「……そうだね、今しか見れない」
 何かに諦めたような声だった。おそらくだが、彼の中ではもう、家族には会えないと思ってるのだろう。今すぐにでもここから出してやりたい気持ちは強いけれど、俺にそこまでする権限はないし、逃がしたところで彼の望む結末にはならない。兄の執念がどれほどのものなのか、弟である俺が一番知っていた。外へ出ると、まだ春になったばかりの冬を些か感じさせる風が吹いた。
「寒いな」
「上着、取ってきましょうか?」
「いや、すぐに帰るから良いよ」
 穏やかな笑みは、彼本来の笑顔だった。ドキリと心臓が高鳴り、心拍数が速くなる。茶色い目をまともに見ることが出来ず、車のドアを開けた。学力も体力も才能も何もかも俺を上回っている兄であるが、彼の笑顔を引きだすことはできなかった。些細な優越感かもしれないが、兄が彼に捉われた原因がこの笑顔だから劣等感は凄まじい。殺したいぐらい、憎いはずだがそれは出来なかった。
 彼が自分らしさを取り戻したのは、俺が来てからだ。兄は分かっている。この檻の中で彼が自分らしく居れるのは、俺のおかげだ。
 そして、彼は分かっているのだろう。俺までも、彼に好意を持っていることを。
 公園の前に到着したが、彼は車から降りようとしなかった。近辺の公園はちらほら小学生がサッカーボールで遊んでいて、声がこちらにまで届いていた。数は五人から六人といったところだろうか。
「降りないんですか」
「ここからでも十分見れるから……、いいよ」
 彼はそう言いながら、桜へ視線を移すことは無い。ここまで来たのに怖気づいてしまったのか、手が震えていた。帰ろうと思いハンドルに手を掛け、ギアを入れようとしたところで手を掴まれる。
「……まだ、帰らないでほしい」
「分かりました」
 今にも泣きそうな顔をしているのに、どうして帰りたくないと言うのか分からなかった。俺が頷いたのを見て、彼は公園を見る。震える手で公園の一角を指さす。そこには一人の男の子がベンチに座っていた。陰鬱な顔をして俯いている。陽に透ける髪の毛は、彼と同じように茶色かった。年齢は小学校高学年ぐらいだ。
「あの子、どうしたんだろう」
「……え?」
「なんか、凄く考え込んでる。僕が行ったら怪しまれるから、拓馬君、聞いてきてあげて」
「……へ?」
 俺が行ったらもっと怪しまれるだろうと思ったが、縋るような目で見られて断れなかった。やれやれと息を吐いて車から降りる。彼は最後まで心配そうな目でベンチに座っている男の子を見つめていた。扉を閉めるとスモークのせいで、中の様子は見えなくなる。柵を乗り越えてジッと地面を見つめている少年に近づいた。
 言われるがままにここへ来てしまったが、どうやって話しかけていいのか分からない。どうしたの? 何やってるの? とか聞いたって、普通の子は俺のことを怪しむはずだ。それに通報される可能性がある。無茶なことを頼んできたな、と悪態を吐こうとしたところで、少年が顔を上げた。髪の毛と同じように、目も茶色い。その目が俺を見て、訝しげに歪んだ。
「…………何ですか」
 無愛想で低い声で、そう聞かれた。何と言っていいのか分からなくて、後頭部をガリガリ掻く。さっきまで見ていた茶色い目と、どこか似ているその少年は眉間に皺を寄せて俺を見上げている。表情は全然似てない。そう言えば、この辺は彼の住まいの近くだった。
 僕が行ったら怪しまれるから、拓馬君、聞いてきてあげて。
 そう言った理由が、ようやく分かった。自分が話しかけてやればいいのに、車の中からしか覗けないのだから可哀想だ。少年の隣に座ると、あからさまに距離を置かれた。
「何を、悩んでるの?」
 ポケットの中からタバコを取り出して火を付ける。少年は俺の顔を睨みつけて、言葉を発しようとはしなかった。彼の子だと気付いてからは、似てる所ばかりを探してしまう。すると表情も自然と、優しくなってしまった。彼は何度か口を開きかけては、固く閉じてしまう。まだ警戒されてるようだった。
「折角、桜が満開なのに地面ばかり見つめてちゃ、時間が勿体ない」
「関係ないじゃないですか」
 少年の表情は変わらなかった。うるさい、と訴えているのを見て、鼻で笑う。少年がどれほど苦労しているのか知ってるから、同情しかできなかった。悩んでるのも、多分、兄のせいだ。
「そうだね。確かに関係ない。でも、君のその表情を見て心配する大人もいるんだ。不思議だね」
「って言うか、おじさん、誰ですか? 警察、呼びますよ」
 おじさん、という言葉が、凶器になって俺に突き刺さった。そうか、これぐらいの子にはおじさんに見えるのか。まだまだ若いと思っていた自分が情けなくなる。
「暇人だよ」
 今度は、見下す目で見られた。どうやら、表情にすぐ出てしまうよく言えば素直な子のようだ。
「で、君は、何を悩んでるの?」
 二回目の質問で、ようやく少年は内容を話してくれた。警戒が解けてるわけではないようで、距離は一定以上に取られている。しっかりした少年だ。どっかの誰かさんと外見は似ているのに、中身は全く似ていなかった。視線がまた、地面へと落ちる。
「誕生日を祝ってやれないのが、悔しい」
 憎々しげに呟く声には、憎悪が籠っていた。少年の下には、確か桜と言う妹と弟が居たはずだ。その二人の誕生日を祝ってやれないから、悔しいのだろうか。そう言えば、妹の誕生日はもうそろそろだったはずだ。
「でも、俺は色々貰ってるし、本当は祝ってやんなきゃいけないんだろうけど、うち、貧乏だから金とか無いし」
 少年の話と、俺の想像が、食い違い始めた。少年はいっぱい貰っている、と言うのは、どういうことだ。兄弟達を祝えないなら、少年だって祝ってもらえないだろう。なのに、いっぱい貰ってると言うのは……。俺が疑問に思ってることなど気付かず、少年の話は続く。
「それにアイツんちは金持ちだから、俺が祝ってやっても、絶対に喜んでくれない。だから誕生日も聞いてない。けど、それでもいいのかなって……」
「……えーっと、それは友達?」
「そう」
 金持ちの友達がいると言うのは、初めて知った。まぁ、でも、友達が出来てると知ったら、彼は喜ぶだろう。きっと、この少年よりも子供っぽい顔で喜ぶはずだ。良い報告が出来るのは、少し嬉しい。俯いている少年の頭をがっちり掴むと、驚いたようで体を震わせた。
「その友達は、おめでとうって言ってくれるだけでも嬉しいと思うよ」
「……何で」
「だって、祝う気持ちが大切だからだよ。言葉にするだけで、気持ちは十分に伝わる。プレゼントするだけが、お祝いじゃないんだよ」
 少年の目が見開く。それから気恥ずかしそうに俯いてしまったので、頭を撫でた。公園にある時計を見ると、そろそろ四時半になりそうだった。帰ってこないと聞いていたけれど、そうフェイントを掛けて帰ってくることもあるので、そろそろ帰らなければならない。少年の頭から手を離し、タバコを銜えたまま立ち上がった。
「もし、それで喜んでくれなかったら、そいつは本当の友達じゃない。やめちまいな」
「りゅ……、あ、アイツはそんな奴じゃ」
「そんな奴じゃないなら、大丈夫だよ。むしろ、おめでとうすら言ってくれないってショック受けてるかもしれない。だから、まずは誕生日を聞くところから始めてみな?」
 そう言うと少年は笑顔を浮かべて頷いた。幼い笑顔は胸をときめかせるまではいかないものの、彼とそっくりだった。煙を吐きだしながら、車へと戻る。気付けば少年の姿は無くなっていたので、さっそく友達の所へ行ったのだろう。ドアを開けると、心配そうな目で彼は俺を見つめた。
「……どうだった?」
 どう説明しようか迷い、まずはタバコを灰皿に押し付けた。
「友達のことで、悩んでいたみたいですよ」
「え? 友達、居るの!?」
「えぇ……、本当の友達だって言ってました」
 彼は嬉しそうに笑った。満面の笑みだった。
 今までの笑顔が全部嘘だったことを知り衝撃を受けたけれど、それでも、彼が笑ってくれるなら俺は満足だった。

 その日の夜、帰宅しないと言っていた兄が帰ってきて、彼とケンカした。その声は屋敷中に響いていた。物の割れる音、怒鳴り声、騒動は夜中まで続いていた。遂に、彼の限界が越えてしまったようだ。頬を叩く音でピタリと声は止み、一定の間黙り込んでいた彼は堰を切ったように泣きだした。彼の限界を越してしまったのは、俺のせいだ。俺が外へ出したりしなければ、彼が解放されたいと訴えることもなかっただろう。やめろ、と叫び声が聞こえた。
 彼の部屋は、俺の部屋の隣にある。襖一つしか隔てていないせいで、声は丸聞こえだ。何をしているのかも、すぐに分かる。服を引き裂く音が聞こえて、やめてと拒絶する声が僅かに上ずっていた。
 兄も気付いている。俺が彼に好意を持っていることを。俺が彼に手を出せないと分かって、部屋を隣にした。
「ァ、ッ……、いっ……、やめ」
 もうほとんど、抵抗できないはずだ。無理やり出されている声を聞いて、反応してしまう自分が憎かった。わざと声を聞かせる兄も憎い。自由を憎むあまり、美しい青空までも憎んでしまう彼の気持ちは、十分に理解出来た。
 俺も、兄を取り巻く全てが憎かった。
「やっ、いたっ……、やめ、あき、づっ……、うぁ」
 肉のぶつかる音が、声に交じって聞えてくる。抵抗できなくなって、喘ぐだけしかできなくなった彼の声は、俺の脳に響いて信号を送りだす。こんなことしてはいけないと分かっているのに、手は止まらなかった。低い兄の声が聞こえてくる。彼を挑発して、煽っていた。反論しようとするたびに腰をぶつけ、意見を消してしまう。彼が兄の好意を受け入れない限り、優しく抱かれることはない。
「……なん、で、ッ、んっ、……こんな、ことっ……」
 彼は泣いてるのだろうか。どうしようもない疑問を兄にぶつけるなんて、彼らしくなかった。
「お前が欲しいからだ」
 兄の声ははっきりしていた。それから短いうめき声を出して、肉の打つ音は消え去った。
「……僕は絶対に、秋月の物にはならない」
 凛とした声だった。彼がこんなことを言うのも初めてで、前々から募っていた気持ちが溢れだしそうだった。彼の意見に対して、兄は何も言わずに部屋を出て行く。まるで犬がケンカに負けて逃げて行くようだ。
 兄は、本物のバカだと思う。こんなことをしたって、彼が手に入るはずがない。分かっているのに、止められなくなってしまった哀れな人間だ。彼の意志を聞いて、俺も決めた。
 トントンと襖を叩いても、反対側から返事は無い。そっと襖を開けてみると、彼は裸のまま布団の上に寝転がっていた。赤く染まった目は、天井を映しているだけだ。俺を見ようともしなかった。素っ裸のままで恥じらう様子もない。
「嵐さん」
 名前を呼んでも、返事は無い。
「俺はあなたの願いなら、何でも叶えますよ」
 そう言うと、やっと嵐さんは俺を見た。あんなにも綺麗で澄んでいた茶色い目が、今は濁って何も映していない。俺を見てるようで、見ていなかった。
「じゃ、ここから出して」
 投げやりな言い方で、俺の言葉なんか信じてなさそうだった。つい六時間前まではあんなに笑っていたのに、その笑顔を簡単に消してしまう兄が憎い。この家も。兄と同じ血が流れているこの体も。
 嵐さんをここから出すには、兄を消すしかない。すれば、俺も嵐さんの前から消えなければいけなくなるだろう。それが一番だからこそ、悲しかった。
 兄がいなければ、俺は嵐さんと会うことも無かっただろう。
「分かりました」
 嵐さんがあの時と同じ笑顔で笑ってくれるなら、それで良かった。
 翼をもがれて閉じ込められてしまった彼を、美しい空の下に解放してやりたかった。

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