浮ついた心の対処法


「味噌汁、飲みたいねぇ」
「ありません」
「大根が入ったやつ」
「ご自分でどうぞ」
「温かい家庭的な料理、食べたいなぁ」
「ご勝手に」
 何気なく言った欲望を全て軽く流され、隣に座っている青年を見つめた。銀縁のメガネをかけていて、一度も染めたことがないと自称していた髪の毛は、言うとおり黒く輝いていて見るからにしてサラサラだった。外に出るのがあまり好きでないため、肌は日に焼けていなくて白く透き通っている。菜食主義で肉はあまり食べないためか、体の線は触れればすぐに折れてしまうのではないかと疑うぐらい細かった。静かに雑誌をめくる姿は自然なもので、表情から感情は伺えない。
 それでも、彼これ、2、3年寝食を共にしてきた経験と知恵、足りない残りはわずかな勘を頼りに青年の感情を予想する。
 怒っている。
 そう判断しても、感情に気づかないフリは得意なので、敢えてそこには触れなかった。
 青年はマメな性格をしていて、こう何かを食べたいと伝えれば、仕方なしに雑誌をテーブルの上に置いて、無言でキッチンに立ち、温かい家庭的な料理と、大根の入った味噌汁を作ってくれる。それなのに、本日に限ってその動きは見えず、その場に鎮座する石像のごとく、動く気配はなかった。
 怒っている。それも、かなり。
 分かってはいるのだが、今まで青年が下手に出て、自分の機嫌を取り繕っていたため、どうも自分が下手に出て機嫌を取り繕うのは性に合わない。青年が動かないと言うのなら、自分もそうしてやろうと勝手に脳内で城を築き上げ、その城の中に篭城する。
 青年の手には雑誌。
 自分の手にはテレビのリモコン。
 雑誌は読んでしまえば終わりに近いが、テレビは深夜まで放送されることを約束している。この場を動いたものが負けだと、勝手に勝負し、リモコンの電源ボタンに手をやった。
 カチ、カチ、カチカチカチカチカチ。
 何度かリモコンの右上にある赤いボタンを押すが、テレビが反応しない。目を凝らしてテレビをじっと見つめると、テレビは本体から電源が切れたらしく赤いランプが点灯していなかった。
 それでも自分が勝手に始めた勝負なので、負けるわけにはいかない。青年が痺れを切らして、立ち上がるのを待つことにした。
 時計の秒針と、青年がめくる紙の擦れる音だけが空間に響いている。暇なので、なぜ、青年が怒っているのか、足りないといわれている脳みそで考えてみた。
 青年を怒らせた記憶など、一切ない。それよりも、青年は滅多に怒ることがなかった。どれだけ自分が酔っ払って帰ってこようが笑顔で迎え入れ、帰りが遅くなるときだって連絡ひとつしなくても、ちゃんと帰ってくるのを待っていてくれる心の広い人だった。
 付き合い始めた最初のころは、ここまでしたら怒るのではないかと、正直怖気づいていたが、ここ最近では何をしても怒らないので青年が怒ると言うことを考えたこともなかった。
 そんな青年が、怒っている。
 それは非常事態なのではないかと、今更気づき、そっと機嫌を伺うように青年の顔を覗き込んだ。
 何気なく言った欲望を軽く流されてから、すでに10分は経っていた。
「……あの、怒ってます?」
「誰にですか」
「僕に」
「僕って言うキャラクターでしたっけ」
 青年は声音を変えることなく、雑誌を見たまま淡々と返答した。返答してくれたことに少し喜び、「僕ほど僕が似合うやつは世の中に存在しないよ!」と調子に乗って答えてみる。それでも、笑いもせず返事もせず目も合わせてくれないことにショックを受けて気落ちした。
 ちゃんと目を合わせてから謝ると言うのを信条にしているので、目が合わなければ謝りたくない。目が合えば、悪いことをしてしまったのかと尋ねようと思っているのに、勝手に決めた信条のせいで目が合わなければ謝ることもできない。それを知っている癖に、謝る機会さえ与えてくれない青年に、気落ちした気持ちが怒りになって跳ね返ってきた。
 性質の悪い、逆ギレと言うやつだ。
「言いたいことがあるなら、言いたまえ!」
「……じゃぁ、別れましょう」
 依然、青年は雑誌を見つめたままだった。逆ギレした声に相乗するのではなく、冷静に放った言葉は逆ギレして白熱している人を、凍りつかせるのに十分なほどだった。
 凍り付いてしまったせいで、怒りも覚める。
「……え」
「別に俺なんかいなくても、聡さんだったら大丈夫でしょう。もう、別れましょう。コリゴリです」
 青年は雑誌から目を離さずに、隣にいる恋人の聡へ突き放すように言った。目が合わないこと云々よりも、先ほどまで一人で勝手に勝負をしたり、脳内で築き上げた篭城に篭ってみたり、大根の入った味噌汁が飲みたいだの、家庭的な料理が食べたいと喚いていた時間が懐かしく思う。10分ほど前のことなのに、現状と比べると遥か昔のことのように思えた。
「へ、え、あ、ちょっと。俺と付き合ってって言ったの、清ちゃんじゃん。それなのに、清ちゃんが俺をふるってひどくない?」
 冗談を聞いているように、アハハと軽い笑いを漏らす。その笑いに動揺が見え隠れしていて、清ちゃんと呼んだ青年を見ている目もきょろきょろと泳いでいた。
「そうですね、ひどいかもしれませんね。けど、聡さんだったら大丈夫でしょ。さっきも言いましたけど」
「大丈夫じゃないよ! ご飯食べれなくなっちゃうじゃん!」
 つい、本音が出てしまい、自分より2歳年下の有野清真を見つめた。
「へぇ、俺、飯で聡さんを釣ったつもりないんですけどね」
 飯に釣られたわけじゃない! と大声で叫び、聡は必死に清真の考えを改めるように取り繕った。別れようと言われたのはショックだったが言うほど凹んでいるわけでもなく、それでもこんなに必死になるのはやっぱり清真の作る飯が美味いからだ。自分のために、自分が食べたいものをちゃんと作ってくれる清真がいなくなるのは、少し寂しい。それが嫌で聡は清真を引き止めている。
「もういいです。早く出て行ってください」
「嫌だよ! 俺、清ちゃんじゃないとだめだって!」
 居場所すらも奪われるなんて思ってもいなかった聡は、清真の腕をつかんだ。そのとき、手に持っていた雑誌が床に落ち、よれた格好で清真の足元に転がってしまった。清真はそれを見つめてから、腕をつかんでいる聡を見た。
「ウソツキ。ウソツキは大嫌いだって前に言いましたよね?」
 静かな声で糾弾した言葉は、もう一度聡を凍らせる。絶対零度の視線に、言葉通り凍りつけられた聡は言葉も発することができない。付き合う前から計算すれば、知り合ってから5年か6年ぐらい経つが、こんなにも冷たい目で見る清真を見たのは生まれて初めてだった。
 掴んでいた手を、そっと離される。
「去年のミスキャンバスでしたっけ。1週間前、駅前通で一緒に歩いていた女の子」
 一度、目を合わせたら、清真は聡から目を逸らさなかった。全てを見通しているメガネの奥の相貌は、鋭くて見ているだけで切り付けられているようだった。
「一昨日は、法学部の女の子と楽しそうにカフェテリアのテラスでおしゃべりしてましたよね」
 清真の言うことは身に覚えがありまくりで、聡は言い訳ができない。1週間前に電車でちょうど会った去年のミスキャンバスの女の子と、駅前通でケーキ屋巡りをしていたし、一昨日、大学のカフェテリアで女の子と和気藹々としゃべっていたのも本当だ。
「そんでもって今日、今年のミスキャンバスと、手をつないで歩いてましたよね。仲良さそうに。まぁ、聡さんほどの人だったら、ミスキャンバスでもモデルでもちょっと微笑めば近寄ってくるでしょうね。俺と一緒にいることが間違ってるんですよ」
「……いや、あの……。確かに、手はつないでた。けどね、けどね」
 言い訳ができないなら、身の潔白ぐらいは証明してやろうかと聡は両手を振って清真に力説する。清真の視線は絶対零度のまま変わらず、見ているだけで聡が寒くなってきてしまった。
 非常に怒っている。
 それも全て、女絡みと来ている。
 確かに自分の節操のなさは認めているし、隙あらば女の子を誘って遊びに行ったりしていた。それは聡にそれだけできる顔があるから、やってもいいものだと勝手に解釈していた。自分なりに上手くやっているつもりだったが、全て清真にバレていた。気まずさから、冷や汗が流れる。
「別に、付けるつもりはなかったんですけど、その女の子たちとラブホテル入ってましたよね」
 決定的な一言を突きつけられ、聡はぐうの音も出なかった。完敗だ。聡は2歳年下である清真に言葉でも脳みそでも勝てず、その場に土下座をすると言う屈辱的な格好をする破目になった。
「……別に謝らなくてもいいですよ。俺は、それが普通だと思ってるんで」
「いや、あのっ……」
「ずっと我慢してきましたけど、もう無理です。女抱いた手で、俺に抱かれないでください」
 突き放す言葉はまだ止まない。冷静に淡々と感情が一切こもっていない声が、凶器となって聡に降り注ぐ。ずっと我慢をしていて、ずっと知らないフリをしていたなんて、聡は気づいていなかった。女に手を出しているのになんか、分かっていないとバカにしていた。
 それこそ、付き合い始めた当初は、体を重ねれた喜びからか、毎日と言っていいほど清真は求愛行動をするオスのように聡を抱いていた。それも、今になると1ヶ月に1回、あるかないか程度。この前、セックスしたのはいつだったかと問われれば、思い出すのに数分から数十分かかり、最終的には分からないに行き着く。
 手を出さないことに、疑問も抱かなかった。毎日、飯を食べて、この家で寝て、朝から大学へ行く。そのサイクルが普通になりすぎていて、ちょっとした変化に鈍感になっていた。
「あ、あのっ……」
「はい、コートとかばん。荷物は追って送りますので、今すぐ目の前からいなくなってください」
 ダイニングテーブルの椅子にかけてあったコートとかばんを目の前に置かれ、引きずり出されるように外へ連れて行かれた。かばんとコートを両手で持ち、聡は現状の把握ができる前に「では、さようなら」と感情のこもっていない声で別れを告げられ、バタンと扉を閉められた。極め付けにガチャと鍵をかけらられ、内からロックまでされてしまった。
 追い出された。と遅れるように思考が付いてきて、何度か扉を叩いて、インターフォンを鳴らした。それでも、目の前にある扉が開くことはなかった。

 清真がそういう手段でくるなら、聡にも考えがあった。元々、清真とは付き合いたくて付き合ったわけではない。自分によくしてくれる家政婦さん的な感じで、いろいろしてくれる代償に体を差し出しただけだった。唯一の誤算と言えば、自分が女側になったことぐらいで、それ以外は何もなかった。
 最近流行のファッションに身を包み、茶色く染めた髪の毛をワックスで無造作にセットし、服装に合ったアクセサリーを身につけて大学へ向かった。追い出された初日は行くところがなく、友人の家に泊めてもらう予定だった。そのときに清真の悪口をボロクソ言ったが、事情を知っている友人は「お前が悪いだろ。どう考えても」と聡の意見には賛成してくれなかった。そのことから、友人と揉める事になり、聡はその日に二人もの人間に家を追い出された。
 それでも聡は自分が悪いとは思わない。分かってくれない清真と友人が悪いと、勝手に決めつけ、次は女の子の家を転々とし始めた。
 携帯のアドレスに何百件も入っている女の子のメモリーを呼び出して、電話をする。暇だから、ちょっと遊ばない? と声をかけるだけで、女の子は喜んで聡を迎え入れてくれた。
 ご飯を作ってとおねだりをすれば、女の子は「分かったぁ!」とかわいい声で返事をして、女の子らしいかわいい料理を作ってくれる。清真の作る、和食で肉の少ない料理なんかではなく、グラタン、ハンバーグ、オムライスなど、家庭的で女の子がいかにも作りそうなものをいっぱい作ってくれた。
 最初は美味い美味いと喜び、バクバクと食べていた聡だったが、洋食はどうも味が濃くて胃もたれする。それが1週間も続くとなると、ある意味、拷問だった。
 拷問のような飯を朝から食べさせられ、聡はぐったりとしながら、キャンバス内を歩いていた。
 清真に見放され、友人にも見放され、それに加えて毎日拷問のような食事を食べさせられ、精神的にも肉体的にも聡は限界に来ていた。とりあえず、今いる女の家は今日限りで逃げ出し、和食を作ってくれそうな女の子の家に移り住むことにした。
 温かい大根の入った味噌汁が、飲みたくなった。出汁が効いていて、大根は短冊切りでもうひとつの具はワカメでも豆腐でもいい。清真の作る味噌汁は必ず2種類の具が入っていて、1週間は違う味噌汁を出してくれた。基本的に和食ばっかりだったが、時たま中華やエスニック、洋風だって作ってくれた。聡が飽きないように、上手く調整していた。
 味は濃くもなく、薄くもないちょうどいい加減。いつの間にか、食べたいと思うのは清真が作る料理ばかりで、舌が清真の作った料理以外受け入れてない気がした。
 それでも、謝る気はない。追い出したことは、かなり根に持っている。
 ゼミに出席しなければならないと、気落ちしながら歩いていると真横を美青年が通り過ぎた。大学内で自分よりかっこいい男はいないと思っていたが、今通った青年は自分より顔が整っていた。
 にっこりと微笑むだけで、女10人ぐらいは落ちそうだ。
「……誰だ、アイツ」
 自分より顔のいい男は全員敵だと思っている聡は、歩みを止めて振り向いた。遠ざかっていく後姿はどこかで見覚えがあり、首をひねる。茶色い髪の毛は少し長めに切りそろえられていて、ジャケットにジーパンと言うラフな格好だったが、スリムな体が強調されて歩いているだけで人の目を奪っていた。
 美青年が歩みを止めて、聡のいるほうに振り向く。聡はその美青年の顔を見て、目を見開いた。キャンバスのど真ん中で対峙しているのは、紛れもなくこの前自分を家から追い出した清真だった。
「せ、清ちゃん……!?」
 つい、名前を呼んでしまうと、清真は表情を変えずに「1週間ぶりですね。やつれました?」と聡に話しかけてきた。銀縁のメガネをやめてコンタクトにし、一度も染めたことのない黒髪を茶色に変え、服装も少しだけ大人びた格好に変わっただけだと言うのに清真の印象はガラリと変わっていた。
 誰もが振り向く、美青年だ。
「や、やつれてなんか……」
「そうですよね。聡さんだったら、俺の家にいなくても、行くところはいっぱいありそうですし」
 嫌味のように言う清真に、聡は今しかチャンスがないと行動に移ることにした。胃もたれしていて少し具合は悪いし、浮気してしまったこともちょっとは悪く思っている。今のうちに謝って、仲直りをしていっぱいご飯を作ってもらおうと思った矢先だった。
「せーまくーん」
 遠くから清真を呼ぶ女の子の声が聞こえて、聡は後ろを見た。雑誌によく出ているモテカワスリムで愛されガールの象徴とも言える位、ふわふわとした服を着た可愛い女の子が清真に向かって手を振っていた。
「あぁ、サユリちゃん」
 清真の声が聞こえて、聡は清真に目を向ける。昔の自分によく見せていた笑顔で、女の子に手を振っている。その姿に、体の中心がドキと痛くなった。鼓動が早くなって、ドキドキと心臓がぶっ壊れたみたいに動悸が激しくなる。
 このとき、聡は、自分がどれだけ清真のことが好きだったのか、やっと自覚した。ご飯を作るのも、その優しい笑顔も、手を振るそのしぐさだって、全て自分に向けられていないと気がすまない。清真が誰かのために何かをするのとき、相手は自分でないとダメだ。清真の隣に並ぶのも、自分以外許したくなかった。
 心が張り裂けそうなぐらい痛くなって、目頭に涙が浮いてくる。しかし、このような現状に追い込んだのは紛れも無く聡のせいで、清真が聡に愛想を尽かして女の子と付き合ったって、聡には止めることができない。むしろ、今まで清真にこの光景を見せつけてきた聡は、清真がどういう気持ちでその様子を見ていたのかやっと分かった。こんなに苦しくて悲しい思いをさせていたなんて、今まで自分がしてきたことの愚かさと残酷さを思い知った。
 もう、清真は聡の所へ帰ってこない。そう思い始めたら、悲しさと胸の痛みが一斉に襲ってきて鼻の先がツンと痛くなった。
 突然、朝から食べさせられたカルボナーラスパゲティが逆流してくるのが分かった。
 吐く。
 聡は口元を押さえてしゃがみ込んだ。しゃがんだと言うより、倒れかけたに近く、よれよれと道を逸れようとすると「聡さん!?」と清真の声が聞こえた。倒れかけた聡の体をしっかりと支え、支えた手からぬくもりが伝わってきて、聡は泣きそうになった。あの可愛い女の子よりも、自分を取ってくれたんじゃないのかと、希望に似た考えが頭に浮かんだ。
「どうしたんですか。もしかして、おなかが空きすぎたとかですか? ちゃんと食べてなかったんですか?」
 清真の目には、目の前でよれよれになっている聡しか移っておらず、手を振っていたモテカワスリムで愛されガールの女の子など気にも留めていなかった。吐きそうなのか顔色は真っ青で、今にも倒れそうな聡を見たら放っておく事ができなかった。
「ち、が、うっ……」
「え、じゃぁ、もしかしてツワリですか?」
「……なんで、そーなんだよ……」
 聡よりもかなり頭がよくて、どうしてこんなバカ大学に入学したのか理解できない清真が真顔で冗談を言っている。その光景が少し可笑しくて、聡は気力のない笑みを清真に向けた。清真が必死に具合を心配してくれていると、荒んだ心に温かい水が入って来たような穏やかな気持ちになれる。目の前に居る男は、やっぱり自分の物だと自覚した。
「とりあえず、おなか空いてるなら家に行きましょう」
 見るからに細くて非力そうに見える清真だが、隠れた筋肉があるようで、自分とそう背の変わらない聡の体を持ち上げるとおんぶをしてキャンバスを颯爽と歩く。モテカワスリムで愛されガールは、ぽかんと口をあけて清真を見上げ、通り過ぎる人々がおんぶされている聡を見てクスクスと笑っていた。
「ちょ、下ろせって」
「そんな苦しそうな表情してる聡さん、放っておけませんよ……」
「女の子はいいのかよ……」
「別に興味ありません」
 きっぱりと答える清真の顔を、後ろからのぞき見る。真剣な表情で前を見据えている清真の顔は、見慣れなくて、別人に見える。あの黒い髪の毛が、好きだった。メガネの奥にある優しく微笑む目が好きだった。聡を負ぶっている背中はいつの間にか大きくなって、支えているつもりが支えられていた。
「……ごめん」
「え?」
「浮気して、ごめん」
 つぶやく様に聡が言うと、前からクスと笑う声が聞こえた。
「実は、コレ。紺野さん入れ知恵なんです」
「え!?」
 紺野と言うのは、聡の幼馴染にして親友であり、清真との関係を知っている唯一の友人だった。ついでに言うと、清真のところを追い出され、次に行ったのはこの紺野の家だった。
 事あるごとに紺野は、聡の味方ではなく清真の味方をする。それはどうやら、今回も同じだったようで、聡はしてやられたと清真の肩に顔を埋めた。
「聡さんがあまりにも懲りないようだったら、1週間ぐらい追い出したら良いって。追い出すのも苦痛で、すごく嫌だったんですけど、浮気されるのはもっと嫌だったんでこんなことしちゃいました。すみません」
 聡を負ぶって歩く清真は、相変わらず淡々と話し続けていた。けれど、この前とは違って、その声に少しだけ感情が見え隠れしていた。聡を騙して外に追い出したみたいで、嫌だったのだろう。それでも、自分の心が踏み潰されそうな瞬間を何度も目にしてきたことを考えて、聡に別れを切り出した。
 もし、聡が「分かった」と一言で出て行ったらどうするつもりだったのだろうか。
「紺野さんね、聡さんにはこの作戦が一番効くって言うから……。つい」
「いや、元はといえば俺が悪い。清真がいるのに、女の子に手を出したり……」
 聡がそう言うと、清真は心苦しそうに笑って何も言わなかった。好きな人が他の女と並んで歩いていることがどれほど辛いものなのか、今やっと知った聡は本当に悪いことをしたのだなと目の前に居る清真に申し訳なくなった。
「清真、降ろして」
「……え、あ、はい……」
 清ちゃんと言う愛称ではなく、名前で呼ばれ、清真の心臓が跳ねた。キャンバスから出て、人の通行量がそこそこある大通りで聡は清真の顔を見つめた。
 茶色くなった髪の毛と、眼鏡を外した顔は、聡以上に美青年で見ているだけで妬けてくる。こんなにカッコイイなんて、今まで知らなかった。いや、知ろうとしていなかった。好かれている余裕から、清真をちゃんと見ていなかった。
「どうやったら信頼してもらえるか分からないけど、これからは浮気も何もしないから。別れるなんて、言わないでくれ……」
「……俺も、聡さんは手放せないです」
 腕を引っ張られ、聡は清真の胸に飛び込んでしまう。ぎょっとした目で周りが聡たちを見ていたが、気にするのはやめた。女の子を抱いている間、自分は正常なのだと言い聞かせていた。清真に抱かれていると、感じている自分がおかしくなってしまったのではないかと戸惑っていた。そこから始まった浮気は、ズルズルと続いて、最終的には自分の首を思いっきり絞めてしまった。
 けれど、分かったことも沢山あった。
「……帰って、溶けるぐらいアツーイことしよーぜ」
「聡さんから、誘ってくるなんて珍しいですね」
 清真はニコニコと笑って照れて俯いている聡の手を引いた。気持ちに気付いてしまったら、一刻も早く清真と繋がりたいと体が訴えていて、繋がっている手からどんどん火照ってくる。いつもだったら、こんなところで手をつなぐなんてと断っているが、今日は拒むこともできず、聡は引かれるように清真の少し後ろを歩いた。



「……紺野、てっめええええ!! 清ちゃんに入らん知恵入れやがって!!」
「元はと言えば、お前が悪いんだろー」
 翌日、大学のキャンバスで紺野と顔を合わせた聡は、殴りかかる勢いで紺野に詰め寄った。
「後で色々聞いてみたら、清ちゃんがイメチェンするのもお前が手伝ったみてぇだなぁー!」
 昨日、一通り事を終えてから、なぜイメージチェンジをしたのか、聡はさりげなく聞いてみた。さりげなく聞いてみたつもりだったが、直球だったようで清真はクスクスと笑って紺野に手伝ってもらったことを聡に伝えた。無断で紺野が清真を改造したことが気にくわない聡は、紺野の前に立ちふさがってそれ以上前に行かさないようにしていた。
「だって、清真君、元がめちゃくちゃ良いのに、勿体ないじゃん。俺も良い目の保養になったわー。なんで清真君がお前みたいなショボイ男と一緒に居るのか、俺には理解できん。あぁ、あれか。実は床上手とか?」
「殺すぞ、てめぇ!!!」
 殴りかかろうと胸倉を掴むと、紺野は「やめろよー」とへらへらと笑って聡の手を取った。
「元はと言えば、浮気するお前が悪い。今回のことについて、お前が俺を責める要素は一つも無い」
 きっぱりと断言され、聡は言い返すことも殴ることもできずに、一人地団太を踏んでいた。







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