Vain
調子が悪いとか、そんなレベルじゃなかった。何をやっても上手くいかないときってのが、人生には沢山あると誰かが言っていたけれど、しっかりしなければいけないときに、調子が悪いから出来ません、なんて、他人から見たら都合の良い言い訳のように思った。
いい加減にしろと、先輩に怒られた。
たるんでいると、先生に怒鳴られた。
どうしたんだよと、友人に心配された。
俺のことなんて放っておいてほしいのに、みんなが俺を構う。調子が悪いときは誰だってあるんだからさ、落ち着こうぜ、と言った友達に、俺はガキみたいにキレてしまった。そっから、自己嫌悪に陥って、「ごめん」と謝ってから学校を飛び出した。
言い逃げ、ダセェ。
逆ギレ、カッコワルイ。
俺が飛び出しても、誰かが追ってくることは無くてホッとした。一人、土手に座って空を眺める。青く澄んだ空は、高い位置に大きい入道雲があって、かなり眩しい。真夏の空は、大好きだったはずなのに、今はそれが鬱陶しく思えた。すっきりしない暑さは、湿気を多く含んで、体感温度を上げていく。午後2時。気温は30度を越して、暦は残暑に突入し、夏は加速していた。
みんなが俺を心配してくれてるのは分かっている。先生だって、先輩だって、俺に期待をかけているから、怒ったりするんだ。それは分かってるんだけど、頭の中でちゃんと理解しきれてなくて、言いたいこと言いやがってと心の中で悪態をついた。大会が近いし、次の大会こそ、自己記録を更新したい気持ちはいっぱいあるけど、俺の頭の中を占領しているのは、いつも山本だった。
山本のことを思い出すと、胸が苦しくてたまらない。空気があるところで溺れてしまっているような感覚だ。何もかもが手につかなくて、夏休みもそろそろ終わろうとしているのに、宿題も何もやっていない。
俺はあれから、山本と会ってない。
思い出してみると、俺は山本からジャージを借りているし、カバンだって置きっぱなしだった。ジャージは何枚も持ってるから、俺が山本の家に置きっぱなしにしてても問題は無いが、いつまでもいつまでも、山本の家に置きっぱなしってのはさすがにマズイ。
山本の家に行ってから、2週間。
さすがにそろそろジャージを返しに行かなければいけない。母さんにだって「あんた、借りたものはしっかり返しなさいよ」と、毎日、グチグチと言われている。けど、俺はちょっと、山本に会うのが怖かった。
俺は気づかないフリをしている山本の感情、そして、俺の感情。分かったところでどうかなるわけでもないんだろうけど、頭のどこかで気づいちゃいけないって言われてる気がして、考えないように考えないようにと自分の頭に暗示をかけていた。
太陽が、川の水面に反射して、凄く眩しい。煌く川の流れを見つめていたら、近づきたくなって、俺は土手から川へと移動する。階段を下りて、透き通った水を三角座りでジッと見つめていた。
透明な川は冷たく気持ちよさそうで、太陽に照らされて上昇した体を冷やそうと誘う。スパイクを脱いで、靴下を脱ぎ、靴下焼けした足を、水の中に入れる。川の水も、太陽に照らされてあったまったせいか、さほど冷たくは無かった。
「……なんだ」
つまんねぇのと思いながら、川から足を引いて、濡れた足をどうしようかと考える。何の考えもなしに足を突っ込んだは良いが、タオルも何も持っちゃいない。これでは濡れたまま、靴下を履かなきゃと思い、うな垂れていると「何してんの?」と背後から話しかけられた。
「……え?」
聞き覚えのある声に、胸が苦しくなる。この声は、恐らく、山本だ。自信は無いのに、どこか確信はあった。
ゆっくり振り向くと、Tシャツとパーカーを着ている山本が、俺の背後に立っていた。
目が合った途端、心臓が飛び跳ねた。高鳴って、息苦しい。
「部活、どうしたんだよ」
山本は笑顔で俺に尋ねる。この前したことなんかすっかり忘れてますと言った顔で、太陽よりまぶしい笑顔を俺に向けてきた。そんな風に笑われたら、俺、そのうち、溶けてしまいそうだ。
「……スランプだよ」
「え?」
「スランプに陥って、友達に八つ当たって、怒鳴って逃げてきた。俺、すげぇダサい」
どうして山本にこんなことを言ってしまったのか、俺には分からない。多分、山本以外の奴には、こんなことを言えなかったと思う。そんぐらい、山本って奴は不思議な奴だったんだ。
「珍しい。安藤って悩まなそうなのに」
山本は笑ったままそう言って、俺の隣に座った。俺と会うとき、大体、山本は一人だ。クラスでは輪の中の中心に居て、みんなと仲が良いのに、どうして会うときはいつも一人なんだろうか。それが不思議でたまらなかった。
「……俺だって、たまには悩む」
「そうだよな。いくら、悩みがなさそうだって言っても、誰だって悩みってもんは1個ぐらい抱えてるよな」
優しく微笑む山本の横顔を見ていたら、少しだけ鼓動が落ち着いた。俺と成績もそう変わらなくて、いつもみんなとはしゃいでいる山本だけれど、たまに酷く大人びた表情をするときがある。遠くを見つめて、どこか行ってしまいそうな、そんな目を見ると胸騒ぎがした。
「悩みがあるんだったら、俺に相談しろよ」
「……は?」
山本は俺を見て笑う。太陽よりも眩しい笑顔を向けて、俺の頭をわしゃわしゃとかき混ぜるように、撫でる。
触れた場所から、何かが感染したように、熱くなった。
「俺、バカだしさ、陸上とかやってないから、相談とかにはならないかもしんないけどさ。愚痴を聞くぐらいは出来るし。友達に言えないなら、俺に言えばいいじゃん」
友達に言えない事を、山本に言う。それは凄く特別みたいだけれど、実際は、違う気がした。友達に言えないから、山本に言うなんて、山本が友達以下のような気がして寂しくなる。山本は、俺のことを友達以下だと思っているんだろうか。
せめて、友達ぐらいにはなりたい。家の番号も知らないし、クラスじゃ喋ったりしないけど、せめて、友達にはなりたかった。特別なんかじゃなくて、良いんだ。数多くあるうちの、一つになりたい。
「……安藤?」
俯いた俺を見て、山本が心配したように名前を呼ぶ。どうしたの、と、左斜め上から聞こえて、俺は膝に顔を埋めた。遠くから、雷鳴が聞こえる。
「夕立、来そうだな。安藤、ちょっと移動しよ」
頬を冷たい風が撫で、顔を上げたと同時に、俺は山本に抱えられた。一体、何が起こったのか分からず、いきなり近づいた山本の顔を見つめる。
「……お、降ろせよ」
「靴下とか靴とか履いてる時間が勿体無いって。雨はそろそろ、来る」
山本が顔を上げたから、俺も一緒になって顔を上げた。遠かった積乱雲は俺達に近づいてきて、雨を降らそうとしている。雲の下は暗く霞んでいて、あれがこっちに来たら大雨が降るんだろう。山本は手に俺の靴下とスパイクを持つと、俺を抱えたまま、橋の下へと移動した。
「ここなら雨に濡れることはないだろ。つーか、その格好、寒くない? そろそろ雨が降るから、冷えるよ」
練習の最中に飛び出してきたから、俺はタンクトップのままだった。さっきまでうだるような暑さだっただけに気にもならなかったけど、雨が降り出しそうな今、風が冷たくなって少し寒い。
「ちょっと汗ばんでるかもしれないけど、貸すよ」
山本が着ていたパーカーを肩にかけられて、少しだけびっくりしてしまう。山本の体温が多く残っているパーカーは暖かくて、どこか心地よい。パタと雨の落ちる音が聞こえてから、ザーッと雨が降り始めた。
「今日は濡れなかったな」
「え?」
「ほら、この前、夕立の中、走ってただろ?」
この前の話をされるのは少し心苦しく、胸が痛い。ジャージ返さなきゃな、とか、カバンおきっぱだったな、とか、色々言いたいことがあるのに、言葉は声になる前に消えてしまう。両手で、パーカーを押さえて、雨を見つめる。
「……そうだな」
静かに答えて、山本の反応を見た。
山本はこの前のことをどう思っているんだろうか。いきなり、抱きしめられてしまい、俺は逃げた。あの時は、これ以上先に進むのが怖かったんだ。俺が俺じゃなくなるような気がした。山本が山本じゃなくなる気がした。二人とも、変わってしまう気がしたんだ。
「カバン、置きっぱなしでしょ。俺んちに。今度、取りにおいでよ。引っ越して、学校近くなったから、部活の帰りとかにさぁ」
「……うん」
勢いを増す雨を見つめていると、腕を引っ張られて、体勢を崩した。何事かと思えば「こっち向いてよ」と、拗ね気味に言われて、ほんの少しだけ戸惑う。山本を見ていると、苦しくて気持ちを言葉にすることが出来なくなる。胸は張り裂けそうで、息も出来ない。
肺が詰まってしまったようだ。
「なぁ、安藤」
「……な、何だよ……」
「俺のこと、嫌いになった? キモイことした自覚はあるし、悪いと思ってる。嫌だったら、ちゃんと、嫌だって言って……」
俺の腕を掴んでいる山本の手は少しだけ震えていた。山本も俺と同じように苦しそうな顔をして、今にも泣きそうな顔をしている。多分、きっと、俺も同じような顔をしてるんだろうなって思った。
抱きしめられたり、キスされたり。
俺は嫌だったんだろうか。
人が真面目に考えているというのに、考えを邪魔するように雨音が耳を突く。土手の上を通る車が、水溜りを踏んでいく。水音が、俺の思考を惑わせる。
「山本のことは、嫌いじゃ、無い……」
数分使って出た答えは、それだけだった。漏れるような小さい声で言うと、山本は安堵したように笑って「良かった……」と、ため息混じりに漏らす。
喜んだ顔が目に入って、すぐに逸らした。今の顔は、かなりヤバかったように思う。何がヤバいかなんて説明できない。心臓が高鳴ってるどころじゃない。ガンガンと金槌を振りまわしながら、鐘をぶったたいてるみたいだ。
どうしよう、顔が上げれない。
「良かった。俺、ちょっと避けられてるかなって思ってた」
「は……?」
避けるも何も、俺は山本の電話番号も何も知らないし、俺はずっと部活してたから避けるも何もないだろう。茫然として山本を見ていると、山本は「だって、カバン、取りに来ないし」と笑う。
「この前だって、逃げるように帰るしさ。あー、俺、やっちゃったかなーって思って、少し不安だったんだ。でまぁ、今日、暇つぶしに土手を歩いてたら、川で遊んでる安藤を見つけたと」
「遊んでなんかねぇよ!」
「川に足を突っ込んでるの見たら、誰だって遊んでるように見えるだろうよ」
確かに傍から見たら俺は遊んでるように見えるだろう。何だか恥ずかしくなって、俺は俯く。今、考えると、俺はかなり恥ずかしいことをしていたんじゃないんだろうか。
通り雨だと思われた雨は、まだ止まない。ザーザーと、地面を叩いて、水たまりを作っていく。それが目の端に写って、俺は顔を上げて雨の降っている土手を見つめた。
「止まないな、雨」
「もうすぐ止むでしょ。向こうのほう、晴れてるし」
山本は晴天が覗いている雲の端を指さして、そう言う。けれど、雨は中々止まずに、勢いが増す一方だった。こんな雨が夜まで続いたら、明日はグラウンドがぐちゃぐちゃなんだろうなと思って、思った以上に部活をしたがっている自分が居てびっくりした。
「……そっか。早く止むと良いな」
「俺は止まなくても良いけどね」
意地悪な声が背後から聞えて、俺は山本を見る。雨がやまなかったら、ここから移動できないじゃないか。俺も山本も、傘は持っていない。
「な、に、言ってんだよ……」
「人を足止めさせて、愛しい人を帰さないようにする雨を遣らずの雨って言うんだって」
山本は優しく微笑んで、俺を見つめる。愛しい人。と言う言葉に反応しそうになって、俺は口の中に溜まった唾を飲んだ。ダメだ。山本を見ていると、胸が苦しくて、息が出来なくなって、泣きそうになる。
「……雨脚、弱くなってきた。そろそろ、止むな」
俺から目を逸らして、山本は曇天の空を見つめる。言う通り、さっきまでバケツをひっくり返したように地面を打ちつけていた雨は、弱くなってしとしとと滴を落としているような雨に変わった。
「何があったか、分からないけどさ。部活、頑張れよ。応援してるから」
「え、あ……、うん」
「全国大会、行くんだろ? 絶対に行けよ。約束」
そう言って、山本は小指を俺に突き付けてきた。俺はその指に、俺の小指を絡めて、「分かった」と頷く。
触れた指先は、熱かった。
「今度、暇な日、俺の家にカバン取りに来いよ」
「……あぁ、うん」
「雨も止んだし、学校に戻ろうぜ」
そう言って、山本は指を離すと俺の腕を掴んで立ち上がらせる。曇った空からは太陽の光が差し込んで、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
もう少し、雨が続けば良いのにと思った。
今日の雨は、遣らずの雨じゃない。
愛しいって、どう言う感情なんだろう。
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