自信の中に隠れた努力



 俺が投げれば勝つ。それが彼の口癖だった。

 サインを出すと、速攻で首を振られた。その態度が気に食わず、萩野翔太はもう一度、同じサインを出した。それでも、マウンドに立っている男は頑としてそれに頷かず、首を大きく振った。彼が何を投げたいのか、翔太には分かっていた。ご自慢のストレートを投げたいのだ。しかし、そのご自慢のストレートは前打席でツーベースヒットを打たれたのだ。現在、カウントは2-3。九回の裏、1点リードのツーアウト二塁の場面で、そんな無茶な賭けに出れるわけがなかった。
 翔太は仕方なく、サインを変える。出したサインはフォーク。それを見て、相方の平中悠真は不服そうに頷き、翔太から目を逸らした。その状態からセットポジションで構えた時点で、サインに答える気はなさそうだと気付く。どうせ、翔太もストレートのサインも出す気はなかったのだから、仕方なかったが、翔太は一応、下目に構えた。
 一度、二塁ランナーに牽制球を投げ、セカンドからボールを受け取る。これは完全にサインを無視するときの仕草で、苛立ちが募る。元々、仲が良い方ではないから、余計だ。帰ってからケンカだなと思いつつも、投球フォームに入った悠真を見つめた。
 大きく左足が前へ出て、ボールが投げられる。まっすぐ向かってきたボールを見て、翔太は下目に構えていたミットを腹当たりまで上げて、ボールが来るのを待つ。やはり、悠真はサインを無視して、ご自慢のストレートを投げてきた。完璧に打たれただけあって、かなり危険な賭けだ。賭けが勝ったかどうかは、バッター次第だった。
「「あざっしたー!」」
 何とか、ショートライナーを打ち取ることができ、試合には勝った。けれども、最後の最後にどうしてストレートのサインを出したのだと、監督に怒られ、殴られ、挙句の果てにはケツバットを食らい、翔太の機嫌は最高潮に悪かった。フォークのサインを出したと言ったにも関わらず、すっぽ抜けたわけじゃないからと言って、怒られた。監督から全身の信頼を得ている悠真は、怒られることなんて滅多にない。監督の前では、忠実だから余計だ。だからこそ、いつも怒られるのは翔太だった。
「アイツ、殺す」
 荷物をまとめながら、殴られた頬を押さえた。殴られた頬は熱く、ジンジンとして痛かった。歯向かったからと言って、二発ほど余計に叩かれたせいで、頬の感覚はあまりなかった。その顔を見て、ぎょっとする奴が続出した。
「せ、せんぱ……。その顔、どうしたんですか」
「……壁に当たった」
「当たってました!?」
 監督に殴られたとも言えず、翔太は後輩を無視して歩きはじめた。荷物がたくさん詰まったかばんは重たく、前を歩いている悠真を見て、苛立ちが増した。後輩からも慕われている悠真は荷物を後輩に持たせて、手ぶらで歩いている。後輩をなんだと思っているのか知らないが、そんな尊大な態度を取っていると、先輩が許さないだろう。現在、注目されている投手と言って、雑誌に載ったりしているから余計に彼を増長させた。
「おい、翔太。大丈夫か?」
 殴られているのを見ていたのか、サードを守っているキャプテン候補の増田から肩を叩かれた。振り向けば「うわ」と言われ、増田の顔は苦笑いに変わった。
「こりゃー、また、かなり殴られたね」
「最後にストレートのサインを出したことでキレられたんだよ」
「え、お前、ストレートのサインなんか出してたか?」
 サードからはサインが良く見えていたようで、増田は目を丸くして翔太にそう尋ねた。それから数秒後に「……あぁ」と言って、悠真の後ろ姿を見つめる。サインに首を振りまくっているのを見ていたのだろう。悠真がサインに頷きながらも、それに従わなかった。あれは遠目からでも分かったようだ。
「すっぽ抜け……、ってわけでもなさそうだったしな。きれーに回転かかってたし」
「見事に打たれたご自慢のストレートで勝負したかったんだろ。同じ球を投げるなんて、俺にはできねー」
 わざと大声でそういうと、前を歩いていた悠真が振りかえった。翔太は振り返った悠真を睨みつけて、今日のサイン無視について許すつもりは無かった。勝てたから良いものの、これで負けていたら翔太はもっと怒られていただろう。
「お前はもうちょっと投手のことを知ったほうがいい。多少のワガママに付き合うのも、キャッチャーの役目だろ」
 上から見下ろされて、キレそうになったのは言うまでも無かった。投げたい球種を知りつつも、変化球のサインを出したのはその打者が変化球に弱いのを知っていたからだ。事前からちゃんと調査していたにも関わらず、悠真は最初からストレートで勝負する気だった。1回目の打席は、詰まらせて内野ゴロ。2回目も投げたい球を投げさせてやったが、完全に読まれてしまっていたせいか、ツーベースヒットを打たれた。それも、内角の打ちにくいコースを選んで、詰まらせ気味だったのに打球は風に乗ってぐんぐんと伸び、センターの頭上を越えてしまった。次の打席でストレートを投げれば、ホームランで逆転負けする可能性だって大にあった。だから、翔太は2番目に得意なスライダーのサインを出したのだが、悠真がそれに頷かなかった。
「多少? ふざけたことをぬかすな。お前のワガママは多少じゃない。少しはキャッチャーの言うことをきけ」
「ぜってーイヤ。俺が投げて負けたことあるか? ねーだろ。俺はなぁ、甲子園で優勝するまで負ける気はねーんだよ」
 他人が聞いたら、夢みたいなことを言うなと言うだろう。しかし、悠真の目は真剣だった。それを見上げて、翔太は息を飲み込む。目指すところは甲子園出場ではない。甲子園で優勝することだ。道のりが険しいことは分かっているし、そのために毎日、苦しく厳しい練習に耐えているのだ。
「負けたことあんだろうが。俺のサイン無視して、すっぽ抜けフォーク投げて逆転さよならホームラン打たれたの忘れたか?」
 自分の都合の悪い記憶は忘れてしまうのか、ふざけたことを言った悠真に翔太はすぐ言い返した。3年が控えている中、2年でレギュラーなのは悠真と翔太と増田だけだ。出ている試合も数多くなり、負けている試合だって少なからずあった。
「……あれは練習試合だろ!」
「見事な負け方に、監督も言葉無かったからなぁ。あれは俺のせいじゃねぇ。完全にお前のせいだ。つーか、お前ってさぁ、自分のことすげーすげーって言うけど、お前が人より秀でてるのって、ストレートぐらいじゃねぇか。カーブはへなちょこだし、フォークもよくすっぽ抜ける。スライダーだって変化してるかどうか微妙じゃねーか」
 鬱憤が溜まっていたこともあって、思っていたことをズバズバと言ってしまう。普段からチームメートには優しく、先輩からの信頼も厚く、後輩からは尊敬されている翔太がこんなにも文句を言うのは悠真だけだった。悠真の唇が悔しそうに、震える。
「うるせぇよ! お前だってこの前、盗塁刺せなかったじゃねーか!」
「それはお前が牽制全然なげねーからだろ」
「サインしろよ!」
「俺のサインに従ったことなんて、全然ねーだろ!!」
 このままでは取っ組み合いのケンカになるところで、翔太の後ろにいた増田が止めた。今にも突っかかりそうな翔太の腕を掴んで、「やめろって」と小声で呟いた。監督にしろ、増田にしろ、いつも止められるのは翔太だ。それが無性にイラついて、何も言わずに悠真を睨みつけた。
「悠真も。翔太の出してるサインは的確なんだから、たまには頷いてやれよ」
「うるせー、増田」
 窘めた増田に悪態をつき、悠真は前を向いた。駐車場に停まっているぞろぞろと遠征用のバスに乗り込んで、翔太は一番後ろの隅っこに座る。寮に着くまでは寝ようと思っていたら、隣に3年の先輩が座り、眠ることができなくなってしまった。増田はどこだと視線で探すと、増田は翔太の3つ前に座り、先輩から色々言われている。次期キャプテン候補なだけあって、先輩からの期待も強く、試合が終わるたびにああして話し合いをしていた。いつも翔太が隣に座るから、話を又聞きしていることが多いけれど、今日ばかりは違っていた。
 ちらりと視線を向けると、隣には3年生のピッチャーだ。悠真がいなかったら、彼がエースナンバーをつけていたに違いない。そう考えると、隣に座っているのが気まずく感じた。
「平中、ナイスピッチングだったね。最後はヒヤッとしたけど」
 控えめな声が聞こえて、翔太は隣に居る先輩へと目を向けた。ライバルで、自分の居場所を奪った敵のはずなのに、褒めるというのはどういうことなのだろうかと先輩の様子を伺ってしまう。自分が先輩の立場なら、バッテリーである翔太すらも恨むだろう。
「萩野は、何でうちの学校に来たの?」
 どうして、そんなことを今更きいてきたのだろうかと、翔太は不思議に思った。甲子園の常連で、優勝経験は春に2回、夏に4回と成績はとても良い学校だ。春夏連覇も一度だけしたことがあるのだ。野球をやっている中学生のほとんどが、この学校に入りたいと思っていても過言ではない。現に翔太も、中学のときに声をかけられてこの学校へやってきたのだ。
「勝ちたいから、来たんですよ。元々、行きたいなってのもありましたし」
「そう言えば、平中は中学のときから注目されてたよね。平中と、バッテリー組みたかった?」
 翔太と悠真は中学こそ違えど、互いにその存在は知っていた。特に悠真の場合、投手としてとても有名で雑誌に載ったりなどしていたが、グランドから観戦したりなどしていて、あまり興味を持っていなかった。それよりも、翔太は憧れている人が居たからだ。その人には、やはり、負けているのではないかと思ってしまう。
「いや、あんな奴と組みたくなかったっすよ」
「……え? でも、平中は……」
「俺、他に組みたい人が居たんですよ。ま、その人、超有名学校から一般の公立高校行っちゃって……。戦うことすらできなかったんですけどね」
 寂しげな表情を見せた翔太に、先輩は「……そっか」と小さい声で呟いた。一つ年上の、悠真より有名な投手だった。背もさほど高くないと言うのに、鋭い球を投げるその人が、今でも鮮明に思い出せる。公立高校へ行ったと聞いて、一度だけ電車を乗り継ぎ、他県にまで様子を見に行ったことがある。静かなグランドに、ポツンと立っているその人を見て、翔太は物凄くショックを受けた。壁に向かってボールを投げていて、あの綺麗なフォームは健在だったからこそ、余計にショックだった。
「北川先輩と同い年だったんで、きっと、先輩も知ってますよ」
 暗くなった顔を明るくして、翔太は出来るだけ元気にそう言った。関東ではかなり有名な投手だっただけに、その名を知らぬ人は少ないだろう。ましてや、こうして強豪校なら、余計にだ。
「あ、それってー……」
 北川がその投手の名前に気付いたようで、名を上げようとしたとき、「おい!」と前から大声が聞こえて会話がぴたりと止んだ。顔を上げると、悠真が翔太を見下ろしていて、二人揃ってあからさまに嫌悪を顔に出した。
「……話しかけんなよ。うるっせーなぁ」
 先ほどとは打って変わって、低い声を出した翔太に北川がぎょっとした顔で見た。翔太が悠真にだけ冷たいことを知っているのは、同じ学年だけだ。それを目の当たりにしてしまい、人当たりのいい優しいイメージがぶち壊された。
「さ、サインの確認するんだよ! お前の出すサインは早すぎてたまにみえねーんだよ!」
「は? アレ以上、遅く出したら、審判に怒られんだろ。ただでさえ、お前、何回も首振るのに」
「じゃぁ、もっと分かりやすくしろ! お前のサインは分かりにくいから見逃す!」
 そんな高圧的に言われれば言われるほど、苛立ちは募る一方だった。そんなサインを分かりやすくしたって、首を振るときは振るのだ。いちいち、考え直すのも面倒だった。これから、夏の選手権に向けて予選が始まる。予選は悠真や増田は出ないけれど、なぜか翔太は1戦目から出される。サインはみんな同じのを使っているから、変えるのが面倒だった。
「絶対、イヤ」
 目を見てはっきり断ると、悠真が悔しそうに唇をかみ締めた。そんなことをしている間に、寮へ到着してしまい、北川とは寮の階が違うのでそのまま別れる事になった。ぶり返した熱い気持ちを抑えきれず、翔太は駆け足で部屋に入ると3年前の雑誌を手に取る。どんなピンチのときでも、平然としていて、感情を乱したりなどしない。キャッチャーのサインは基本的に頷き、確実な投球をしていた。コントロールは抜群だし、球威は悠真ほど無いけれど、奪三振は彼のほうがはるかに多かった。こんな素晴らしい投手とバッテリーが組めたら、至福だ。けれども、その夢は儚くも崩れ去ってしまった。
 静かに雑誌を閉じると、勢いよく部屋の扉が開いた。基本的に学校の寮は二人一部屋で、野球部はグランドの近くに寮がある。年毎に階が変わり、翔太の学年は一番上の4階だった。乱暴にドアを開けた同室の奴を横目で見て、翔太はため息をついた。
「静かに開けろよ」
 部屋を決めるとき、キャッチャーとピッチャーだからと言う理由だけで、翔太と悠真は同じ部屋にされた。事前の調査から、二人が将来的にレギュラーを取ってバッテリーを組むと大半の人が分かっていた。だから、同じ部屋のが良いと先輩が勝手に決め、同室にされた。
 10回以上、部屋の移動申請を出しているのに、寮長はそれを認めてくれなかった。毎日毎日、学校でも部活でもムカついているのに、同室で寝るまでイラつくのはイヤだった。
「……うるせぇ」
 入ってきた悠真は自分のベッドの上にカバンを置いて、中身を取りだす。今日の練習試合で汚れた服を早めに洗濯しないと、後で面倒になる。悠真が洗濯を出しているのを見て、翔太もカバンの中から汚れた服を取りだした。
「今日の最後、何でストレートのサイン、出さなかったんだよ」
 ふてぶてしい声が聞こえて、翔太は悠真を見た。悠真は翔太に背を向けた状態で、洗濯物が入っている袋を握りしめていた。その背中が少しだけ寂しそうに見えたけれど、翔太は「前の打席で打たれたから」と突き放すように答えた。
「……それだけかよ」
「後は、あのバッターが変化球に弱いこと、知ってたから。2打席目までは我慢してストレート使ってたけど、最後は振らして終わらせたかっただけ」
 勝てる試合だっただけに、賭けには出たくなかった。と言うのが、翔太の本音だった。いくら練習試合と言えど、レギュラーを出しているのだから、余裕で勝ちたかったのだ。それなのに、悠真がストレートに拘ったせいで苦戦してしまった。今日の試合は楽に勝てるはずだったのだ。
「……お前さ、ストレートに拘りすぎなんだよ。ストレート投げて気持ちいいのは自分だけだろ」
 ストレートに自信を持っているからこそ、使える場面では出来るだけ使ってきた。それなりに早いのは捕っていても分かるが、ストレートだけで勝負が出来るほど甘くは無かった。当本人はストレートだけで勝てると思っているようだが、それだと今日のように危ない試合になる。
 悠真のストレートがどれほど凄いのか、翔太はちゃんと分かっている。けれども、それで勝負が出来るほど、甲子園優勝の道は優しくなかった。
「俺は常に勝つことを考えてるんだよ」
「……それは俺だって一緒だ!」
「じゃぁ、もう少し、お前も俺の言うこと聞けよ」
 静かにそう言うと、悠真は何も言い返さず、ゆっくり振り返った。座っている翔太を見下ろして、苦々しく顔を顰めている。元々、整った顔立ちをしているだけに、勿体ない顔だった。それをボーっと見つめ、翔太は「言い返すなら言い返せよ」と冷たく言い放った。
「俺に、足りないもんって何だよ」
「はぁ?」
「俺は、勝負球で勝てる投手になりたいんだよ!」
 大声で言われて、翔太は目を丸くした。何故、大声でそんなことを叫んだのか、翔太にはよく分かっていない。けれども、悠真の真剣な目を見て、かなり見直した。中学のときから有名だったから、かなり図に乗っていると思っていた。初対面も印象が悪く、最初から険悪だったのだ。それが根付いて、自分に自信がありすぎる自意識過剰な奴だと思いこんでいた。
「変化球……、じゃねぇの?」
「よし、じゃぁ今から練習するから付き合え!!!」
「は、はぁああああ!?」
 誰もがみな目指している場所へ行くのに、努力しない人などいない。
「お前は俺と組むの嫌かもしれないけど!! お、お前は、……お、俺の……、………………だろっ!!」
 いきなり声が小さくなり、何を言っているのか分からなかった。翔太は怪訝な顔をして、「はぁ?」と聞き返すと、悠真は顔を真っ赤にして「良いから行くぞ!」と言って翔太の手を引っ張った。これから洗濯をして、風呂に入るつもりだったのに、予定が台無しだ。
「ふざけんなよ! 俺、腹減ってんだよ! やるなら一人でやれよ!」
「うるせぇ! やるったらやんだよ!! ごちゃごちゃ言わずに付き合え!」
 悠真の怒声が廊下にまで響いた。ぎゃあぎゃあと言い合いをしながらグランドへ向かう二人を見て、チームメートはクスクスと笑う。
 まだ、胸の奥に秘めた気持ちに、二人は気付いていない。

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