熟れる夏


 カズ兄に仕事が決まった。
 どうして、東京での職場を捨ててこっちへ帰ってきたのかと尋ねたら、カズ兄は仄かに笑って「トラブルを起こしちゃってね」と誤魔化された。トラブルを起こしたのは本当だと思いたいけど、詳しい理由を話してくれるほどまだ俺のことを信頼しているようではなかった。
 カズ兄はそれなりに一流の企業で働いていたらしい。本人からではなく、カズ兄の両親から聞いた。家が近いこともあって、たまたま呼び出された時にその話を聞いた。カズ兄の両親は俺のことも自分の息子のように思ってくれていて、しょっちゅう呼ばれていた。
 カズ兄の両親は俺のことをよく呼んでくれるのに、カズ兄は俺を誘ったことはない。でも、カズ兄は誘ったら断らない。そう分かっているから、俺も堪え切れなくなった時にカズ兄を誘ってしまう。そうして何も無い時もあれば、ヤるときもある。決して、カズ兄は俺を拒まない。でも、誘ってはくれない。いつも一方通行だ。
 拒まないくせに誘ってはくれない。それがまたジレンマになって襲いかかってくる。カズ兄は地元でも有名な企業に就職したらしい。どうやら、前の職場が有名だったこともあって、是非、うちに来てくれと誘われたようだ。あっという間に仕事が決まってしまい、カズ兄は困ったように笑っていた。
「……まぁ、仕事しないと生きていけないしね」
 本当はもうちょっとぐらい、無職生活を味わうつもりだったらしい。でも、このチャンスを逃してしまうと後に苦労しそうだからと、甘んじて受けていた。それにしても、久しぶりに地元へ戻ってきたと言うのに、この順応性の良さはさすがとしか言いようがない。カズ兄はどこへ行っても溶け込める才能を持っていた。だから新しい職場にもすぐ馴染んで、月に二、三回は、飲みに行ってるそうだ。無口で協調性なんて全くない俺とは、正反対だった。カズ兄はあまり酒が強く無くて、すぐに酔っ払う。ふらふらとそのまま、どこかへ消えてしまうのではないかと、酔っているカズ兄を見ながらそんなことばかり俺は気にしていた。
 こっぴどくカズ兄をふった男がここにいるのに、気まずくはないのか。そんなことばかり気にしていて、カズ兄の本心からは逃げていた。本当のことを言われるのが、怖い。
 カズ兄は優しいから、俺の好意に気付いて受け止めてくれているだけだ。勘違いならしてもいいと言われたから勘違いするようにしてるけど、嫌いじゃないだけで好きではない。カズ兄の好きな人は、あの、こっぴどくカズ兄のことをふった今や幸せの絶頂に居るあの男だ。

 季節はどんどんと夏に向かっている。天気予報では今年の夏は猛暑だとか、電気が足りないとか、未来に対して絶望ばかりを報じている。遂に梅雨が到来して、蒸し暑さが加速した。クールビズとか言って薄着が流行りになり始めているものの、民間のサラリーマンにそんなふざけた薄着は許されない。せいぜい許されていることは、ネクタイを外すぐらいだ。客先に向かう時は、それすらも出来ないが。
 太陽が真上にある。じりじりと焼きつけられるような熱が頭を襲って、下からも熱気が込み上げてくる。最近、やたらと暑い。夏が近づいている証拠だけれど、この梅雨時期はあまり好きではなかった。社用車に乗っているときは心地いいけれど、外へ出ればサウナだ。いや、まだ乾燥してる分、サウナのほうがマシかもしれない。
 営業報告会を終え上司たちと飲みに行き、家に帰る最中にカズ兄の姿を発見した。カズ兄の職場は、三駅向こうにある地元では一番大きい街の一等地にある。スーツを着てるカズ兄はまた違う雰囲気があり、学生服を着てた高校生の時を僅かに思い出させた。アパートの前で誰かと喋っている。肩を掴まれて、困っているのが見えた。気付けば駆け足になって、二人の声が聞こえてくる。
「先輩……、どうしていきなり居なくなったりしたんですか……!」
「説明したでしょ。僕は君のことすら騙していたんだよ? あの場所に居れるわけもない」
「でも、俺……。先輩のことが」
「井上君……。噂話が広まる前に、僕が消えてしまうのが一番だったんだ。黙ってたのは悪いと思ったけど……。君はどうやって、ここを知ったんだ?」
 カズ兄の声は困っているようだった。でも、話の内容から、痴話喧嘩だと分かる。足が震えて止まった。俺が行ったところで、どうしろと言うんだ。それよりも今、脳内を占めているのは、カズ兄が向こうで男を作っていたことだ。てっきり、あの男のことをずっと引きずっているものだと思っていた。
「明日も仕事でしょう? もう新幹線はないと思うけど、始発ならなんとか間に合う。朝には必ず帰ると約束してくれたら、家に泊めるよ」
 諦めたような声だった。対面に居る男は少し躊躇ってから、「はい」と小さく返事をした。アパートに消えて行く二人の姿を見つめながら、俺は携帯を取り出してカズ兄に電話を掛けてみた。
 カズ兄は初めて、俺の電話を無視した。
 ジワリと広がるこの嫌悪感は、梅雨の纏わりつくような暑さのせいなのか、それとも簡単に誘ってもらえるあの男に対してなのか、嫉妬する胸の中で感情は渦巻いていた。
 翌日の夜。カズ兄は何事も無かったかのように電話を掛けてきた。
『ごめんね、昨日は。珍しく早く上がれたから、寝ちゃってたんだ』
 いつもの口調、変わらないトーン。こんなにも簡単に、カズ兄は嘘を吐ける人だった。問い詰めればいいものを、俺は胸を抉られるのを感じながら、「そうなんだ」と言った。
『で、何の用だったの?』
「いや、特に用事はなかったんだ。ごめん、寝てる間に」
『いいよ、マサなら』
 声から、カズ兄の笑う表情が想像できた。
「……あのさ、今日は暇? 良かったら飲みにでも行かない?」
 もし、あの男が帰って無かったとすれば、今日は断るはずだ。試しているのに気付かれないよう聞くと、返事はあっさりとしていた。
『うん、暇だよ。行こうか』
 こんな一言でも、胸に広がる喜びが鬱陶しかった。試されているのか、からかわれてるのか分からないけれど、カズ兄はどんなことをすれば俺が喜ぶのか分かっている。それはやはり、年上であることと三年間同じ家に住んでいたからだ。歳が離れてると言っても、親戚の中では一番近かったから、カズ兄は俺のことを可愛がってくれたし、俺もカズ兄に懐いていた。いつまで経っても、カズ兄には勝てない。
 騙されているとしても、からかわれているとしても、カズ兄に翻弄されるならそれでよかった。
 一度、家に帰って着替えてから、駅前にある居酒屋へ向かった。カズ兄は週末で仕事がまだ終わってないと言うから、俺は先に飲んでいた。二杯目のビールを飲み始めたところで、戸が開いてスーツ姿のカズ兄が入ってくる。俺の姿を見つけるなりに、笑って手を振る。変わらない笑顔だった。
 カズ兄は対面に座るとビールを注文して、俺が頼んだきゅうりの漬物を指でつまんで口の中に入れた。その後、ペロリと指を舐めて俺を見る。
「どうしたの?」
「……いや、仕事はどう?」
「順調って言えば、順調かな。……まぁ、でも、前の仕事よりかは楽で助かるよ。残業は多いけれど」
 困ったように笑ったところで、ビールがやってきた。汗のかいた俺のジョッキにカズ兄は受け取ったジョッキをぶつけ、「乾杯」と言う。それから一気に半分ほど飲み干した。あまり酒が強くないカズ兄にしては、珍しい行動だった。目を見開いていると、「どうしたの?」とカズ兄が僅かに上目遣いでそう言う。
「ピッチ、早いね」
「まぁね。ちょっと嫌なことがあったから」
 その言葉にピンと来た。でも、俺のことだからそんなこと顔には出てないだろう。誤魔化すようにジョッキを手に取って、ビールをのどに流し込んだ。それから何を言おうか考える。
「へぇ、カズ兄にしては珍しい」
「どういうこと、それ」
 ムッとした表情を見せる、いつものカズ兄だった。
 カズ兄がいつもと違う理由は、おそらく、昨日来た男に違いない。あの男が誰だったのか、俺は薄々であるが感付いている。気になるけれど、口には出来なかった。俺があの男との関係を問いただせる間柄でないことはもちろん、どうせまたはぐらかされるだけだ。俺と同い年ぐらいの、若い男だった。先輩と言っていたからには、昔の職場の人間だ。三時間ほどたわいない話をして、そろそろ帰ろうかと言い出した時だ。飲みすぎたカズ兄は、足元がおぼつかなくなっていた。
「……大丈夫?」
「うー、んぅ……。大丈夫。マサ、お酒、強いねぇ……」
「カズ兄が弱いだけだろ……。営業だから、お客さんとは飲みに行ったりするし」
 カズ兄の腕を担ぎながら、会計を済ませる。外へ出ると、ムッとする茹だるような暑さが襲いかかってきた。夜になっても気温は下がらない。そう言えば、今日は真夏日を記録したらしい。明日は雨だとか。空を見上げると月は姿を現さず、分厚い雲が見えた。
 肌に感じる体温だけで、欲情する。じりじりと焼けるようなこの心情は、夏の太陽と似ていた。
「カズ兄、鍵は?」
「んー、ポケットの中……」
 部屋の前にやっと到着して、ポケットの中から鍵を取り出す。キーホルダーも何もついてない裸の鍵はどこか覚束ない。それを鍵穴に差し込んで、部屋の戸を開ける。室内は日中の暑さを閉じ込めているせいで、もっと暑かった。寝ているのか起きてるのか分からないカズ兄を、部屋の中に入れる。
 この部屋へ初めて来た時は、まだカーテンしか掛かっていなかった。しかし、それから数日でやっと部屋らしくなり、今は完全にカズ兄の家になっている。テーブルの上には書類が散乱しているけれど、部屋は基本的に片づいている。カズ兄は綺麗好きで、整理整頓が得意だった。掃除もマメにしているようで、ゴミなど見当たらない。
 ベッドの上に寝転ばせると、カズ兄が苦しそうにネクタイを外す。それから上着を脱いで、シャツのボタンを外した。そこに見える赤い痕。カッとなるような嫉妬を覚えた。
「……カズ兄」
「ん……?」
 眠たいのか、カズ兄の目はトロンとしている。真っ黒い目が俺を捉えて、緩やかに細められる。試されているのか、俺は。理性は吹っ飛ぶ寸前だ。
「昨日、ここに誰か来てた?」
 カズ兄は笑ったまま、返事をしなかった。
「来てたよね」
 言い切ると、少しだけ笑った。
「うん。来てたよ。マサは、ちょっと遠くから見てたね?」
「知ってたなら、どうして嘘を」
「どうするかなって思ったから。僕のこと、嫌いになっちゃったかな?」
 笑いながら尋ねるのは、俺が嫌いになれないと知っているからだ。プツンと理性が切れる音を聞いて、俺はカズ兄の上に乗っかった。乱暴な扱いをしても、カズ兄は拒んだりしない。俺を拒絶しない。俺が嫌いになれないことを知ってるのに、嫌いなったかと確認してくる。柔らかくて白い肌には他の男の痕跡が残っていて、俺の悋気を誘う。噛みついて重ねるように痕を付けたって、カズ兄は文句を一つも漏らさなかった。俺の嫉妬心すらも、受け止めていた。
 生まれて初めて、好きな相手に八つ当たりのようなセックスをしてしまった。その罪悪感は思ったよりも強く、忘れようと言われたことよりもショックだった。
 ベッドから降りて、床に寝ころぶ。てっきりカズ兄は寝ていると思っていたが、ベッドの軋む音が聞こえてきたから起きているのだろう。俺は寝たふりをした。
「……マサ、寝たの?」
 穏やかな声が降ってくる。それに反応はしなかった。パサと布団が降って来て、俺の体に掛かる。クーラーがかかってるせいもあって、床はひんやりとして寒かったから丁度良かった。
「怒ってるかな」
 機嫌を伺うような言い方だ。一度、寝たふりをしてしまった以上、答えるわけにもいかなくて黙り込んでいた。そう聞きたいのは、俺の方だ。
「マサにはもっと、いい人がいると思うんだ。……僕みたいなのを好きでいるのは、勿体ない」
 声が僅かに震えているようだった。カズ兄が何を言いたいのか、俺にはさっぱり分からない。暗に諦めろと言ってるのか。でも、十五年も好きだった人のことを、そう簡単に忘れられたりは出来ない。その気持ちは、カズ兄も分かっているはずだ。あの男のことを、好きなら余計に。
「……マサ」
 カズ兄の手が俺の肩に触れる。思わず、体を動かしてしまいそうだったが、必死にそれを堪えていた。スッと手が離れて、ベッドの軋む音が聞える。それからすぐに寝息が聞こえ始めた。
 これから茹だる夏がやってくる。俺達の関係は熟れることなく、じくじくと腐り始め、もう元には戻れない。

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